岩崎城 (尾張国)

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岩崎城(いわさきじょう)は、尾張国愛知郡(現在の愛知県日進市岩崎)にあった戦国時代平山城である。正確な築城年代は不明であるが、もっとも古い記録によると尾張国勝幡城(現・愛知県愛西市)主・織田信秀織田信長の父)の支城であった。

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岩崎城
愛知県
模擬天守
模擬天守
城郭構造 平山城
天守構造 なし
模擬3層4階(RC造り
築城主 不明(織田信秀?)
築城年 不明
主な改修者 丹羽氏清
主な城主 織田氏・松平氏・丹羽氏
廃城年 1600年
遺構 曲輪・空堀・土塁・土橋・建造物跡・井戸跡など
指定文化財 なし
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岩崎の戦い

享禄2年(1529年)、三河国岡崎城主・松平清康徳川家康の祖父)が、織田信秀の属将・荒川頼宗の守備する岩崎城を尾張国攻略の足がかりとして兵7000を率い攻め落とした。しかし天文4年(1535年)「森山崩れ」により清康が死去すると松平氏の勢力は岩崎城から後退し、松平氏の案内人として行動していた本郷城(現在の日進市本郷)主・丹羽氏清が移り住み、4代続けて岩崎城主として戦国時代を生き抜くこととなる。

横山の戦い

天文20年(1551年)、岩崎城主丹羽氏清氏識(うじさと)親子に対して、一族の藤島城(現在の日進市藤島)主・丹羽氏秀親子が起こしたと伝えられる内部紛争。

氏秀は当時17歳であった織田信長に援軍を求め、信長軍が横山(現在の日進市北高上付近)に差し掛かったところ、信長軍の進軍を聞きつけ待ちかまえていた岩崎丹羽軍が急襲し信長軍は敗退、氏秀親子は三河へ逃げ延びた。

この戦いは、寛政2年(1790年)3月丹羽氏福が丹羽氏の事績を著した「丹羽氏軍功録」のみに出てくる記述であり、真偽のほどは定かではない。

小牧・長久手の戦いと岩崎城の戦い

天正12年(1584年)に起きた岩崎城の戦いとは、小牧・長久手の戦いのうち長久手の戦いの緒戦となった戦いである。両軍の膠着状態を打ち破るため、秀吉方によって実行された「三河中入(なかいり)」作戦を阻止し、池田軍の進軍を止めたという点で大きな功績を残した戦いであった。この時の当主・丹羽氏次はこの戦いで弟の氏重を失ったが、家康からの信頼を得てその後の戦いにも多くの功績を挙げることとなる。

落城後の岩崎城

長久手の戦いの後、落城した岩崎城が再建されたかは確かではないが、慶長5年(1600年関ヶ原の戦いで丹羽氏次は徳川方として参戦、その功績を認められ三河国伊保(現在の愛知県豊田市)1万石の大名として栄転し、岩崎城はここで廃城となる。

現在の岩崎城

廃城後は3百年以上も整備されることは無く、本丸跡は畑となっていた。明治43年(1910年)に旧尾張藩士らの手により、岩崎城の戦いで戦死した丹羽軍将兵を慰めるため、「表忠義」の題を持つ記念碑が本丸の櫓台に建てられた。現在でも毎年4月9日には慰霊祭が行われている。

また昭和62年(1987年)には、展望塔として五重構造の天守閣(模擬天守)が築城、「岩崎城址公園」として整備され、併設する岩崎城歴史記念館には岩崎城の歴史や城跡からの出土品などが展示されている。また整備中に偶然発見された6世紀ごろの古墳の跡も公園内に展示されている。その他、二の丸には水琴窟を持った日本庭園が造られている。

城郭の構造

台地の先端部を堀切で分断して平山城を形成している。周囲を土塁空堀・帯曲輪で囲まれた本丸には、東南部に建造物・西北に人工的に土を盛り上げて作った台(標高・約66メートル)が備わっていた。また本丸の馬出とも言える二の丸など、いくつかの曲輪が本丸の周囲を固めていた。空堀は当初は薬研堀であったが、後に一部は箱堀に作り変えられていたことが調査で判明している。

関連項目

外部リンク