実如

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実如(實如[1]

長禄2年8月10日 - 大永5年2月2日
1458年9月26日 - 1525年3月5日
1458年9月17日 - 1525年2月23日

上段・旧暦 中段・グレゴリオ暦換算[2] 下段・ユリウス暦
実如影像
幼名 光養
法名 實如
院号 敎恩院
光兼
尊称 実如上人
宗旨 浄土真宗
宗派 (後の本願寺系諸派)
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実如(じつにょ、實如[1])は、室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧。諱は光兼。院号は教恩院。本願寺第9世。

生涯

年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。

長禄2年8月10日(1458年9月26日[2] )、本願寺第8世蓮如の第8子(5男)として誕生。母は伊勢貞房の娘蓮祐尼(蓮如の2番目の夫人)。

文正2年(1467年)、延暦寺から「仏敵」とされ京都を追われた父・蓮如がやむなく延暦寺に屈した時に蓮如の隠居と長男順如の廃嫡、そして当時光養丸と呼ばれていた実如への家督継承が強要されるが、本願寺の勢力回復とともに有耶無耶となり、元のように順如が法嗣とされた。文明15年(1483年)、長兄である順如の死没により改めて法嗣となる(そのため、法主が後継者指名に用いた譲状が実如には2枚存在する)。延徳8年(1489年)、父の退隠にともない、本願寺を継承し第9世となる。

継承後も父により急激に拡大した教団を維持する必要があった。特に実如が重視したのは管領細川政元との関係である。かつて加賀一向一揆守護富樫政親を攻め滅ぼした際に9代将軍足利義尚が本願寺に討伐令を下そうとしていた折に政元がこれに強く反対して討伐令を撤回させたという経緯があったため、実如は大きな恩義を感じていた。明応4年(1495年)、加賀一向一揆の指導者で反政元派の河合宣久の粛清を容認する。明応8年(1499年3月25日、蓮如歿。翌年には嫡男である照如が早世する。

永正3年(1506年)、細川政元の要請を受けて畠山義英討伐への協力に応じると、畠山氏との関係が深かった摂津河内の門徒が猛反発し、実如の異母弟で畠山氏の血を引く実賢(後に近江称徳寺住持)を石山御坊にて擁立して法主交替を求める。実如はこれを力づくで抑え込む(河内国錯乱)。

永正4年(1507年)、政元の養子・澄之が政元を暗殺永正の錯乱)してもう1人の養子・澄元と争うと、その争いに巻き込まれた実如は澄元により一時山科本願寺を追放され、近江堅田本福寺住持明顕明宗の協力を得て堅田御坊へ逃れた。

永正6年(1509年)に山科本願寺に復帰するが、この事態に苦慮した実如は、同母弟の蓮淳、息子円如と共に北陸門徒に対し一揆の禁止をはじめとする3か条の戒めを発布したり、本願寺の一族を一門衆(嫡男)と一家衆(次男以下)に分ける一門一家制を設けたり、宗門信条の基本とするなどの策を講じた。大永元年(1521年)、青蓮院脇門跡に任ぜられるが、同年に円如が急死、孫の証如が後継者となった。

大永5年2月2日(1525年3月5日[2] )、68歳にて示寂。証如が後を継いだが、幼い証如に代わって蓮淳が後見人(証如の外祖父でもあった)として本願寺を取り仕切った。

脚注欄

  1. ^ a b 實如…新字体が用いられる以前の文献に用いられた旧字体。
  2. ^ a b c グレゴリオ暦換算。本願寺派では、グレゴリオ暦に換算した生没年を用いる。