大洋丸

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船歴
起工
進水 1911年8月
竣工 1911年11月18日
その後 1942年5月8日戦没
主要目
総トン数 14,458 トン
載貨重量トン数 6,926 トン
全長 180.0 m
垂線間長 170.99 m
型幅 19.87 m
型深 10.57 m
吃水 8.32 m
主機 四連成レシプロ機関 2基
出力 10,711馬力(最大)
航海速力 14.0ノット
最高速力 16.62ノット
船客定員 計 855名
  • 一等 184名
  • 二等 221名
  • 三等 450名
国際呼出符号 SHVK→JAHA

大洋丸(たいようまる)はかつて東洋汽船日本郵船が運航していた客船で、元は第一次世界大戦ドイツから賠償船として譲渡された「カップ・フィニステレ(Cap Finisterre)en」である。カップ・フィニステレの名はスペイン北西部ガリシア州のフィニステレ岬に由来する。

概要

1911年11月18日、ドイツのハンブルク・サウス・アメリカ・ライン(略称 Hamburg Süd en)の南米航路客船「カップ・フィニステレen」としてハンブルクブローム・ウント・フォス社で竣工。12月2日よりハンブルク〜ブエノスアイレス間に就航した。

1914年8月、第一次世界大戦の影響で係船され、ドイツ敗戦後の1919年4月にはアメリカ海軍の軍隊輸送船となり、同年末にはイギリスに引き渡された。 さらに翌1920年7月には賠償船として日本政府に引き渡され、1921年より東洋汽船に運航が委託され「大洋丸」としてサンフランシスコ航路に就航する。

日本では当時最大級の客船であり、政府内での利用方法の討議の末、船会社に運航を委託することになった。しかし最大手の日本郵船はこの打診を拒否する一方、別の賠償船割当客船クライスト(8959トン1907年建造、もと北ドイツ・ロイド汽船・略称 NDLen所属)を受託し、吉野丸として運航した。[1] 他社も慎重な姿勢を示し、受入れ先が決まらないことから、報道では本船の大きく高いハウス構造、ラプラタ河航行を想定した浅い喫水からくるトップヘヴィに映る船形が欠陥であるように報じた。 実際には、各社が受託を拒んだのは政府からの干渉条件、貨物輸送主体の営業航路に大型客船が採算的に合致しなかったこと、第一次世界大戦終結により余剰となった投資が負債となっていたことが挙げられる。

一通り各社への要請が空振りに終わった後の、高橋是清内閣閣僚の懇願に東洋汽船社長淺野総一郎が折れて、本船を受諾したとされる。以前サンフランシスコ航路を撤退したパシフィック・メイル・汽船enの売船を引き受けた償却も終わっておらず、さらに負担が増す状態だった。

東洋汽船に引き渡された本船は「大洋丸」と命名され、煙突を切り詰め、デッドウエイト・バラストを増加するなどの改修工事を施された。本番前に香港-横浜間を運航、淺野社長自らが乗船し安田善次郎ら政財界重鎮を招待した。この航海によって、荷主等へ安全性を強くアピールし、優雅なインテリアを持つドイツ製客船大洋丸の宣伝へと役立てた。

1926年に東洋汽船の旅客船部門が日本郵船に吸収されると本船も日本郵船の運航となり、1929年5月4日には大蔵省より130万円で払い下げられ、正式に日本郵船の所有となった。このサンフランシスコ航路で僚船だった天洋丸級ほかは、浅間丸級三隻の新造で漸次係船退役後解体されたものの、天洋丸級の春洋丸と同年代であった本船は引き続き運用される。世界恐慌や移民法改正といった全般的な集客取扱貨物の減少、航路への政府助成や日本郵船社内での予算の逼迫から航路ごとの保有船舶を整理するに当たって、天洋丸級はタービン機関であるため燃費に劣ったのに対し、大洋丸は旧来のレシプロ機関でやや振動は大きく居住性、速度は劣るものの、ドイツ製の堅牢な船体とあわせて低コストで運用が可能であったこと、政府保有船を譲渡された来歴から、老船ながら存続に至る。 ディーゼル機関を搭載し高速の浅間丸級と不釣り合いな組み合わせとなった。

1932年のロサンゼルスオリンピックでは陸上競技、女子競泳・男女飛込水球漕艇などの日本代表や競技役員など選手団本隊が搭乗した[2][3]。6月30日に出帆、三等客室に仮設十畳敷レスリング場を設置し、乗客の厚意でプールは競泳女子チームの練習用に提供され、松澤初穂女子主将や前畑秀子などの代表選手が使用した。また古い大洋丸を避け漕艇競技のボートといった用具は浅間丸に搭載した。

1939年10月国策会社東亜海運へ移管、上海航路に転配される。サンフランシスコ航路は外交関係悪化後減便され、1941年7月休航、他の北米航路も8月に途絶た。大洋丸はその一隻として、10月20日神戸港から横浜港(10月21日出航)を経由ホノルルを往復する(11月1日到着、5日に復航、17日横浜帰港)。往航搭乗者は引揚げ外国人301名、復航は日本人帰国者447名であった。

太平洋戦争開戦後は日本陸軍の輸送船となり、1942年5月5日、民間人を含む1360名、物資2300tを乗せ宇品港を出港、他4隻と特設砲艦(貨物船改造)1隻の船団を組み9ノットでシンガポールに向けて航行中、5月8日午後8時40分頃に長崎県男女群島に近い北緯30度45分 東経127度40分 / 北緯30.750度 東経127.667度 / 30.750; 127.667の海域で米潜水艦「グレナディアー(SS-210)」等の雷撃を受け、浸水直後積荷のカーバイド150tが引火炎上、さらに弾薬へ誘爆、被雷から約55分後に沈没。南方占領地のインフラ整備に召集された鐘淵紡績小野田セメント三菱商事住友商事三井物産などの営業マンや、台湾烏山頭ダム八田與一をはじめとした技術者ら乗客、軍属、船員他817名が殉難した。

日本郵船は大洋丸が東亜海運へ移管された後も引き続き、乗組員人事を担当した。遭難時の船長原田敬助は、最初の魚雷攻撃から災害処置、避難誘導の指示に尽力し、最終は退船を拒否した。航海前に行われた船団運行会議の際には、原田船長は船団全体の航行速度が9ノットでは潜水艦に攻撃される危険が大きいこと、弾薬などの危険物を乗客と同時に積載することを危惧し、軍側へ憂慮を示していたとされる。

参考資料

  • 船舶技術協会『船の科学』1980年7月号 第33巻第7号
  • 海人社『世界の艦船』1996年11月号 No.516
  • 海人社『世界の艦船』2003年6月号 No.611
  • 社会思想社『企業戦士たちの太平洋戦争 大洋丸事件の真相』小田桐誠著 1993年5月 ISBN-13 978-4390114851
  • NTT出版『豪華客船の文化史』野間恒著 1993年4月 ISBN4-87188-210-1 第五章 第一次大戦と客船(三)大戦後の太平洋 P.158
  • 毎日新聞社別冊『一億人の昭和史・昭和船舶史』1980年5月
  • 新人物往来社『海なお深く』全日本海員組合編 1986年8月 「第六章 残された者の戦記船と人の訃報処理係として」記 二口一雄

脚注

  1. ^ 「明治大正財政史20」財政経済学会1939 p146
  2. ^ 大洋丸 ■近代化遺産ルネッサンス 戦時下に喪われた日本の商船
  3. ^ オリムピック選手消息片々 (PDF) 日本水上競技連盟『水泳』第13号 1932年8月

外部リンク