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増毛郡

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増毛郡(ましけぐん)は、北海道の北海道に11ヶ国86郡が設置された際におかれた。人口3,671人、面積369.72km²、人口密度9.93人/km²。(2024年5月31日、住民基本台帳人口)

以下の1町を含む。

沿革

江戸時代の増毛郡域は西蝦夷地に属し、松前藩によってマシケ場所が開かれていた。陸上交通は、安政4年(寛政8年との資料もある)には増毛山道が開削されている。この道は南の石狩国浜益郡から増毛に至る9里(35.3km)余を結ぶ目的で浜益、増毛の両場所請負人伊達林右衛門が自費を投じ工事を行っている。この他、増毛山道よりも海側に開削年不詳であるが石狩国浜益郡の千代志別と雄冬を結ぶ雄冬山道(雄冬山道は岩老まで海岸を進み、そこから山に入って増毛山道に合流)も存在した。

江戸時代初期寛文9年6月日高国域を中心に起こったシャクシャインの戦いの際、マシケ周辺でも多くの和人が殺された。江戸時代中期宝永年間には厳島神社が創建されている。江戸時代後期になると文化4年国防上の理由から増毛郡域は天領とされ文化6年には津軽藩によって増毛勤番越冬陣屋が築かれた。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり今度は秋田藩が元陣屋を築き警固を行った。このとき、藩士や住民の死者をまつるため秋田藩が一堂守を建立し普伝寺と名付けた。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制に倣い増毛郡が置かれる。北海道天塩国に含まれた。明治2年8月28日から廃藩置県の行われた明治4年8月まで山口藩の所領となっていた。

関連項目