坂本直子 (陸上選手)

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坂本 直子(さかもと なおこ、1980年11月14日 - )は、日本の女子陸上競技選手(主に長距離走マラソン)。アテネオリンピック女子マラソン日本代表・7位入賞。兵庫県西宮市出身。

西宮市立真砂中学校、兵庫県立西宮高等学校を経て、1999年天満屋に入社。天満屋の元所属選手では、シドニーオリンピック女子マラソン代表の山口衛里(天満屋元コーチ・現アドバイザー)、世界陸上エドモントン大会代表の松尾和美松岡理恵北海道マラソン優勝の森本友など、現役選手には北京オリンピック代表の中村友梨香ロンドンオリンピック代表の重友梨佐らが所属している。

マラソンに取り組む前

西宮高校時代、トラック競技ではインターハイ兵庫県予選3000mで7位、駅伝競走では全国高校駅伝兵庫県予選で3位と、共に全国の舞台に立つ事はなかった。また同県に須磨女子高校(現須磨学園高校)の堀江知佳の存在もあって、無名に近い存在だった。高校卒業後、天満屋女子陸上部に所属するも、暫くはトラック競技や駅伝での出場がメインであったが、天満屋入社から4年近く経過した2003年、満を持してフルマラソン初挑戦を迎える事となる。

マラソン選手として

マラソン初挑戦

初マラソンだった2003年1月大阪国際女子マラソンでは、山中美和子がスタート直後から集団の先頭にたち、前半から5km毎のラップが16分台の高速なペースでレースが始まった。その後、先頭を引っ張っていた山中が20km過ぎの折り返し点で故障発生により途中棄権、ほか田中(現・大島)めぐみ(7位)に続いて小崎まり(5位)等が遅れるも、坂本は終始ハイペースの先頭集団に果敢についていった。そしてレース後半の30km過ぎ、坂本自らがロングスパートを開始、優勝した野口みずきと壮絶なデッドヒートを演じたが、35km過ぎで逆に野口に突き放される。その後坂本はレース終盤で失速、2位に入った千葉真子にも長居陸上競技場手前で抜かれて3位に落ちた。それでも坂本は当時渋井陽子の持っていた、初マラソン日本女子最高記録を更新した(マラソン日本女子歴代記録では5位。また大阪では野口、千葉、坂本の三人が国内最高の2時間21分台をマーク)。この成績が評価され、世界陸上パリ大会女子マラソン代表に選出となった。

世界陸上パリ大会

2003年8月の世界陸上女子マラソン本番では、30km過ぎまでは先頭集団についていたが、その後優勝し金メダルを獲得したキャサリン・ヌデレバケニア)がスパートすると、坂本を含めた日本女子選手達はついていけずに後退。それでも銀メダルの野口みずき、銅メダルの千葉真子(前述の大阪と同様にスタジアム手前で千葉に抜かれて)に続いて、坂本は4位入賞と健闘した(その内、野口がアテネオリンピック女子マラソン代表に即内定となった)。

アテネ五輪への挑戦

2004年8月開催のアテネオリンピックの女子マラソン国内選考レースである、同年1月の大阪国際女子マラソンでは、号砲直前まで雪が降り続き、気温3.7度という厳しい寒さの中でスタート。ペースメーカーがいない事もあってか、最初の5kmと10kmまでの5kmラップが、18分を超える超スローペースの中で先頭集団は進んでいった。レースが動いたのは大阪城公園内の27km付近。先に仕掛けたのは千葉真子だったが、坂本、渋井陽子、大南博美の3人はその千葉の飛び出しについていった。それから30km地点の給水所を過ぎた直後、坂本がひとり猛烈なスパートを開始すると、2位だった千葉を初め、大南(3位)も渋井(9位)も坂本に全くついていけなくなった。スパートした坂本の30km~35kmのスプリットタイムは15分47秒、日本女子では30kmを過ぎてから初めて5kmラップが15分台を記録する驚異的なハイペースだった。そのまま坂本が逃げ切って、3度目の正直でフルマラソン初優勝を果たした。

アテネ五輪代表決定

2004年3月日本陸連の理事会において、坂本は同年アテネ五輪女子マラソンの、念願であった日本代表に最後の3番目で選出された。なおその際坂本と最後の椅子を争った相手は、前回シドニー五輪女子マラソン金メダリストの高橋尚子がいたが、その高橋がアテネ五輪落選となり、当時大きな波紋を呼んだ(他代表選手は野口みずきと土佐礼子補欠は千葉真子)。五輪代表決定の記者会見で、「高橋尚子選手に対して何かコメントは?」と質問された際、坂本は困惑した表情で「別に無いです」と述べるに留まった。

オリンピアード

アテネオリンピックまでの坂本は、順調にトレーニングを積み重ねているとの報道が流れていたが、実際は故障もあって思うように練習がはかどらなかった。結局坂本の体調は不十分のまま不安の中で、2004年8月のアテネ五輪女子マラソンの本番を迎えた。レース前半のスローペースにはついたものの、中盤の25kmから野口がロングスパートを仕掛けると、坂本を初め強豪選手達が徐々に遅れ始めていった。それでも坂本は苦しみながらも最後迄粘り強く走り、なんとか7位でゴールした(野口が優勝し金メダル獲得、土佐礼子も5位入賞)。坂本のオリンピック7位入賞は、奇しくも天満屋の先輩である山口衛里の、前回シドニー五輪女子マラソンの時と全く同じ順位だった。ゴール直後のインタビューでの坂本は笑顔で応対していたが、その後「体調が万全の状態で走りたかった」と、悔し涙を流したという。

故障続きの挫折・復活ならず

アテネ五輪後は、2005年11月淡路島女子駅伝競走大会への出走後、度重なる故障に悩まされ、2006年はフルマラソンを初め、駅伝やトラックレース等にも出場していなかった。2007年に入りケガが回復、復帰戦として同年7月8日の札幌国際ハーフマラソンに出走(ゴールタイムは1時間14分28秒で30位)。アテネ五輪以来3年1か月ぶりのフルマラソンとなった、2007年9月ベルリンマラソンでは終盤ペースが落ちたものの、日本女子トップの5位でゴールした。しかしその後右足首の痛みが再発した為、2008年8月の北京オリンピックの女子マラソン国内選考会である、同年1月の大阪国際女子マラソンへの出走を回避。調整が大幅に遅れながらも、最終選考会である3月の名古屋国際女子マラソンに強行出場した。

その名古屋の本番レースでは、28km過ぎの折り返し地点を通過後、一時トップに立ちスパートを仕掛けるなど積極的な所も見せたが、やはり故障の影響があったのか32km手前で失速、結局10位のゴールインに終わった(同じ天満屋所属で高校の後輩でもある中村友梨香が優勝、北京五輪代表入りとなる)。これにより、2大会連続のオリンピック出場は夢幻と消えた。レース終了後の坂本は「この4年間、苦しい事ばかりで…選考会に出られて良かったと思います。残念ながら結果は出ませんでしたけど、自分なりに納得しています」と眼を潤ませながらプレスインタビューに答えていた。

2009年8月の北海道マラソンへ約1年半ぶりのフルマラソンに出走(昨2008年の同大会は欠場)したが、レース序盤から優勝争いに加われず13位に留まる。2010年10月シカゴマラソンでは29位に終わったが、2011年2月横浜国際女子マラソンでは10位に入った。

2012年8月のロンドンオリンピック女子マラソン国内選考会である、2012年1月の大阪国際女子マラソンは一般参加選手で出場。しかしレース数日前風邪で体調を崩した影響もあってか、15Km過ぎまではハイペースの先頭集団に必死についていったものの、集団から脱落後は離される一方となり結果10位と復活はならなかった(同じ天満屋所属の後輩である重友梨佐が優勝、ロンドン五輪代表入りを果たした)。

エピソード

  • 坂本は、出身が兵庫県西宮市ということで熱烈な「トラ党」(阪神タイガースファン)を公言している。2004年のアテネ五輪代表になった時には『甲子園球場のマウンドで始球式をやってみたいですねぇ。男の子だったら絶対に野球をやってましたから』と語っていた。

記録(マラソン全成績)

年月 大会 順位 記録 備考
2003年1月 大阪国際女子マラソン 3位 2時間21分51秒 初マラソン日本女子最高記録、歴代5位
2003年8月 世界陸上パリ大会女子マラソン 4位 2時間25分25秒 4位入賞、団体戦日本女子金メダル獲得
2004年1月 大阪国際女子マラソン 優勝 2時間25分29秒 マラソン初優勝
2004年8月 アテネオリンピック女子マラソン 7位 2時間31分43秒 五輪7位入賞
2007年9月 ベルリンマラソン 5位 2時間28分33秒 .
2008年3月 名古屋国際女子マラソン 10位 2時間30分21秒 .
2009年8月 北海道マラソン 13位 2時間40分43秒 .
2010年10月 シカゴマラソン 29位 2時間44分47秒 .
2011年2月 横浜国際女子マラソン 10位 2時間35分17秒 .
2012年1月 大阪国際女子マラソン 10位 2時間39分27秒 .

関連項目

外部リンク