国忌

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国忌(こくき/こっき/こき)とは、天皇崩御した日のこと。

この日に朝廷寺院において天皇の追善供養を執り行い、日程が重なる神事は延期された。更に天皇は廃朝官司廃務とされ、歌舞音曲は禁止され、違反者には杖罪80という重い処罰が課された。後には天皇の父母や后妃などの命日も国忌として指定された。

概要

朱鳥元年9月9日686年10月1日)に天武天皇崩御すると、皇后であった鸕野讚良(後の持統天皇)は翌年(持統天皇元年、687年)の9月9日を「国忌」と定めて都の寺院に斎会を開くように命じた。翌年(持統天皇2年、688年)2月には国忌には必ず斎会を開くように命じた。大宝2年(702年)12月、文武天皇は自分を育てた祖母持統上皇の実父であり、天武天皇の実兄でもある天智天皇の忌日である12月3日を国忌に追加した。

その後、歴代天皇やその生母、天皇の実父でありながら皇位を継ぐことなく亡くなった追尊天皇の忌日も国忌に追加され、桓武天皇の時代には16にまで達した。そこで桓武天皇は延暦10年(791年3月23日になって、中国の天子七廟の制に倣って国忌を7つとすることとし、古い時代のものや現在の天皇と疎遠なものは廃止することとした。この時の7つとは、天皇の曾祖父(天智天皇)・祖父母(志貴皇子紀橡姫)・両親(光仁天皇高野新笠)・自身の皇后(藤原乙牟漏)と平城天皇大同2年(806年)に廃止された聖武天皇の合わせて7つとされている(聖武天皇の存置の理由は不明)。ただし、その後国忌の追加と古い国忌の廃止を同時には行わなかった(必要に応じて無関係に行った)ため、再び増加して国忌の数が9もしくは10で前後していた清和天皇の時代に中国の例に倣って国忌の追加と廃止を同時に行うようになって以後、9で固定化された。ただし、天智・光仁・桓武・仁明光孝の5天皇の国忌は永続的なものとみなされたらしく、実際には天皇1及び后妃3の範囲で追加と廃止が同時に行われていたとされている。そして、醍醐天皇の崩御後に文徳天皇に代わって追加(陽成宇多両上皇は当時健在)されたのを最後に天皇や皇后が遺詔で国忌追加を辞退する文言が盛り込まれる例が確立されたために、以後先の5天皇と醍醐天皇の6天皇を国忌の対象とする例が確立され、一方后妃の3枠(藤原乙牟漏・藤原沢子藤原胤子)は順次廃されて、代わって亡くなった天皇の生母でかつ皇太后を贈位された者に対するものに変化していった。歴史上、確認される最後の国忌加除は寛元2年(1244年6月27日後嵯峨天皇が自分の生母源通子を国忌に加えて二条天皇の生母藤原懿子を除いたのが最後である。その後、永正元年(1504年)に後柏原天皇が生母源朝子の忌日を国忌に加えようとしたが、財政難を理由に断念している。

国忌に関する具体的な規定が初めて登場したのは、養老律令儀制令(「国忌日、謂先皇崩日、依別式合廃務者」)が最初とされている。その後、延喜式において国忌に関する規定が整備された。それによれば国忌の斎会は東寺西寺で開かれ、参議以上・弁官外記から各1名及び諸司の役人が参加し、不参者は処罰を受けた。勤仕僧100名によって転経・礼仏・散華・行香・呪願などが行われ、終了後に勤仕僧・参加官人・転経数などの名簿を含めた上奏文が作成されて天皇に提出された。先に記された通り、醍醐天皇が国忌に追加されて以後は天皇・皇后は遺によって国忌を辞退していたが、天皇・皇后の没後に追善法要が行われなかった訳ではなかった。宮中や御願寺などの故人ゆかりの寺院において追善法要が行われ、これらの法要を俗に「国忌」と称して国家行事としての国忌よりもこちらの国忌の方に力が注がれるようになった。特に天皇の父母に対する法要は「天皇御前の儀」と称されて天皇の普段の居所となっていた清涼殿内にて法会が開かれた。中世に入ると、国家行事としての国忌はほとんど行われなくなり、天皇や皇親の私的行事としての国忌のみが行われるようになった。

中国の国忌

中国では、皇帝や皇后の忌日には、仏寺道観において、斎会を設け香を焚く風習があった。王溥が撰した『唐会要』の「忌日」の項には「京城及び天下の州府の諸寺観では、国忌行香を行うこと、一切を旧に仍る。」とある。『資治通鑑』唐紀六十七の懿宗咸通九年十一月の条には「(龐)勛は用うること能わざるといえども、然れども国忌には行香せり。」とある。胡三省の注には「唐は中世より以後、国忌の日ごとに、天下州府をして悉く寺観に於いて斎を設け香を焚かしむ。開成の初め、礼部侍郎の崔蠡はその事の経(けい)に無きを以て、拠りて奏して之を罷めたるも、尋いで旧に復す。」とある。宋の王禹の『小畜集』巻七「律詩」「呉江県寺留題」の詩には、「晨斎施笋は唯だ溪叟のみす、国忌行香は祇だ県官のみす。」とある。宋の趙彦衛の『雲麓漫鈔』巻三には「国忌行香は、後魏及び江左南斉の間に起こり、每に香を燃やし手を燻じ、或いは香末を以て散行し、之れを行香と謂う。」とある。

参考文献