呉佩孚
呉佩孚 | |
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1924年のタイム誌の表紙 | |
プロフィール | |
出生: |
1874年4月22日 (清同治13年正月初7日) |
死去: |
1939年(民国28年)12月4日 中華民国北京特別市 |
出身地: | 清山東省登州府蓬莱県 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 吳佩孚 |
簡体字: | 吴佩孚 |
拼音: | Wú Pèifú |
ラテン字: | Wu P'ei-fu |
和名表記: | ご はいふ |
発音転記: | ウー ペイフー |
呉 佩孚(ご はいふ)は清末民初の軍人・政治家。北洋軍閥直隷派の首領。字は子玉。
山東省に商人の家庭に生まれる。科挙に合格し官吏登用の道が開かれるも、事件に巻き込まれて失脚し一時北京で易者として生計を立てた。1898年に聶士成率いる淮軍に入隊し、開平武備学堂を経て保定陸軍軍官学校を卒業。その後1906年には管帯に昇進、曹錕の部下となり、以後曹と行動を共にすることが多くなる。
その後、護国戦争や護法軍の鎮圧にも参加。1920年の安直戦争で段祺瑞率いる安徽派を北京政府から追い、直隷省・山東省・河南省3省の巡閲副使となる。ところが政府の主導権をめぐって同盟を結んでいた張作霖らの奉天派と対立。1922年に第一次奉直戦争に勝利して、陸軍参謀総長を経て直隷省・山東省・河南省3省の巡閲使・航空監督となる。1923年2月4日に始まった労働組合「京漢鉄道総工会」の京漢鉄道全線ストライキに対して、軍隊を出動させ、江岸では労働者が多数死傷した[1]。1924年には第二次奉直戦争で再び奉天派と戦うものの、部下の馮玉祥の裏切りにあい敗北。湖北省へと逃れて孫伝芳らと、奉天派および奉天派と組んだ安徽派・馮らの国民軍に対し再度攻撃を仕掛ける。しかし1926年に北伐に来ていた国民政府軍に敗れて、四川省へと逃れる。
晩年は北平に寓居し、盧溝橋事件以降は日本軍から協力を求められるが態度を鮮明とせず、1939年に死去。歯科医の抜歯直後に急死したため日本軍による暗殺説が囁かれ、国民政府からは陸軍一級上将を追贈された。
出典
参考文献
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年
中華民国(北京政府)
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