千島 (通報艦)

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艦歴
計画: 1885年度計画
起工: 1890年1月29日
進水: 1890年11月26日
就役: 1892年4月1日
その後: 1892年11月30日沈没
性能諸元
排水量: 常備:750t
全長: 垂線間長:71.0m
全幅: 7.8m
吃水: 2.9m
機関: レシプロ蒸気機関2軸
5,000馬力
最大速: 22.0kt
兵員:
兵装: 速射砲11基

千島(ちしま)は、日本海軍通報艦。強力な魚雷兵装を持つ水雷砲艦として建造された。艦名は千島列島にちなんで名づけられた。

艦歴

エミール・ベルタンが、自ら信奉するジューヌ・エコール思想に基づいて設計を行い、1890年にフランス、ロワール社サン・ナゼール造船所で起工し、1892年に竣工。当初、最大船速22ノットが約束されていたが、試運転で19ノット程度しか達成できなかったため、1年ほど引渡しが遅れた。

フランスを出港し、アレクサンドリアスエズ運河シンガポールを経由して、1892年11月24日に長崎に到着した。11月28日に長崎から神戸に向けて出港し、30日午前4時58分、愛媛県興居島沖で、神戸から出港したP&O社所属の商船ラベンナ(Ravenna)に衝突され沈没し、乗組員90名の内74名が犠牲となった。

この事故は国際問題に発展し、横浜のイギリス領事裁判所に提訴され日本側の実質勝訴だったが、上海の英国高等領事裁判所での第2審では敗訴した。後にイギリス枢密院に上訴して差し戻し判決が出されたため、最終的にイギリス政府の意向で和解となった(千島艦事件)。

参考資料

  • 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
  • 木俣滋郎『艦艇発達史』〈光人社NF文庫〉、2002年。

関連項目