凌雲閣
凌雲閣 | |
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情報 | |
用途 | 展望台他 |
設計者 | ウィリアム・K・バートン |
構造形式 | 赤煉瓦 |
高さ | 52m |
竣工 | 明治23年(1890年)11月 |
所在地 | 東京府東京市浅草 |
座標: 北緯35度42分55.5秒 東経139度47分36.0秒 / 北緯35.715417度 東経139.793333度
凌雲閣(りょううんかく)は、明治期から大正末期まで東京・浅草にあった12階建ての塔。名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。12階建てだったので「浅草十二階」と呼ばれたほか、「浅草凌雲閣」という名でも知られていた。関東大震災で半壊し、解体された。
概要
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崩壊した凌雲閣
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徳永柳州「第一震十二階の倒壊」
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震災前後の凌雲閣(絵はがき)
凌雲閣は、写真家で東京市議会議員であった江崎礼二の発案で、東京における高層建築物の先駆けとして建築され、藤岡市助による日本初の電動式エレベーターが設置されたことでも知られる。完成当時は12階建ての建築物は珍しく、モダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。明治・大正期の『浅草六区名所絵はがき』には、しばしば大池越しの凌雲閣が写っており、リュミエールの短編映画にもその姿が登場する。
建物の中は、8階までは世界各国の物販店で、それより上層階は展望室であった。展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができた。
1890年の開業時には多数の人々で賑わったが、明治末期には客足が減り、経営難に陥った。1911年6月1日に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ。なお設計者のウィリアム・K・バルトン(バートン)は設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、設計時の構造強度ではエレベーターの施工は危険であると猛烈に反対したと言う。関東大震災時の崩落はバルトンの指摘通り、起こるべくして起こった惨劇と言える。
凌雲閣はその高さゆえに浅草のランドマークとなり、石川啄木の詩歌や江戸川乱歩の代表的短編『押絵と旅する男』など、数多くの文学作品にその姿は登場する。しかし、1923年9月1日に発生した関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊。地震発生当時頂上展望台付近には12 - 3名の見物者がいたが、福助足袋の看板に引っかかり助かった1名を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死した。経営難から復旧が困難であったため、同年に陸軍工兵隊により爆破解体された。跡地は後に映画館の浅草東映劇場となるが、現在はパチンコ店になっている。
ちなみに戦後、浅草・田原町交差点に凌雲閣を模した「仁丹塔」という、森下仁丹の広告塔が存在し、こちらもランドマークとして人々に親しまれていたが、これも1986年に老朽化によって解体された(現在はコンビニエンスストアのam/pmが立地)。
完成当時のデータ
- 開業日:1890年11月11日
- 当初11月10日と報じられたが、来賓の都合で翌11日に繰り延べられた。エレベーターの日(11月10日)はこの当初の報道にちなんでいる。(※一部資料において13日との記述もあるが、11日が有力説と考えられる)
- 高さ:173尺(約52m)
- 当初220尺と報じられたが、再調査の結果、避雷針も含めて173尺であることが明らかになった。
- 建坪:37坪(122.31m²)
- 設計:ウィリアム・K・バルトン(William K. Burton、イギリス人、お雇い外国人)
- 入場料:大人8銭、子供4銭
- 構造:10階まで煉瓦造り、11・12階は木造
- 1階は入り口階、2階-7階は諸外国の物品販売店(計46店舗)、8階は休憩室、10階-12階は展望室。
- 1-8階にかけて日本初のエレベーターが設置された(開業当日より故障が頻発し、翌1891年5月に使用中止に)。
- 12階の展望室には望遠鏡が設置され、見料は1銭だった。
- 76個の窓があったとされる。
フィクションにおける凌雲閣
凌雲閣の登場するフィクション作品。
関連項目
- 児玉源太郎 - 凌雲閣で催された日露戦争展で、児玉をナポレオンに準えて語り合う二人の陸軍将校の傍に歩き寄り「児玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁いた逸話がある。
- 江戸東京博物館 - 10分の1で復元された模型が常設展示されている。
- 『こちら葛飾区亀有公園前派出所』 - アニメ第214話「十二階で逢いませう」で、凌雲閣に関するエピソードが製作されている。
- パイノパイノパイ(東京節) - 東京の名所の一つとして紹介されている。
外部リンク
- 国立科学博物館 地震資料室、関東大地震写真 - 震災により破壊された凌雲閣の写真が豊富。
- 浅草十二階計画 - 凌雲閣に関する明治・大正期の図版、文献資料。