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伊都内親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊都内親王
時代 平安時代前期
生誕 延暦20年(801年)頃?
薨去 貞観3年9月19日861年10月26日
別名 伊豆内親王
父母 父:桓武天皇、母:藤原平子
兄弟 平城天皇朝原内親王長岡岡成伊予親王良岑安世嵯峨天皇淳和天皇葛原親王大宅内親王高津内親王万多親王高志内親王明日香親王仲野親王佐味親王坂本親王賀陽親王布勢内親王葛井親王安勅内親王賀楽内親王菅原内親王甘南美内親王伊都内親王
阿保親王
在原業平
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伊都内親王(いとないしんのう)は、桓武天皇の第8皇女で、母は宮人・藤原平子中納言藤原乙叡女)[注釈 1]平城天皇嵯峨天皇淳和天皇らの異母妹。阿保親王の室で、在原業平の母。無品[1]。名は伊豆とも表記し[2]、「いず」とも読む。

生涯

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桓武天皇の晩年の頃に生まれる。外祖父・藤原乙叡の母は、桓武朝の尚侍百済王明信である。天長2年(825年)に息子の在原業平を産んでいるので、この頃までには平城天皇の第1皇子の阿保親王の妻になっていたとされる。天長10年には母・平子と死別し、承和9年(842年)には夫とも死別している。嘉祥元年(848年)には都の自宅に落雷があった[3]。『伊勢物語』によると、晩年は長岡(現在の京都府長岡京市)の山荘に暮らしていたらしい。[4]貞観3年(861年)9月19日に薨去[1]

伊都内親王願文

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橘逸勢によって書かれたとされる伊都内親王願文。末尾には「伊都」の署名が書かれている。

伊都内親王が、天長10年に死去した母の藤原平子の遺言により山階寺(現在の興福寺)に香灯読経料を寄進した時の願文が伊都内親王願文で、三筆のひとりである橘逸勢によって書かれたものだと伝えられている。末尾の署名、また文中の手形は内親王本人のものだとされている。御物[5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『本朝皇胤紹運録』では藤原南子とされている

出典

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  1. ^ a b 日本三代実録』貞観三年九月十九日条
  2. ^ 本朝皇胤紹運録
  3. ^ 続日本後紀』嘉祥元年七月丙戌条
  4. ^ 伊勢物語』八十四段「さらぬ別れ」
  5. ^ 『日本大百科全書』「伊都内親王願文」

参考文献

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関連項目

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