人違いバラバラ殺人事件

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人違いバラバラ殺人事件(ひとちがいバラバラさつじんじけん)とは1954年(昭和29年)に埼玉県で発生した殺人事件。この事件では、加害者が殺害対象を誤認して無関係の女性を殺害したうえに、身体をバラバラにした(バラバラ殺人)ことで有名である。また控訴審では証人として法廷に来た、殺害対象であった女性に対して危害を加えたために[要検証]逆転死刑判決が出た。

事件の概要

バラバラ殺人

1954年9月5日埼玉県入間郡高階村(現在の川越市の一部)で、19歳の女性が殺害された。彼女は手拭いで絞殺された後、身体をバラバラにされたうえに肉片や手足を逃げながら畑や肥溜めなど、あちらこちらに一晩中ばら撒いて廻ったという常軌を逸した行為を受けた。同年の11月18日埼玉県警察被疑者としてF(当時29歳)を殺人及び死体損壊と遺棄で逮捕した。Fの供述によれば被害者とは面識は無く、自分が探していた女性と誤認して殺害したというものであった。そのうえ供述によればバラバラにしたのは平素のうっ憤が爆発したためであると主張しており、まず女としての価値を無くす為に、持っていたボンナイフで下腹部と乳房を切り取ったうえ、歩けないようにする為に足を切断したという。そして逃げながら肉片をばら撒いたというものであった。

事件の背景

その女性(以下A子、出会った当時は19歳)とは1950年頃、Fの地元の山梨県塩山市(現在の甲州市)のダンスホールで出会った。A子の優しさゆえの親交をFは自分に対して好意を持っていると勘違いした。そのためA子の両親に結婚を前提にした交際を申し入れた。しかしFは地元では職業を転々として定職につかず窃盗の前科があり少年院にいたことが知れ渡っていた。そのためA子の両親は「定職がなければ認める訳にはいかない」と婉曲に断っていた。しかしFは定職に就けば許してもらえると都合よく解釈し上京した。しかし生来の性分のためか仕事を転々として長続きせず、1年後の1953年7月に再びA子の両親の前に現れたが、そのような状況ではFの申し出を許すはずも無かった。そのためA子の両親は結婚は無理だと断り、A子を埼玉県に住む姉のもとに避難させた。またA子もFに対してうんざりしていた。

しかしFは自分のことが好きなはずだと自惚れており、今で言うストーカーと化し埼玉県に行った。A子の姉の元を尋ねたがA子の居場所を教えてもらえるはずもなかった。しかし代わりに映画館の職を斡旋してもらったため、Fはまじめに住み込みで働いていたが、暇を見つけては埼玉県内を探し歩く日々を続けた。一方のA子といえば、Fと鉢合わせしないように埼玉県から静岡県まで職や住居を転々としながら逃走していた。こうして1年が過ぎた時にFは「A子探しの旅に出る」といって映画館を飛び出したのがバラバラ殺人事件の4日前のことだった。そして、暗がりの路上で村の青年団の行事から帰宅途中の白いブラウスに黒いスカートを着用した無関係の女性をA子と誤認して凶行に及んだ。

法廷内の傷害事件

Fは新聞で人違い殺人したことに気付いたが、それでもなおA子に会いたいと思っていたという。結局彼女に会えたのは証人として呼ばれた一審の法廷であった。彼女はFとの関係を全面拒否した。一審の浦和地方裁判所(現在のさいたま地方裁判所)は1956年2月21日、Fに対し無期懲役を言い渡した。死刑求刑していた検察側は刑が軽すぎると控訴したが、被告人Fも愛しているための事件であるのに無期でも重いなどと主張し控訴した。

控訴審の最終尋問が8月20日に開かれたがFは更なる事件を引き起こした。再び検察側証人として出廷したA子は「勝手に私のことを恋人と思っているだけで、私には関係ない」と断言した。この証言を聞いていたFは激怒し、証言台から引き下がろうとしていたA子の胸を、被告人席から隠し持っていた竹べら(前もって房内にあったハエたたきの柄を折って作っていた)で刺した。幸い全治二週間の怪我ですんだが、法曹関係者は「法廷内における証人の保護」について協議する事態になった。

死刑執行まで

このFが引き起こした法廷内の傷害事件が裁判官の逆鱗に触れたかは明らかでないが、最終弁論の10日後に開かれた8月30日の控訴審判決では一審判決が破棄され、逆転死刑が言い渡された。最高裁1957年7月19日上告棄却し死刑が確定した。結局Fは宮城刑務所(当時東京拘置所に死刑施設がなかったための措置)に送致され1959年5月27日に死刑が執行された。34歳であった。

なおFは、収監中も同囚の者や看守に人違いで殺害した女性の遺体をバラバラにした際の残虐行為を「A子を愛するが故にしたことだ」などと自慢げに周囲の者が辟易するのもお構いなく繰り返し話していた。また自分を死刑囚の立場に追いやって憎いはずのA子について、いかに素晴らしい女であったかを語っていたという。Fは結局のところ最後までA子が好きだったわけである。

参考文献