上海フランス租界

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上海フランス租界 (シャンハイフランスそかい、: La concession française de Changhaï:上海法租界) は上海フランスが置いていた租界1849年から1946年まで租界になっていた。

概要

1849年4月6日、上海にいたフランス領事、シャルル・モンティニーは上海にフランス人の居住領域を租界とすることを提言した。この後黄浦江の西にイギリス租界よりも小さな範囲を中国から租借し、植民地として支配した。この後イギリス租界とアメリカ租界はまとめられ共同租界になったが、フランス租界は単独で残った。1849年に設置されたフランス租界は1900年に小拡張、1914年に大拡張された。フランスは独自に公董局(共同租界で言う工部局)を設置して淮海路を中心に独自にインフラの整備を進め、フランス租界は上海最高級の西洋的で美しい住宅街になっていった。

ヨーロッパ列強の進出によって、香港広州澳門旅順青島威海衛などの土地が列強に割譲され租借地や租界になった。フランスはこの租界の他にも天津漢口広州に租界を持っていたが上海租界はこの中で最も早い時期に設置され、面積も最大であった。

フランスも共同租界と同様に独自の警察機構を持った。フランス租界は上海租界の中でも最も麻薬に対する法規制が薄かったため麻薬の売買も多く、中には租界の警察に賄賂を渡して麻薬売買を公然とおこなう組織もあった。

1943年2月23日、フランスのヴィシー政府は中国で保持していた治外法権を撤廃し、汪兆銘政権に対し、北京公使館区域、上海・皷浪嶼共同租界における行政権、上海、天津漢口広東のフランス専管4租界を返還[1]することを承認したが、汪兆銘政権は中国に於ける中央政府としてフランス政府から承認されていなかった為、日本の斡旋[2]によって順次回収される運びとなり、同年8月1日最後に残った上海フランス専管租界も米英共同租界と共に日本によって中国へ返還された[3]。大戦後、汪兆銘政権が消滅すると蒋介石の国民党がこれらを引き継ぎ、1946年の中仏協定により改めて返還が承認された。

脚注

  1. ^ 『朝日新聞』1943年2月24日付朝刊 1面
  2. ^ 同年1月9日日本は「租界還付及治外法権撤廃等ニ関スル日本国中華民国間協定」に調印しており、1月15日イタリアがこれに続いていた。
  3. ^ 台湾日日新報 1943(昭和18)年8月23日