三峰山の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。VDJ1543 (会話 | 投稿記録) による 2022年11月29日 (火) 16:33個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

三峰山の戦い
モンゴル帝国の金朝征服英語版
戦争第二次対金戦争
年月日太宗4年/正大9年1月16日[1]1232年2月8日
場所鈞州三峰山河南省許昌市禹州市
結果モンゴル帝国の大勝、金朝の事実上滅亡
交戦勢力
モンゴル帝国 金朝
指導者・指揮官
トルイ
オゴデイ
スブタイ
完顔陳和尚  
移剌蒲阿  
完顔合達  
戦力
トルイ麾下4万
オゴデイ援軍10万以上
総勢15万(歩兵13万、騎兵2万)
損害
戦死多数 壊滅、指揮官戦死多数

三峰山の戦い(さんぽうざんのたたかい)は、1232年鈞州三峰山(現在の河南省許昌市禹州市)で行われた金朝モンゴル帝国との戦闘モンゴル帝国の大勝に終わり、金朝の衰退を決定づけた。騎兵2万・歩兵13万、計15万の金朝の大軍はトルイ率いる約4万のモンゴル軍に大敗。主力を失った金朝はモンゴルに対抗する術をなくし、事実上の滅亡状態に追い込まれた。

概要

1230年、モンゴルの新皇帝オゴデイは征伐軍を3方向に分けて金に対する攻略を再開した(第二次対金戦争)。オゴデイが自ら率いる中軍が南下する一方、テムゲ・オッチギンの左翼軍は山東方面から、トルイの右翼軍は陝西方面からそれぞれ挟撃し、金朝の首都の開封を包囲しようとする戦略だった。この過程で、トルイはチンギス・カンの遺詔により南宋の境内に属する漢中を経由するために使者を送り、軍の通過を求めた[2][注釈 1]1231年秋、沔州に到着したモンゴルの使者が南宋の官員に殺害されると、トルイはその仕返しとして漢中に侵入し、南宋の四川制置使はモンゴル軍が境内を通過するのを黙認した[3][4]

こうしたなか、金朝の定遠大将軍の完顔陳和尚はモンゴル支配を避けて亡命してきた多民族からなる亡命者を「忠孝軍」と名付け、寡兵をもってしばしばモンゴル軍に勝利し禦侮中郎将にまで昇進した。金軍は完顔陳和尚の軍を主力とし、黄河南岸と潼関に精兵を集結させ、防御に臨んでいた。しかし、1232年1月にトルイの軍が漢水を渡って河南に入ってきたという情報に、黄河南岸に大軍勢を配置していた金朝は、後方を突かれる形勢に驚愕した[5]。すぐさま、金軍主力に南方への転戦が命じられた[5]。開封南郊の平原でトルイの軍と金軍主力が激突した[5]

強行軍で疲弊していたトルイは三峰山の山麓に陣を張り、ウマから降り、塹壕を掘って猛烈な寒波から身を守った[5]。モンゴル軍、金軍ともに余力はなかったが、モンゴル軍の方は雪中移動や厳冬期の用兵に慣れていた[5]。ひとしきり金軍の猛攻をしのいだ後は、トルイ軍が塹壕から出てきて凍える金軍の兵士を片端から討ち取った[5]。勝敗がほぼ決したのち、北から到着したオゴデイの軍が容易に敗残兵を掃討した[5][注釈 2]

この三峰山の戦いで金軍は大敗を喫し、その主力は壊滅した[5]完顔合達は戦死、敗軍の将となった完顔陳和尚は自らモンゴルの陣営に赴いて処刑された[注釈 3]。以後、金朝は抵抗もままならず、1233年には開封攻囲戦により首都が陥落した[6][7][8]蔡州へ逃げた金朝の残りの勢力を制圧するため、モンゴルは南宋に連合を提案した。南宋では、北方から興隆したモンゴル帝国と結ぶことについて一部の反対論があったものの、結局この提案に乗り、共同作戦が始まった[6][注釈 4]

脚注

注釈

  1. ^ チンギス・カンは臨終直前に対金攻略の方策を助言し、潼関を避けるために南宋に道を借りるという遺詔を残した。
  2. ^ チンギス・カンの後継者と目されていたトルイは、この戦勝から帰還する途上で急逝した[5]
  3. ^ 完顔陳和尚の武人らしい潔い態度は、モンゴル陣営からも称賛された。
  4. ^ 理宗に仕えた南宋の官僚の趙范中国語版は、「かつて北方から興った金朝と結んで遼を挟撃したことがあったが、それは結局災禍を招いただけであった」と述べ、同盟に慎重な意見を進言したが、弟の趙葵中国語版は、「現国家の兵力は十分ではなく、しばらくモンゴルと和して、国力が充実したら徽宗・欽宗の恥をそそいで中原を回復すべし」と主張し、趙葵の意見が通った[6]

出典

  1. ^ 『金史』巻17, 哀宗紀上 正大九年正月丁酉条による。
  2. ^ 『元史』巻1, 太祖紀 二十二年七月己丑条
  3. ^ 『宋史紀事本末』巻90, 紹定四年七月条
  4. ^ 『元史』巻121, 按竺邇伝
  5. ^ a b c d e f g h i 杉山(2008)pp.121-122
  6. ^ a b c 梅村(2008)pp.423-431
  7. ^ 佐伯(1975)pp.315-316
  8. ^ 河内(1989)pp.235-237

参考文献

  • 金史
  • 元史
  • 宋史紀事本末
  • 梅村坦「第2部 中央ユーラシアのエネルギー」『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』中央公論新社〈中公文庫〉、2008年6月。ISBN 978-4-12-204997-0 
  • 佐伯富 著「金国の侵入/宋の南渡」、宮崎市定 編『世界の歴史6 宋と元』中央公論社〈中公文庫〉、1975年1月。 
  • 杉山正明「第1部 はるかなる大モンゴル帝国」『世界の歴史9 大モンゴルの時代』中央公論新社〈中公文庫〉、2008年8月。ISBN 978-4-12-205044-0 
  • 三上次男神田信夫 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年9月。ISBN 4-634-44030-X 
    • 河内良弘 著「第2部第I章2 契丹・女真」、三上・神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。 

外部リンク