ヴィト・ジェノヴェーゼ

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ヴィト・ジェノヴェーゼ
1969年
生誕 1897年11月2日
イタリア王国の旗 イタリア王国カンパニア州ロシリーノ
死没 1969年2月14日(71歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ミズーリ州スプリングフィールド
職業 マフィア(ジェノヴェーゼ一家)
配偶者 アンナ・ペティーロ・ヴェルノティコ
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ヴィト・ジェノヴェーゼ

ヴィト・ジェノヴェーゼ: Vito Genovese1897年11月2日 - 1969年2月14日)は、アメリカ合衆国ニューヨークのイタリア系犯罪組織マフィアコーサ・ノストラ」のボス。性格は残忍で狡猾、権力欲が旺盛だった。

生涯

若年期

イタリアナポリ近郊の小さな町リジリアノ(Rigisliano)に生まれ、1912年一家で渡米し、ニューヨーク・クイーンズ区のオゾン・パークに住んだ。1917年、銃の不法所持で逮捕された。グリニッジ・ヴィレッジのトンプソン・ストリートで商店の配送係をやりながら、周辺のナポリ系移民街でイタリアン・ロッテリー(違法宝くじ)を始め、ギャング団を結成した(トンプソン・ストリート・ギャング)。1923年、ニューヨークマフィアの仲間入りをした[1]。1924年5月、ブルックリンのプロスペクト・パークで、ライバルギャングとカーチェイスの末、木に激突して頭を大怪我した[2]

1920年代半ば、密輸ギャングのポール・シシリアーノ[3]の下で密輸トラックの運転手や武装用心棒を務め、酒を卸しにシシリアーノ宅に出入りしていたフランク・コステロラッキー・ルチアーノと知り合った[4]

ルチアーノ一家

1930年、ジョー・マッセリアサルヴァトーレ・マランツァーノの対立が沸騰していた頃(カステランマレーゼ戦争)、ブルックリンのバスビーチで紙幣偽造を行った[5]。マッセリア派幹部になっていたラッキー・ルチアーノと提携し、ジョー・アドニスマイク・ミランダらとナポリ人部隊を形成した。1931年4月、ルチアーノのマッセリア殺害に加担した(言い伝えではその実行犯とされる)。ニューヨークのマフィア勢力を五大ファミリーに整理したマランツァーノは、ルチアーノを旧マッセリア派のボスと認めたが、国際シンジケートを目指すルチアーノの考え方と相容れず、同年9月、ルチアーノに謀殺された。一説に、ジェノヴェーゼはルチアーノ、コステロらと共にマランツァーノの暗殺リストに載っていたとされる[6]。ルチアーノが五大ファミリーを再編すると、ルチアーノ一家の副ボスの座を得た。

1930年代前半、グリニッジ・ヴィレッジに確固たる地盤を築き、賭博や密輸で大富豪になった。稼ぎの規模が大きくなると、オリーヴオイル貿易会社を立ち上げ、合法偽装した。1931年9月、最初の妻を結核で失い、悲しみにくれて豪華な葬儀をしたが、当時の新聞にその葬式の豪華さを報じられ、「オリーヴオイルやイタリア産チーズの貿易商で、2つの大型レストランを経営する実業家」と紹介された[7]。翌年グリニッジ・ヴィレッジのクラブにいたアンナ・ペティーロ・ヴェルノティコと再婚した。

ボッシア殺人事件

1934年9月、賭博のシェアをめぐり揉め事を起こしたフェルディナンド・ボッシアをヒットマン2人を雇って殺害した(ボッシア仲間ウィリー・ギャロも殺そうとしたが、殺しを引き受けたアーネスト・ルポロの銃撃は失敗し、ギャロは一命を取り留めた)。一説に、カード賭博の客から15万ドルを巻き上げたが、ボッシアが自分が連れてきた客だと言って3万5千ドルを要求したため、殺したとされる[8][9]

1935年、トーマス・デューイの公共の敵リストに載った。1936年6月ルチアーノの逮捕により一家の代理ボスになった。1937年8月22日、現金75万ドルを持ってイタリアヘ逃亡した。ジェノヴェーゼの国外脱出によりフランク・コステロが一家の代理ボスになった。

イタリア逃亡

イタリアのナポリ近郊ノーラに落ち着くと、ムッソリーニの息子に取り入り、25万ドルをファシスト政権に献金した。当時ムッソリーニ政権がマフィアの徹底弾圧政策を取っていたにもかかわらず、ベニート・ムッソリーニ本人と親しい仲になった[10]。ファシスト党への貢献が認められて最高の栄誉の「コメンダトーレ」の称号を授与された。1943年にはムッソリーニ批判の急先鋒だったニューヨークの著名ライター、カルロ・トレスカ殺害をお膳立てしたとされる(下手人はカーマイン・ギャランテとされる)[11]。やがてナポリで地元カモッラの麻薬取引に参入した[10]

1943年連合国軍がイタリアに上陸してムッソリーニ政権を倒すと、立場を変えてアメリカ軍情報部に取り入った。駐留アメリカ海軍司令部の公式な通訳に任命されると、その立場を利用して軍需品の横流し・転売で稼いだ(マフィアが連合国軍のイタリア上陸を手助けした関係から、多くの米軍将校がマフィアを通じて私腹を肥やし、マフィアもその恩恵を受けていた)。シチリアの地元マフィア、カルゲロ・ビジーニと組んで大麦オリーブオイル等の密売を手掛け、南イタリアの闇市を支配した[11]。ジェノヴェーゼが砂糖や小麦粉などをアメリカ軍から盗み、近隣の町で売りさばいているという情報が軍情報部に入り、通訳を解任された。

1944年6月、ウィリー・ギャロ暗殺未遂で監獄にいたルポロが、減刑と引き換えにジェノヴェーゼら6人のボッシア殺しに関する証言を開始し、ジェノヴェーゼは指名手配された。1944年8月27日、ノーラでアメリカ軍犯罪調査官のオレンジ・C・ディッキーに逮捕され、1945年6月1日アメリカに連行された[12]。ディッキーに25万ドルの賄賂を申し出てアメリカへの連行を逃れようとしたが、ディッキーに断られた[12]。1945年から1946年にかけ、ボッシア殺人事件の証人ジェレミア・エスポジト、ピーター・ラテンパら2人が組織の人間に殺されており、検察側の使えるカードはボッシア殺しに直接関わっていないルポロの証言のみとなった。1946年6月10日、証拠不十分で無罪釈放された[13]

組織復帰

ルチアーノのイタリア強制送還[14]を境に一家を継いだ新ボスのフランク・コステロと副ボスのウィリー・モレッティは、ジェノヴェーゼの副ボス復帰を認めず、古巣のグリニッジ・ヴィレッジを統率する幹部に甘んじた。組合、企業強請など「ホワイトカラー」犯罪に基盤を持っていたコステロに対し、用心棒代や強盗などストリート系の「ブルーカラー」犯罪に基盤を持っていたジェノヴェーゼは往時の権力を奪回すべく、麻薬ビジネスに没頭した。コステロは麻薬を嫌ったが、ジェノヴェーゼの麻薬ビジネスは黙認した。

1952年12月、妻アンナに離婚訴訟を起こされ、資産や収入を洗いざらい暴露されるなどジェノヴェーゼの家庭騒動がルチアーノ一家の悩みの種になった[15]。イタリア逃亡中の財産管理や妻の保護を、信頼の厚い賭博仲間のスティーブン・フランセに託していたが、アンナはフランセと合法ビジネスをやる傍ら、それを隠れ蓑に多くの(同性を含む)愛人を作った[16][17]。帰国後、夫婦喧嘩が絶えず、別居していた。裁判は妻が勝訴して、正式に離婚した[18]。1953年6月、フランセは多数の打撲痕のある絞殺死体で発見された[19]

収入はイタリアン・ロッテリー、組合、ナイトクラブ、賭博などで、週4万ドルを稼ぎだした[20]。飲食業や不動産、紙パルプなど合法事業も行った。

権力闘争

1951年4月、コステロは盟友のアルバート・アナスタシアをマンガーノ一家ボスに繰り上げて味方陣営を固め、ジェノヴェーゼを牽制した。全米各地の賭博ビジネスで法外な利益を享受していたコステロには自前のクルーがおらず、モレッティの40-60人と言われる屈強な兵隊に依存した。ジェノヴェーゼはモレッティのニュージャージー軍団を忌み嫌っていた。1951年9月、当局やマスコミにオープンな態度で接するモレッティを梅毒の進展により組織に有害な証言をしかねないとしてボスたちの了解を集めて粛清(銃殺)させることに成功し、ニュージャージーの賭博利権に割り込んだ。ジェノヴェーゼはコステロの了解を得て副ボスに復帰した[21]。大多数の幹部はコステロに忠誠を誓い、ジェノヴェーゼ支持派は少数だったため、コステロにボスの資格がないことを幹部に説いて回るなど水面下の工作を始めた[22]

1956年1月、コステロ、ジェノヴェーゼ両方のシンパで仲裁者でもあった古参幹部のアドニスが政府に追われてイタリアに逃亡した。1957年5月、ボスの座を奪うべく部下とコステロの暗殺を謀った。1957年5月2日、若手ヴィンセント・ジガンテに自宅マンションのエレベーターに乗ろうとしたコステロを狙撃させ、コステロは頭部に被弾して倒れた。病院に運ばれ首のかすり傷で済んだコステロは引退を決意した。その1ヵ月後、アナスタシア一家の副ボスでコステロと親しいフランク・スカリーチェが暗殺されたが、ジェノベーゼ黒幕説がある[23]

コステロ襲撃に怒ったアルバート・アナスタシアはホテル会議を招集してジェノヴェーゼを問い詰めたといい、ジェノヴェーゼは「(一家の問題に)口出しするな」という趣旨の発言をして牽制したという[24]。ジェノヴェーゼは、スカリーチェを継いで副ボスになっていたカルロ・ガンビーノを抱き込み、アナスタシアの暗殺を共謀した。アナスタシアはジェノヴェーゼのボス就任を阻止すべく他のボスに根回しをしていたとされるが、1957年10月25日、パークシェラトンの理髪室でマスク面の2人組に銃撃され、即死した(理髪店の虐殺)。コステロは正式に引退を表明し、ジェノヴェーゼに一家を譲り渡した。

ジェノヴェーゼ一家

1957年11月、ボス就任を正式に発表する場と目された全米マフィアのアパラチン会議が、パトロール中の地元警官にあっさりと捕捉され、多くのボスが逮捕される事態を招いた[25]。ジェノヴェーゼの威信は大きく傷ついたが、コステロがジェノヴェーゼに復讐するために警察に事前に情報を流したと噂された(高級車を田舎の山に集めたので不審がった警察が拘束しただけとの説がある)。1958年6月、組織犯罪追及のマクレラン委員会に召喚されたが証言を拒否した。

1959年4月、ルチアーノ、コステロ、ランスキー、ガンビーノらの共謀によって偽証人を仕立てられ、麻薬取引の罪で15年の実刑を受けた。保釈の延長などで抵抗した末、1960年2月11日、アトランタ刑務所に収監された[26]。収監後、代理ボスにアンソニー・"トニー・ベンダー"・ストロッロ、副ボスにジェラルド・"ジェリー"・カテナ、相談役にミケーレ・"ビッグ・マイク"・ミランダを配置し、獄中から一家を支配した[21]

1959年9月、ジェノヴェーゼのボス就任に反旗を翻したコステロ派の古参幹部アンソニー・カルファノを配下"トニー・ベンダー"・ストロッロに暗殺させた(ランスキーとの共謀説がある)[12]。1962年4月、麻薬絡みの理由でトニー・ベンダーを粛清し、後釜の代理ボスにトーマス・エボリを据えた。その後、同じアトランタ刑務所にいた部下のジョゼフ・ヴァラキが自分を裏切ったと錯覚し、ヴァラキの殺害命令を出したが、それに気付いたヴァラキが身の安全のためFBIと司法取引し、1963年8月、コーサ・ノストラの歴史を洗いざらい暴露した[27]

一家は400~500人[28]の構成員・協力者を擁し、縄張りはニュージャージー、コネチカット、ラスベガス、キューバまで及び、1960年代、年間10億ドルを稼いだとされる[29]。晩年、陰謀にはめられたとの強迫観念から疑心暗鬼に陥ったが、コステロたちの陰謀のせいだとは最後まで知らなかった。幹部や側近はジェノヴェーゼと同じ世代の者が多く、ジェノヴェーゼと共に齢を重ね、一家の上層部が高齢化した。脅威になるライバルもおらず、監獄にいながらもその支配力は安泰だった。

死去

1969年2月14日、収監先のミズーリ州スプリングフィールドの刑務所で、末期がんによる心臓発作により死亡した。あと1年の服役で恩赦出所の可能性があった[29]

親族のみで行われた葬儀はマスコミや野次馬でごった返した。参列者には娘や息子の他、元妻アンナの姿があった。マフィア関係者は弟のマイケルのみで、駆け付けた警察やFBIは肩透かしを食らった。FBI職員は参列者を写真撮影していた[29]。ニューヨーク・クイーンズ区セント・ジョーンズ墓地へ埋葬された。墓地にはサルヴァトーレ・マランツァーノジョゼフ・プロファチ、ルチアーノなどの墓があった。

私生活

1930年代、ニュージャージー州の海沿いの静かな町で、禁酒法時代シシリアーノの密輸の拠点に近かったアトランティック・ハイランズに住居を構えた。1935年、ハイランズを見渡せるレッド・ヒル・ロードの小高い丘を購入し、庭師や石工、土建屋を総動員して自分好みのイタリア風の邸宅に作り変えた(現モンマス郡公園ディープ・カット・ガーデンズ)[30]。敷地にはスイミングプールやテニスコートの他、故郷ナポリのベスビオス火山の石造ミニチュアがあり、パーティの時は頂上から煙が出た[31]。イタリアから帰還後この大邸宅を手放したが、ハイランズには住み続けた。

仕事とプライベートを峻別し、プライベートでは平和と安らぎを求めた。長年住んだアトランティック・ハイランズではギャングの匂いを消し、堅実な実業家のように振る舞った。近隣住民と交流し、教会に毎月寄付した。教会が新しい階段を新設しようとした時は喜んで資金援助を申し出た。子供を敬虔なカトリック学校に通わせ、犯罪と縁のない道を歩ませた。ジェノヴェーゼの素性を知っていた地元警察は、「子供は皆行儀正しく敬虔」と、その「良き父親ぶり」に驚いた。娘は学校の先生に、息子は地元の町議を務め、6人の孫に恵まれた[32][33]

ハイランズの住民には評判が良かった。近所の理髪屋に通い、地元のゴルフトーナメントに顔を出して何回か優勝カップを手にした。長年付き合いのあった隣人は、よく家に呼ばれて話をしたり食事をした。収監が決まった時、隣人は、「他人が何を言おうが、彼は優しくて温厚な紳士だ。(離婚後)子供が巣立ち、寂しく暮らしていたので可哀そうだった。刑務所から戻る日を待ちわびている」とコメントした。収監直前には隣人に、「刑務所に行くのは構わないが、麻薬の罪というのが困る。孫が知ったらと思うと胸が張り裂けそうだ」と語っていたという[32]。孫を溺愛し、孫に自家製パスタをご馳走するのが好きだったという。

エピソード

  • 1916年のマフィア-カモッラ戦争時まだ19歳だったが、ナポリ系カモッラを支持したという。
  • 1930年のガエタノ・レイナ暗殺実行犯とも言われたが、異論が多い。否定説は、内部証言者のジョゼフ・ヴァラキジョゼフ・ボナンノがレイナ暗殺にジェノヴェーゼの関与を全く示唆していないことや、レイナの死後ジェノヴェーゼがレイナ娘とヴァラキの結婚式に参加し、レイナの親族と共にそれを祝福している点などを挙げている[34]
  • 最初の妻に死に別れ、アンナ・ペティーロ・ヴェルノティコと再婚しようとしたが、既婚者だった。夫のジェラルド・ヴェルノティコを部下を使って殺害し、その殺害の1週間後に再婚した[35]。自分の欲望のためなら殺害も辞さない残忍な性格だった。
  • 妻に離婚訴訟を起こされたときどうしていいかわからず、よりによってライバルのコステロに相談した。コステロは無難に 「いい弁護士を雇えばいいさ」とアドバイスしたという(ゴシップ)[18]
  • コステロ襲撃後、自宅を引越ししたり、ボデイガードで身の回りを固め復讐を警戒していた。
  • 投獄されたアトランタ刑務所で、たまたま脱税の罪で短期収監されたコステロと再会したが、服役中の身とあって争い事はなかったという[36]
  • 遺言では、財産の90パーセントは娘に、残りの大部分は息子に与えられ、アンナには何も与えられなかったという[37]

題材にした作品等

映画『バラキ』(原題: The Valachi Papers)で描かれたほか、映画『ゴッドファーザー』のモデルの一人とされる。

脚注

  1. ^ 1960年代半ばマフィア幹部レイ・ディカルロの会話を盗聴したFBI記録によると「1923年にニューヨークマフィアの組織に滑り込んだ」という(Informer, Jan.2014)。同書は、非シチリア勢を積極的に傘下に取り込んだジョー・マッセリアの組織を示唆しているが、盗聴はそこまで言及されていない。
  2. ^ Motor Race in Park Ends in Tree Crash Brooklyn Daily Eagle, p. 1, 1924.5.13
  3. ^ ナポリ系ギャング。強盗などをやっていたが、禁酒法下、モンマス郡ロングブランチやレッド・バンクを拠点に酒の密輸をやった。Matthew R. Linderoth, Prohibition on the North Jersey Shore: Gangsters on Vacation, p. 30
  4. ^ Informer, Jan.2014, p. 59
  5. ^ 1930年5月28日、当局が紙幣偽造工場(1726 84丁目)を襲撃し80万ドルの偽造札を押収した。Informer, Jan.2014
  6. ^ ジョゼフ・ヴァラキの証言。Genovese Link To Gang Deaths, Lawrence Journal-World - Oct 2, 1963
  7. ^ Donata Genovese Services Today in Ozone Park Brooklyn Daily Eagle, 1931.9.21
  8. ^ 1 of Group Now in Italy with AMG Brooklyn Daily Eagle, P. 3, 1944.8.8
  9. ^ 10年経過した1944年ルポロの証言が取りざたされた時に初めて出てきた話で、事件発生当時の目撃証言は、裏切りによる粛清を示唆している。店に乱入したガンマン2人が、強盗と勘違いした20人の客に「お前たちを傷つけない、強盗ではない、問題はこいつだ」とボッシアをコーナーに押しやり、「こいつはニュージャージーで裏切り、ブルックリンでも裏切った」と殺す前に裏切り者呼ばわりしていた。Gangster Slain in Cafe as 20 Persons Watch, Brooklyn Daily Eagle, P. 1, 1934.9.20
  10. ^ a b Douglas Valentine, The Strength of the Wolf: The Secret History of America's War on Drugs p. 48
  11. ^ a b Vito Genovese Cosa Nostra Database
  12. ^ a b c Vito Genovese, CosaNostra
  13. ^ Vito Genovese Is Freed Of Murder Count Schenectady Gazette - Jun 11, 1946
  14. ^ 1946年2月9日出国。New York Times Feb 11, 1946
  15. ^ WIFE SUING GENOVESE; Action Brought in Jersey Asks for Separate Maintenance New York Times, 1952年12月9日
  16. ^ Carl Sifakis, The Mafia Encyclopedia (2005) p. 172
  17. ^ Eric Ferrara, Manhattan Mafia Guide: Hits, Homes & Headquarters (2011), P. 134
  18. ^ a b Graham K. Bell, Murder, Inc.: The Mafia's Hit Men in New York City
  19. ^ 後年密告者に転じたジョセフ・ヴァラキの供述によれば、妻の裏切りはフランセの監督不届きが原因として幹部"トニー・ベンダー"・ストロッロに暗殺指令が下り、フランセと親交のあったヴァラキがフランセを自分のレストランに誘い、その手下2人が殺害した。Eric Ferrara, Manhattan Mafia Guide: Hits, Homes & Headquarters (2011), P. 134
  20. ^ Life Will No Longer Be So Charming For Vito Genovese The Victoria Advocate - Apr 9, 1959
  21. ^ a b Vito "Don Vitone" Genovese
  22. ^ New York Stories Part I John William Tuohy, 2002
  23. ^ COSA NOSTRA BOSS VITO GENOVESE' Statesmen of US Underworld Rome News-Tribune - Sep 29, 1963
  24. ^ Anastasia's Slayers Known for Months Pittsburgh Post-Gazette - Aug 8, 1963
  25. ^ Attendee Profiles At The 1957 Apalachin Mob Confab Mike La Sorte, 2008
  26. ^ Vito Genovese Goes To Jail Pittsburgh Post-Gazette - Feb 12, 1960
  27. ^ The American Mafia - Underworld Informants
  28. ^ Valachi Tells Probers Of Underworld Army The Free Lance-Star - Sep 27, 1963
  29. ^ a b c Mafia Boss Wanted It That Way Ottawa Citizen - Feb 17, 1969
  30. ^ The Gangster's Garden
  31. ^ Deep Cut Gardens, p. 120
  32. ^ a b The Two Faces Of Vita Genovese Daytona Beach Sunday News-Journal - Sep 28, 1963
  33. ^ Matthew R. Linderoth, Prohibition on the North Jersey Shore: Gangsters on Vacation, p. 45
  34. ^ Informer, Jan.2014, p. 63-64
  35. ^ John P. King, Wicked Tales from the Highlands - Part 7 Crime Organized Right from Home, p. 115
  36. ^ Vito Genovese Carpe Noctem
  37. ^ Middle Anonymity Aids Mafia Leaders The Tuscaloosa News - Oct 10, 1969

関連項目

外部リンク