ラモン・ノヴァロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。112.248.7.143 (会話) による 2015年12月21日 (月) 22:19個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

Ramón Novarro
ラモン・ノヴァロ
ラモン・ノヴァロ
本名 José Ramón Gil Samaniegos
別名義 ラモン・サマニエゴ Ramon Samaniego
生年月日 (1899-02-06) 1899年2月6日
没年月日 (1968-10-30) 1968年10月30日(69歳没)
出生地 メキシコの旗 メキシコ ドゥランゴ州ドゥランゴ
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルスノース・ハリウッド
職業 俳優
ジャンル 映画、とくにサイレント映画剣戟映画
活動期間 1917年 - 1968年
著名な家族 ドロレス・デル・リオ 又従妹
公式サイト ramonnovarro.com
 
受賞
ゴールデングローブ賞
1960年 特別賞
その他の賞
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム - 6350 Hollywood Boulevard.
テンプレートを表示

ラモン・ノヴァロ(-ナヴァロRamón Novarro, 1899年2月6日 - 1968年10月30日)は、メキシコ出身のアメリカ合衆国俳優である。サイレント映画の時代に「ラテンの恋人」(Latin Lover)として知られた剣戟俳優である。「狂騒の20年代」を代表する人物である。

人物・来歴

初期の経歴と生活

1899年(明治32年)2月6日、メキシコのドゥランゴ州ドゥランゴで「ホセ・ラモン・ギル・サマニエゴス」として、歯科医を父に生まれる。1913年(大正2年)に勃発したメキシコ革命を逃れて、アメリカ合衆国、カリフォルニア州ロサンゼルスに一家で移住した[1]ドロレス・デル・リオアンドレア・パルマの又従兄である[2]

1917年(大正6年)に映画界に入ったが、当時はまだ端役であり、歌手兼ウェイターとして働いて生計を補っていた。ラモンの友人で俳優・映画監督のレックス・イングラムとその妻で女優のアリス・テリーが、ルドルフ・ヴァレンティノのライヴァルとしてラモンを売り出し、イングラムは「ノヴァロ」と改名するようラモンに示唆した。1923年(大正12年)からさらによい役をもらい始め、同年のイングラムの監督作『スカラムーシュ』での演技は、ラモンの最初の成功となった。

1925年(大正14年)、ラモンが最高の成功を勝ち取ったフレッド・ニブロ監督の『ベン・ハー』では、衣裳を脱ぐことでセンセーションを起こし、ラモンはハリウッド・エリートへの道を駆け上った。1926年(大正15年)のヴァレンティノの死去により、映画界におけるラテン系俳優のトップレヴェルに位置するようになったが、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)での同僚、模範的恋人ことジョン・ギルバートよりも下位にランクされた。ラモンは剣戟俳優として知られ、当時の大時代的俳優の一人と考えられていた。1927年(昭和2年)、エルンスト・ルビッチ監督の『思ひ出』ではノーマ・シアラーと共演し、1923年(昭和3年)、ウィリアム・ナイ監督の『シンガポール』ではジョーン・クロフォードと共演している。

1929年(昭和4年)、シドニー・A・フランクリン監督の『黎明の剣士』が最初のトーキー出演作となった。歌うフランス軍兵士の役であった。1932年(昭和7年)、ジョージ・フィッツモーリス監督の『マタ・ハリ』でグレタ・ガルボと共演し、マーナ・ロイと共演した翌1933年(昭和8年)のサム・ウッド監督の『カイロの一夜』とは対照的な成功を得た。

後半の経歴と生活

ラモンとルーペ・ヴェレス、『砂漠の新月』、1934年。

1935年(昭和10年)にMGMスタジオとの契約期限が切れたが、同社は契約を更新しなかった。リパブリック・ピクチャーズやメキシコの宗教劇、フランスのコメディ映画等に転々と映画出演をつづけた。1940年代後半(昭和20年代)には、ハリウッドではちいさな役しか与えられることはなかった。

ハワード・ダフアイダ・ルピノCBS放送シットコムアダムズ氏とイヴ』(Mr. Adams and Eve)が1958年(昭和33年)の後番組として、ダフとルピノが共演したテレビシリーズ『ザ・グリーン・ピーコック』に役を、と考えられていたが、この計画は具体化しなかった。1960年代にはブロードウェイでの試験興行が途中で中止となったが、ラモンはテレビ映画への出演が忙しく、1968年(昭和43年)にはNBCテレビの『ハイシャパラル』に出演していた。

ラモンは全盛期(20年代後半~30年代前半)には、1本10万ドル以上の出演料を得ていた。彼はその一部を不動産投資に充てており、その収益によって後年も安定した生活を維持することが出来た。

ラモン・ノヴァロは、生涯を通じて、ローマ・カトリック教会への信仰心と自らの同性愛が相反する考えの間でもがき苦しんでいた。MGMの権力者ルイス・B・メイヤーはラモンにラヴェンダーマリッジ偽装結婚)を強要したが、ラモンは拒絶したとされる[3]。ラモンは、冒険家・作家のリチャード・ハリバートンの友人であり、「クローゼットの中のセレブリティ」でもあった。

その死

1968年(昭和43年)10月30日、ハリウッドの自宅で殺されているのが発見された。

ラモン・ノヴァロは、当時22歳のポールと17歳のトムのファーガソン兄弟に殺害された[4]。ファーガソン兄弟は、ラモンが業者に依頼して雇い、性的目的でローレル・キャニオン大通りの自宅に呼んだものである。殺人事件における検察によれば、ファーガソン兄弟はラモンの邸宅にはそうとうの大金が隠されていると思っていたという。検察は、存在しない隠し金のありかを吐かせるべく、ファーガソン兄弟が数時間にわたってラモンを拷問したと告発している。ファーガソン兄弟は、バスローブのポケットから奪ったわずか20ドルを手に現場から逃走した。伝えられるところでは、ラモン・ノヴァロの死因は窒息死で、乱暴に殴り散らされて出血した自らの血液で窒息死、死に至ったという。ファーガソン兄弟は後に逮捕され、長期の懲役の判決を受けたが、早期に仮釈放された。ファーガソン兄弟は、本件と無関係な犯罪でのちに再逮捕され、殺人判決よりも長く懲役を受けることとなった。

ラモン・ノヴァロは、ロサンゼルス市内のカルヴァリー墓地に眠っている。映画産業への貢献を記念して、ハリウッド大通り6350番地のハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星をもつ。

おもなフィルモグラフィ

関連事項

  1. ^ Meier, Matt S.; Gutiérrez, Margo (2003). The Mexican American Experience: An Encyclopedia. Greenwood Publishing Group. pp. 284. ISBN 0313316430  (英語)
  2. ^ Monush, Barry (2003). Screen World Presents the Encyclopedia of Hollywood Film Actors: From the Silent Era to 1965. Hal Leonard Corporation. pp. 188. ISBN 1557835519  (英語)
  3. ^ Holliday, Peter J, glbtq.com “Novarro, Ramon (1899-1968)”, en:glbtq.com, http://www.glbtq.com/arts/novarro_r.html glbtq.com 2007年11月1日閲覧。  (英語)
  4. ^ Maloney, J. J.. “The Murder of Ramon Novarro”. crimemagazine.com. 2009年10月27日閲覧。 (英語)

外部リンク