ラモン・ノヴァロ
Ramón Novarro ラモン・ノヴァロ | |||||||||||
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撮影 : カール・ヴァン・ヴェクテン | |||||||||||
本名 | José Ramón Gil Samaniegos | ||||||||||
別名義 | ラモン・サマニエゴ Ramon Samaniego | ||||||||||
生年月日 | 1899年2月6日 | ||||||||||
没年月日 | 1968年10月30日(69歳没) | ||||||||||
出生地 | メキシコ ドゥランゴ州ドゥランゴ | ||||||||||
死没地 | アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルスノース・ハリウッド | ||||||||||
職業 | 俳優 | ||||||||||
ジャンル | 映画、とくにサイレント映画、剣戟映画 | ||||||||||
活動期間 | 1917年 - 1968年 | ||||||||||
著名な家族 | ドロレス・デル・リオ 又従妹 | ||||||||||
公式サイト | ramonnovarro.com | ||||||||||
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ラモン・ノヴァロ(-ナヴァロ、Ramón Novarro, 1899年2月6日 - 1968年10月30日)は、メキシコ出身のアメリカ合衆国の俳優である。サイレント映画の時代に「ラテンの恋人」(Latin Lover)として知られた剣戟俳優である。「狂騒の20年代」を代表する人物である。
人物・来歴
初期の経歴と生活
1899年(明治32年)2月6日、メキシコのドゥランゴ州ドゥランゴで「ホセ・ラモン・ギル・サマニエゴス」として、歯科医を父に生まれる。1913年(大正2年)に勃発したメキシコ革命を逃れて、アメリカ合衆国、カリフォルニア州のロサンゼルスに一家で移住した[1]。ドロレス・デル・リオとアンドレア・パルマの又従兄である[2]。
1917年(大正6年)に映画界に入ったが、当時はまだ端役であり、歌手兼ウェイターとして働いて生計を補っていた。ラモンの友人で俳優・映画監督のレックス・イングラムとその妻で女優のアリス・テリーが、ルドルフ・ヴァレンティノのライヴァルとしてラモンを売り出し、イングラムは「ノヴァロ」と改名するようラモンに示唆した。1923年(大正12年)からさらによい役をもらい始め、同年のイングラムの監督作『スカラムーシュ』での演技は、ラモンの最初の成功となった。
1925年(大正14年)、ラモンが最高の成功を勝ち取ったフレッド・ニブロ監督の『ベン・ハー』では、衣裳を脱ぐことでセンセーションを起こし、ラモンはハリウッド・エリートへの道を駆け上った。1926年(大正15年)のヴァレンティノの死去により、映画界におけるラテン系俳優のトップレヴェルに位置するようになったが、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)での同僚、模範的恋人ことジョン・ギルバートよりも下位にランクされた。ラモンは剣戟俳優として知られ、当時の大時代的俳優の一人と考えられていた。1927年(昭和2年)、エルンスト・ルビッチ監督の『思ひ出』ではノーマ・シアラーと共演し、1923年(昭和3年)、ウィリアム・ナイ監督の『シンガポール』ではジョーン・クロフォードと共演している。
1929年(昭和4年)、シドニー・A・フランクリン監督の『黎明の剣士』が最初のトーキー出演作となった。歌うフランス軍兵士の役であった。1932年(昭和7年)、ジョージ・フィッツモーリス監督の『マタ・ハリ』でグレタ・ガルボと共演し、マーナ・ロイと共演した翌1933年(昭和8年)のサム・ウッド監督の『カイロの一夜』とは対照的な成功を得た。
後半の経歴と生活
1935年(昭和10年)にMGMスタジオとの契約期限が切れたが、同社は契約を更新しなかった。リパブリック・ピクチャーズやメキシコの宗教劇、フランスのコメディ映画等に転々と映画出演をつづけた。1940年代後半(昭和20年代)には、ハリウッドではちいさな役しか与えられることはなかった。
ハワード・ダフとアイダ・ルピノがCBS放送のシットコム『アダムズ氏とイヴ』(Mr. Adams and Eve)が1958年(昭和33年)の後番組として、ダフとルピノが共演したテレビシリーズ『ザ・グリーン・ピーコック』に役を、と考えられていたが、この計画は具体化しなかった。1960年代にはブロードウェイでの試験興行が途中で中止となったが、ラモンはテレビ映画への出演が忙しく、1968年(昭和43年)にはNBCテレビの『ハイシャパラル』に出演していた。
ラモンは全盛期(20年代後半~30年代前半)には、1本10万ドル以上の出演料を得ていた。彼はその一部を不動産投資に充てており、その収益によって後年も安定した生活を維持することが出来た。
ラモン・ノヴァロは、生涯を通じて、ローマ・カトリック教会への信仰心と自らの同性愛が相反する考えの間でもがき苦しんでいた。MGMの権力者ルイス・B・メイヤーはラモンにラヴェンダーマリッジ(偽装結婚)を強要したが、ラモンは拒絶したとされる[3]。ラモンは、冒険家・作家のリチャード・ハリバートンの友人であり、「クローゼットの中のセレブリティ」でもあった。
その死
1968年(昭和43年)10月30日、ハリウッドの自宅で殺されているのが発見された。
ラモン・ノヴァロは、当時22歳のポールと17歳のトムのファーガソン兄弟に殺害された[4]。ファーガソン兄弟は、ラモンが業者に依頼して雇い、性的目的でローレル・キャニオン大通りの自宅に呼んだものである。殺人事件における検察によれば、ファーガソン兄弟はラモンの邸宅にはそうとうの大金が隠されていると思っていたという。検察は、存在しない隠し金のありかを吐かせるべく、ファーガソン兄弟が数時間にわたってラモンを拷問したと告発している。ファーガソン兄弟は、バスローブのポケットから奪ったわずか20ドルを手に現場から逃走した。伝えられるところでは、ラモン・ノヴァロの死因は窒息死で、乱暴に殴り散らされて出血した自らの血液で窒息死、死に至ったという。ファーガソン兄弟は後に逮捕され、長期の懲役の判決を受けたが、早期に仮釈放された。ファーガソン兄弟は、本件と無関係な犯罪でのちに再逮捕され、殺人判決よりも長く懲役を受けることとなった。
ラモン・ノヴァロは、ロサンゼルス市内のカルヴァリー墓地に眠っている。映画産業への貢献を記念して、ハリウッド大通り6350番地のハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星をもつ。
おもなフィルモグラフィ
- 『ヂャンヌ・ダーク』前後篇 Joan the Woman : 監督セシル・B・デミル、1917年
- 『小米国人』 The Little American : 監督セシル・B・デミル、1917年
- 『神に見離された女』 The Woman God Forgot : 監督セシル・B・デミル、1917年
- 『黙示録の四騎士』 The Four Horsemen of the Apocalypse : 監督レックス・イングラム、1921年
- 『ゼンダ城の虜』 The Prisoner of Zenda : 監督レックス・イングラム、年
- 『心なき女性』 Trifing Women : 監督レックス・イングラム、1922年
- 『文化果つるところ』 Where the Pavement Ends : 監督レックス・イングラム、1923年
- 『汝の名は女』(『ピレネーの情火』) Thy Name Is Woman : 監督フレッド・ニブロ、1924年
- 『アラブ』 The Arab : 監督レックス・イングラム、1924年
- 『スカラムーシュ』 Scaramouche : 監督レックス・イングラム、1924年
- 『紅百合』 The Red Lily : 監督フレッド・ニブロ、1924年
- 『愛人の誓』 A Lover's Oath : 監督フェルディナンド・P・アール、1925年
- 『海軍士官候補生』 The Midshipman : 監督クリスティ・キャバンヌ、1925年
- 『ベン・ハー』 Ben-Hur : 監督フレッド・ニブロ、1925年
- 『恋人』 Lovers? : 監督ジョン・M・スタール、1927年
- The Road to Romance : 監督ジョン・S・ロバートソン、1927年
- 『思ひ出』 The Student Prince in Old Heidelberg : 監督エルンスト・ルビッチ、1927年
- A Certain Young Man : 監督ホバート・ヘンリー、1925年 - 1928年
- 『シンガポール』 Across to Singapore : 監督ウィリアム・ナイ、1928年
- 『異教徒』 The Pagan : 監督W・S・ヴァン・ダイク、1929年
- 『大飛行艦隊』 The Flying Fleet : 監督ジョージ・ヒル、1929年
- 『黎明の剣士』 en:Devil-May-Care : 監督シドニー・A・フランクリン、1930年 - 初トーキー
- The March of Time : 1930年
- 『肉体の呼ぶ声』 Call of the Flesh : 監督チャールズ・ブレイビン、1930年
- 『月光の曲』 In Gay Madrid : 監督ロバート・Z・レナード、1930年
- 『あけぼの』 Daybreak : 監督ジャック・フェデー、1931年
- 『印度の寵児』 Son of India : 監督ジャック・フェデー、1931年
- 『散り行く魂』 The Son-Daughter : 監督クラレンス・ブラウン、1932年
- 『若き血に燃ゆる頃』 Huddle : 監督サム・ウッド、1932年
- 『マタ・ハリ』 : 監督ジョージ・フィッツモーリス、1932年
- 『カイロの一夜』 A Night in Cairo : 監督サム・ウッド、1933年
- 『砂漠の新月』 Laughing Boy : 監督W・S・ヴァン・ダイク、1934年
- 『猫と提琴』 The Cat and the Fiddle : 監督ウィリアム・K・ハワード、1934年
- 『春の宵』 The Night Is Young : 監督ダドリー・マーフィ、1935年
- The Sheik Steps Out : 監督アーヴィング・ピチェル、1937年
- A Desperate Adventure : 監督ジョン・H・オーア、1937年
- 『豪傑ベンターピン』 A Small Town Idol : 監督、1939年
- 『ストレンジャーズ6』 We Were Strangers : 監督ジョン・ヒューストン、1949年
- 『仮面の報酬』 The Big Steal : 監督ドン・シーゲル、1949年
- 『危機の男』 Crisis : 監督リチャード・ブルックス、1950年
- 『幌馬車隊』 Outriders : 監督ロイ・ローランド、1950年
- 『西部に賭ける女』 Heller in Pink Tights : 監督ジョージ・キューカー、1960年
- 『ハイシャパラル』 The High Chaparral : テレビ映画、1968年
関連事項
- ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星の一覧
- ドロレス・デル・リオ (en:Dolores del Río)
- アンドレア・パルマ (en:Andrea Palma (actress))
- アリス・テリー (en:Alice Terry)
- ハワード・ダフ (en:Howard Duff)
- ラヴェンダーマリッジ (en:Lavender marriage)
- リチャード・ハリバートン (en:Richard Halliburton)
- ローレル・キャニオン大通り en:Laurel Canyon Boulevard
- カルヴァリー墓地 (イースト・ロサンゼルス) (en:Calvary Cemetery, East Los Angeles)
註
- ^ Meier, Matt S.; Gutiérrez, Margo (2003). The Mexican American Experience: An Encyclopedia. Greenwood Publishing Group. pp. 284. ISBN 0313316430 (英語)
- ^ Monush, Barry (2003). Screen World Presents the Encyclopedia of Hollywood Film Actors: From the Silent Era to 1965. Hal Leonard Corporation. pp. 188. ISBN 1557835519 (英語)
- ^ Holliday, Peter J, glbtq.com “Novarro, Ramon (1899-1968)”, en:glbtq.com 2007年11月1日閲覧。 (英語)
- ^ Maloney, J. J.. “The Murder of Ramon Novarro”. crimemagazine.com. 2009年10月27日閲覧。 (英語)
外部リンク
- Ramon Novarro - IMDb(英語)
- Ramon Novarro - TCM Movie Database(英語)
- ラモン・ノヴァロ - キネマ旬報映画データベース
- ラモン・ノヴァロ - allcinema ONLINE
- ramonnovarro.com (英語)
- Ramón Novarro Photo Gallery (英語)
- Photographs of Ramon Novarro (英語)
- ラモン・ノヴァロ - Find a Grave(英語)