モグーリスタン・ハン国

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モグーリスタン・ハン国の版図(茶)。

モグーリスタン・ハン国英語:Moghulistan Khanate、トルコ語:Moğolistan Hanlığı)は、1340年代にチャガタイ・ハン国が東西に分裂して成立した東チャガタイ・ハン国の別称。単にモグーリスタンモグール・ウルスとも呼ばれる[1]

概要

13世紀に成立したモンゴル帝国は、中国の元朝中央アジアのチャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)、西アジアイルハン朝(フレグ・ウルス)、南ロシアのキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)に分裂した。その中の一つチャガタイ・ハン国は14世紀に東西に分裂するが、分裂の正確な時期は定かではない[2]マー・ワラー・アンナフルを支配する西チャガタイ・ハン国は定住生活とイスラム文化が浸透しており、東トルキスタンの東チャガタイ・ハン国では伝統的な遊牧文化が固持されていた[3]。モンゴル人の伝統的な遊牧文化の後継者を自負する東チャガタイ・ハン国の君主は「モグール・ウルス」の国名を使用し、定住文化への同化を望む西チャガタイ・ハン国をカラウナス(Qaraunas)すなわち「混血」と呼んで軽蔑した[3]。一方、西チャガタイ・ハン国はハン国の正統な後継者の「チャガタイ」を自称し、東チャガタイ・ハン国を、定住民を略奪の対象としか見なさないことからジュテ(あるいはジャタ、Jatah)すなわち「盗賊」と呼んで忌み嫌った[3]

中国の朝はモグーリスタン・ハン国を指して「別失八裏」「亦力把力」(ビシュバリク)という語を用いた[4]。近現代の研究においては「モグーリスタン・ハン国」はもっぱらソビエト連邦の歴史学者によって使用され、中国の歴史学者は「東チャガタイ・ハン国」の国名を使用することが多かった。

歴史

自国で編纂された史料に恵まれているティムール朝とは対照的に、モグーリスタンの人間が自国の事情を記録した史料は乏しい。モグーリスタンに関する情報の多くは、16世紀のドグラト部の歴史家ミールザー・ムハンマド・ハイダルの著書『ラシードの歴史(Tarikh-i-Rashidi)』に由来する[5]

モグーリスタン・ハン国の始まり

1450年代の中央アジア

1347年(もしくは1348年)に、12代目チャガタイ・ハンのドゥアの子であるエミル・ホージャの落胤とされるトゥグルク・ティムールがドグラト部の貴族プラジに擁立されて東チャガタイ・ハン国のハンに即位する。このトゥグルク・ティムールが、モグーリスタン・ハン国の創始者とされる[6][7]

西チャガタイ・ハン国は有力者カザガン親子の死後に群雄割拠状態に陥ると、トゥグルク・ティムールは1360年1361年の2度にわたって遠征を行い、一時的に東西チャガタイ・ハン国を再統一した。トゥグルク・ティムールは息子のイリヤース・ホージャを後継者に指名するが、1365年にイリヤース・ホージャはプラジの兄弟カマルッディーンによって暗殺される[8]。カマルッディーンはハンを称するが[8]チンギス統原理を尊重する部族長たちはカマルッディーンの即位を認めず、モグーリスタン・ハン国は長期の内戦状態に陥った。1370年のティムール朝の建国後、ティムール1371年から1390年にかけてカマルッディーンの侵入を牽制するために7回以上のモグーリスタン遠征を行った[9][10]

トゥグルク・ティムールの子ヒズル・ホージャはカマルッディーンに追放されてウイグルスタン方面に逃れ、この地で再起を図っていた[11]1388年頃、カマルッディーンは甥のホダーイダードによってモグーリスタンを追放され、ホダーイダードはヒズル・ホージャを支持した[12]1390年にカマルッディーンは消息を絶ち、ヒズル・ホージャはティムールと講和した[13]1397年頃にモグーリスタン・ハン国とティムール朝の間に婚姻関係が成立、1400年頃にティムールの孫ミールザー・ウマルがウイグルスタンに侵入した[13]

モグーリスタン・ハン国は明の洪武帝の元に使節を送り、ティムールが中国への遠征を計画していることを訴え、援助を求めた[5]。モグーリスタン・ハン国と明の間に軍事同盟は締結されなかったものの、両国の間で隊商が往来するようになり、モグーリスタン・ハン国はシルクロード交易によって莫大な利益を得る[14]。朝貢関係が成立したことで明はモグーリスタン・ハン国が冊封体制に組み込まれたと見なしたが、交易によって中国と西域の経済・文化交流が促進された[15]

新たなドグラト部の当主となったホダーイダードはヒズル・ホージャからワイスに至るまでの6人のハンを擁立し、ドグラト部の当主は1533年まで強力な権限を世襲した[16]

15世紀

15世紀のモグーリスタンは、ティムール朝に加えてオイラトウズベクといった遊牧勢力の侵入に晒される。1418年に即位したワイス・ハンは、従兄弟のシール・ムハンマドとハンの位を争った。シール・ムハンマドを破ってハンに復位したワイスはオイラトに戦いを挑むも敗れ、捕虜となった[17]

ワイスの死後、彼の子であるユーヌスエセン・ブカがハン位を争う。ユーヌスはイリからタシュケントに至る西側の地域、エセン・ブカは東のウイグルスタンを領有した。エセン・ブカの時代に、ウズベクから分離した一団(カザフ)がモグーリスタンに移住し、エセン・ブカは彼らをモグーリスタンの辺境部に住まわせた[18]1468年1469年)に単独のハンに即位したユーヌス・ハンは、ティムール朝の弱体化に乗じて1482年にタシュケントを占領した。

ユーヌスの治世の末期、彼の次子アフマド・アラクがトルファンを中心とするウイグルスタンで独立する。ユーヌスの時代から続いていたモグーリスタン・ハン国と明はクムルを巡って争っていたが、アフマドは明と講和し、使節のやり取りを行った。1502年(もしくは1503年)に、アフマドはウズベクのシャイバーニー朝の君主ムハンマド・シャイバーニー・ハーンとの戦いで敗死した。ユーヌスの跡を継いでモグーリスタンの西を領有したマフムードも1508年(もしくは1509年)にムハンマド・シャイバーニー・ハーンに殺害され[19]、タシュケントはシャイバーニー朝に占領される。アフマドとマフムードが戦死した後、モグーリスタン・ハン国は次第にタリム盆地のオアシス地帯に追いやられていく[20]

16世紀以降

16世紀から、モグーリスタンにカザフ、キルギスからの圧力が加わる。カザフはモグーリスタン北のイルティシュ川流域まで進出し、ドグラト部の一部がカザフに合流した。さらにエニセイ川上流域から移動したキルギスが、天山山脈西部に進出した[21]。14世紀半ばには160,000人に達していたモグール人も、16世紀半ばには約30,000人に減少する[20]

アフマドの跡を継いでウイグルスタンのハンに即位したマンスールは、トルファン、アクスを領有した[6][21]。マンスールはクムルを巡って明と再び争い、1529年にモグーリスタンはクムルの支配権を勝ち取った。

マンスールが明と戦っている頃、彼の弟であるスルタン・サイード英語版カーブルムガル帝国の建国者となるバーブルの保護を受けていた。サイードは東トルキスタンに帰国し、ドグラト部のミールザー・アブー・バクルを討って1514年にハンを称した[22]。ドグラト部内でもアブー・バクルに対立する勢力があり、歴史家のミールザー・ムハンマド・ハイダルらがサイードを支持した[21]

当初マンスールとサイードは対立していたがやがて和解し、東西にモグーリスタンのハンが並立した[22]。サイードは西の草原地帯への進出を試みるがウズベクとカザフに阻まれ、カシュガル、ヤルカンドを中心とするタリム盆地西部のみを領有するに至った。このため、サイードと彼の一族の王朝は、ヤルカンド・ハン国カシュガル・ハン国と呼ばれる[23]。ウイグルスタンのハン国はマンスールの死後急速に衰退し、やがてヤルカンド・ハン国に併合された[21]

17世紀末にモグーリスタン・ハン国の流れを汲むヤルカンド・ハン国がジュンガルガルダン・ハーンによって滅ぼされると、中央アジアからチャガタイ家の国家は消滅した。

モグーリスタンのイスラームの受容

モグーリスタン・ハン国の創始者とされるトゥグルク・ティムールは、即位後にイスラームに改宗した。トゥグルク・ティムールが西チャガタイ・ハン国の遠征で敵対する王族を討つ際に、「偶像を崇拝する異教徒」との戦いが大義名分とされた[5]。しかし、トゥグルク・ティムールの時代はイスラム教はモグーリスタン・ハン国の部衆に浸透しておらず、社会全体に広まるまでには時間がかかった。

15世紀初頭に即位したムハンマド・ハンはイスラム風の衣服を着用し、ワイスは部衆にイスラム教徒に危害を加えることを禁止する命令を出した[24]

15世紀末にモグーリスタン東部で独立したアフマド・アラク、マンスール親子の治下ではトルファンのイスラム化が進む[25]。1513年にクムルがマンスールの支配下に入った際にクムル一帯の仏教徒は明に移住し、クムル以西の地域から仏教徒は姿を消した[26]。また、歴史家ミールザー・ムハンマド・ハイダルは、クムルを巡るマンスールと明の戦いを「聖戦」と位置付けている[26]

イスラームを受容したハンたちは、ナクシュバンディー教団の教義を学んだ[27]。16世紀以降、従来モグーリスタンで強い影響力を持っていたドグラト部に代わり、ナクシュバンディー教団の指導者(ホージャ)が強大な影響力を有するようになった[28]

モグーリスタン・ハン国の歴代君主

東西分裂前

代数 君主名 在位期間
1 トゥグルク・ティムール 1347年1348年) - 1362年1363年
2 イリヤース・ホージャ 1362年(1363年) - 1365年
3 カマルッディーン 1365年? - 1389年
4 ヒズル・ホージャ 1389年? - 1403年?
5 シャムイ・ジャハーン 1403年? - 1407年1408年
6 ムハンマド 1407年(1408年) - 1415年1416年
7 ナクシ・ジャハーン 1415年(1416年) - 1417年1418年
8 ワイス 1417年(1418年) - 1421年?
9 シール・ムハンマド 1421年? - 1425年?
10 ワイス(復位) 1425年? - 1432年
11 エセン・ブカ 1432年 - 1461年1462年
12 ドースト・ムハンマド 1461年(1462年) - 1468年1469年
13 ユーヌス 1468年(1469年) - 1487年

東西分裂後

西モグーリスタン 南疆 北疆(ウイグリスタン)
マフムード
1487年 - 1508年1509年
ドグラト部による支配
- 1514年
アフマド・アラク
1487年 - 1502年1503年
シャイバーニー朝に併合) マンスール
1502年(1503年) - 1514年
南疆 北疆
スルタン・サイード
1514年 - 1537年1538年
マンスール
1514年 - 1543年
ヤルカンド・ハン国へ バーバーチャク
1543年
シャー
1543年 - 1565年
マスウード
1565年 - 1570年?

系図

チャガタイ家系図

脚注

  1. ^ 『中央ユーラシアを知る事典』p501
  2. ^ 間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、23頁
  3. ^ a b c 加藤『ティームール朝成立史の研究』、149頁
  4. ^ 間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、2頁
  5. ^ a b c Kim, Hodong (2000). “The Early History of the Moghul Nomads: The Legacy of the Chaghatai Khanate”. In Amatai-Preiss, Reuven; Morgan, David. The Mongol Empire & Its Legacy. Brill. pp. 290, 299, 302-304, 306-307, 310-316 
  6. ^ a b 佐口「モグリスタン」『アジア歴史事典』9巻、54-55頁
  7. ^ 中見、濱田、小松「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』、298頁
  8. ^ a b 川口「ティムールとトクタミシュ―トクタミシュ軍のマー・ワラー・アンナフル侵攻とその影響」『北海道武蔵女子短期大学紀要』40、140頁
  9. ^ ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、24-25頁
  10. ^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、299,303頁
  11. ^ ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、27頁
  12. ^ 川口「ティムールとトクタミシュ―トクタミシュ軍のマー・ワラー・アンナフル侵攻とその影響」『北海道武蔵女子短期大学紀要』40、140-141頁
  13. ^ a b ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、28頁
  14. ^ Upshur, Jiu-Hwa; Terry, Janice J; Holoka, James P; Cassar, George H; Goff, Richard (2011). World History: Before 1600: The Development of Early Civilizations. 1. Cengage Learning. p. 431-432 
  15. ^ Starr, S. Frederick (2004). Xinjiang: China's Muslim Borderland. M.E. Sharpe. pp. 45-47. ISBN 0-7656-1317-4 
  16. ^ 間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、7-8頁
  17. ^ 間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、12-13頁
  18. ^ S.G.クシャルトゥルヌイ、T.I.スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』(加藤九祚訳, 東海大学出版会, 2003年)、86頁
  19. ^ 濱田「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』、100頁
  20. ^ a b 堀川徹「民族社会の形成」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)、153-154頁
  21. ^ a b c d 江上『中央アジア史』、425頁
  22. ^ a b 中見、濱田、小松「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』、300頁
  23. ^ 中見、濱田、小松「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』、301頁
  24. ^ 間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、20-21頁
  25. ^ 中見、濱田、小松「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』、299頁
  26. ^ a b 濱田「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』、101頁
  27. ^ 間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、21頁
  28. ^ 川口琢司「チャガタイ・ウルス」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)、334-335頁

参考文献

  • 江上波夫『中央アジア史』(世界各国史, 山川出版社, 1987年1月)
  • 加藤和秀『ティームール朝成立史の研究』(北海道大学図書刊行会, 1999年2月)
  • 川口琢司「ティムールとトクタミシュ―トクタミシュ軍のマー・ワラー・アンナフル侵攻とその影響」『北海道武蔵女子短期大学紀要』40収録(北海道武蔵女子短期大学.2008年3月)
  • 佐口透「モグリスタン」『アジア歴史事典』9巻収録(平凡社, 1962年)
  • 中見立夫濱田正美小松久男「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』収録(小松久男編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月)
  • 濱田正美「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』収録(岩波講座13, 岩波書店, 1998年8月)
  • 間野英二「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号収録(東洋史研究会, 1964年6月)
  • ルスタン・ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』収録(加藤九祚訳, 東海大学出版会, 2008年10月)
  • 『中央ユーラシアを知る事典』(平凡社, 2005年4月)、556-557頁収録の系図

関連項目