マンフレート・グルリット
マンフレート・グルリット(Manfred Gurlitt, 1890年9月9日 - 1972年4月29日)は、ドイツに生まれ、後半生を日本で活躍した舞台音楽とオペラの作曲家・指揮者。日本洋楽の功労者。
略歴
ベルリンの富裕な家庭に生まれる。一族は教育界や楽壇・画壇で活躍する名家であり、大叔父にピアニストで、ピアノ教材で有名な作曲家のコルネリウス・グルリットがいる。
エンゲルベルト・フンパーディンクに作曲を学び、楽長となるべく教育を受ける。ブレーメン劇場で活躍した後、ベルリンで国立歌劇場の客演指揮者と高等音楽学校の教師を務めた。
1933年に頽廃芸術のレッテルを貼られたため、政治的な無定見からユダヤ系にもかかわらずナチスに入党。これが後に汚点となり、戦後にドイツ楽壇への復帰を断念せざるを得なくなる。1937年、ユダヤ人であるために党員資格を剥奪されてナチス政権からの逃亡を目論み、東京音楽学校からの打診に応じようとするが、ナチスの妨害に遭った。1939年に近衛秀麿の求めでようやくドイツを脱出、中央交響楽団の常任指揮者を勤めるかたわら、東京音楽学校の非常勤講師の資格を得た。1941年より藤原義江歌劇団の常任指揮者に就任。戦時中から戦後にかけて、数多くのオペラを指揮、多くは日本初演であった。1952年にオペラ歌手の日高久子と結婚、グルリット・オペラ協会を発足させた。また、同年に設立された二期会の指導にも着手した。また、戦時中からオペラだけでなく、自作を含む器楽曲を数多く上演している。戦後は、演奏活動のかたわら、英字紙に音楽評論の寄稿も行なった。戦後、かつてナチスドイツ政府から受けた誹謗に対して名誉回復の裁判を起こしたが、ナチ党員としての過去を問題にされ、1957年に敗訴した。東京にて他界。
主要作品
舞台音楽・歌劇
- 伝説《聖女》 Die Heilige Musikalische Legende (1920年ブレーメン初演)
- 18場の悲劇《ヴォツェック》作品16 Wozzeck Musikalische Tragödie (1926年ブレーメン初演)
- 3幕のオペラ《兵士たち》 Soldaten (1930年11月9日デュッセルドルフ初演)
- 4幕のオペラ《ナナ》 Nana (1933年までに完成、1958年4月16日ドルトムント初演)
- 3幕のオペラ《セギディーリャ・ボレロ》 Seguidilla Bolero (Nächtlicher Spuk) (1934年~1936年)
- 4幕のオペラ《なぜに(フェリーツァ)》 Warum (Feliza) (1934年~1936年、改訂1942年~1945年)
- 4幕のオペラ《北国のバラード》 Nordische Ballade (1934年~1944年)
器楽曲
- 大管弦楽のための交響的音楽 (1922年)
- ゴヤ交響曲 (1938年-39年)
- シェークスピア交響曲 (1952年-54年)
- ピアノのための室内協奏曲第1番ヘ長調 (1927年)
- ヴァイオリンのための室内協奏曲 第2番 イ長調 (1929年)
- チェロ協奏曲 ヘ長調 (1937年)
- ピアノ五重奏曲(1912年)
- 「海ゆかば」の主題による変奏曲
- ピアノ・ソナタ (1913年)
声楽曲
- 3つの政治的演説
- 4つの劇的な歌曲 (1946年-52年)
グルリットにより日本初演が行われた作品
- モーツァルト「後宮からの誘拐」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」
- ベートーヴェン「フィデリオ」(舞台上演での初演)
- トマ「ミニョン」
- ワーグナー「ローエングリン」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、「タンホイザー」
- ヴェルディ「アイーダ」「オテロ」「ファルスタッフ」
- ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」
- チャイコフスキー「エフゲニ・オネーギン」
- マスネ「ウェルテル」
- R.シュトラウス「サロメ」「ばらの騎士」
- バルトーク「ヴァイオリン協奏曲第2番」
関連項目
文献
- Galliano, Luciana. "Manfred Gurlitt and the Japanese Operatic Scene, 1939-1972," Japan Review (2006) 18:215-248.