プレジデントシチー
この記事は「旧馬齢表記」が採用されており、国際的な表記法や2001年以降の日本国内の表記とは異なっています。 |
プレジデントシチー | |
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欧字表記 | President City[1] |
品種 | サラブレッド[1] |
性別 | 牡[1] |
毛色 | 栗毛[1] |
生誕 | 1983年4月3日[1] |
死没 | 不明(1995年11月19日用途変更) |
父 | ダイコーター[1] |
母 | ニシノアイゲツ[1] |
母の父 | マタドア[1] |
生国 | 日本(北海道鵡川町)[1] |
生産者 | 西山牧場[1] |
馬主 | (株)友駿ホースクラブ[1] |
調教師 | 中尾謙太郎(栗東)[1] |
競走成績 | |
生涯成績 |
44戦7勝 中央競馬:41戦6勝 地方競馬:3戦1勝 [1] |
獲得賞金 | 2億5486万7000円[1] |
勝ち鞍 |
GIII:朝日チャレンジC(1987年) GIII:小倉記念(1988年) ブリーダーズゴールドC(1990年) |
プレジデントシチー(欧字名:President City、1983年4月3日 - 不明)は、日本の競走馬、種牡馬[1]。主な勝ち鞍に1987年の朝日チャレンジカップ、1988年の小倉記念、1990年のブリーダーズゴールドカップ。
1991年の天皇賞・秋において、斜行により1着入線から最下位降格処分を受けたメジロマックイーンの被害馬としても知られる。
経歴
競走馬時代
1985年11月30日、阪神競馬場で行われたサラ系3歳新馬戦で藤原哲朗を鞍上にデビューすると、12番人気を覆す4着と健闘。翌月の折り返しの新馬戦でも2着に敗れるが、8ヶ月後の小倉競馬場の未勝利戦で初勝利を挙げた。さらに条件戦を2勝し、3連勝で初重賞参戦となる愛知杯に出走した。ここでは2着と手応えある結果を残し、続いて出走したセントウルステークス[注 1]でも2着となった。
1987年は京都記念より始動するも、シンチェストの6着に敗れる。続く中日新聞杯でも2番人気を裏切る11着と惨敗した。西日本スポーツ杯(900万下)では1番人気に支持されるも3着、その後の北九州記念でも6着に敗れたが、小倉記念ではデビューからほとんどのレースで騎乗した藤原から河内洋に乗り替わり、2番人気に応える2着となった。この勢いで朝日チャレンジカップに南井克巳を鞍上に参戦すると、前走の小倉記念で敗れたゴルデンビューチ、京都新聞杯馬タケノコマヨシらを破り1着となり、見事に重賞初制覇を果たした。その後、年内は京都大賞典3着、大原ステークス2着といずれも好走した。
1988年は宝塚記念より始動し、13番人気ながらタマモクロスの6着となる。更に金鯱賞2着、高松宮杯5着と健闘し、昨年敗れた小倉記念へ挑んだ。この年のオークス馬であるコスモドリームが圧倒的1番人気に支持されていたが、プレジデントシチーはコスモドリームをハナ差退け優勝。重賞2勝目を挙げた。なお、この年はこれ以降出走しなかった。
1989年は産経大阪杯より始動し6着。さらに天皇賞・春にも出走したが、ここでは11着と惨敗した。次走にオープン戦のグリーンステークスに1番人気で出走すると勝利。続く宝塚記念では16頭立て最低人気での出走となったが、コスモドリームやサクラチヨノオーらに先着する13着となる。その後金鯱賞3着、北九州記念2着と再び勢いに乗り出したが、朝日チャレンジカップでは8着と惨敗。名古屋市制100周年記念にも出走し5着、さらに使い込んでカブトヤマ記念に出走すると3着となる。だが、福島記念と愛知杯ではそれぞれ11着と9着に惨敗した。
1990年は上半期を全て休養し、オープン戦のタイムス杯より始動し3着となる。続いて3番人気で小倉記念に出走したが11着に惨敗した。その後、第2回ブリーダーズゴールドカップに出走すると、第1回の優勝タイムを縮めレコード勝ちを収める。しかし、年内は天皇賞・秋など重賞を参戦し全て2桁着順に終わった。
9歳(現8歳)となった1991年も現役を続行。6月よりオープン戦を4戦するも、5着が1度あった以外はすべて着外であった。第3回ブリーダーズゴールドカップにも参戦するが5着となる。そして、18頭立てシンガリ人気で挑んだ天皇賞・秋では、1番人気に支持されていたメジロマックイーンに進路を妨害されたこともあり、17着に大差の18着に入線した。しかし、メジロマックイーンは他にメイショウビトリア、ムービースターに対しても進路妨害をしたことを認められ、結果として最下位降着処分が下された。このため、プレジデントシチーは17着に着順が繰り上がった(詳細は第104回天皇賞を参照)。
10歳(現9歳)となった1992年はオープン戦の札幌日経賞より始動し10着。続く札幌記念でも6着となった。そして、このレースを最後に現役を引退することになった。
引退後
引退後は種牡馬となるも、種付け頭数はわずか6頭、血統登録された産駒も3頭で、競走成績も地方で2勝を挙げたのみに終わった。
1995年11月19日に用途変更となり[2]、種牡馬を引退した。それ以降の動向は不明である。
年度別競走成績
- 1986年
- 湯布院特別(400万下) 1着
- 比良特別(900万下) 1着
- 愛知杯 2着
- セントウルステークス(OP) 2着
- 1987年
- 西日本スポーツ杯(900万下) 3着
- 小倉記念 2着
- 朝日チャレンジカップ 1着
- 京都大賞典 3着
- 大原ステークス(OP) 2着
- 1988年
- 1989年
- 1990年
- タイムス杯(OP) 3着
- ブリーダーズゴールドカップ 1着
- 天皇賞・秋 11着
- 1991年
- 天皇賞・秋 17着
血統表
プレジデントシチーの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | ボワルセル系 |
[§ 2] | ||
父 ダイコーター 1962 鹿毛 |
父の父 *ヒンドスタン1946 黒鹿毛 |
Bois Russel | Vatout | |
Plucky Lidge | ||||
Sonibai | Solario | |||
Udaipur | ||||
父の母 *ダイアンケーDianne K. 1950 鹿毛 |
Lillolkid | Jack High | ||
Amaranth | ||||
Bonnie Luna | Bon Homme | |||
Rockiluna | ||||
母 ニシノアイゲツ 1974 鹿毛 |
*マタドア Matador 1953 栗毛 |
Golden Cloud | Gold Bridge | |
Rainstorm | ||||
Spanish Galantry | Mazarin | |||
Courtship | ||||
母の母 ヤマトモアー1967 鹿毛 |
*パーソロン Partholon |
Milesian | ||
Paleo | ||||
アイゲツ | *ガルカドール | |||
ヤマトチカラ | ||||
母系(F-No.) | アストニシメント系(FN:7-c) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Gainsborough 5×5 | [§ 4] | ||
出典 |
- 5代母ヤマトナデシコは1947年の中山記念(秋)勝ち馬、6代母オーグメント(競走馬名アスベル)は共に天皇賞の前身である帝室御賞典と優勝内国産馬連合競走の勝ち馬。さらに牝系を遡ると、小岩井農場の基礎輸入牝馬の一頭アストニシメントにたどり着く。
脚注
注釈
- ^ 当時の格付けはOP。
出典
外部リンク
- 競走馬成績と情報 netkeiba、KEIBA.GO.JP、JBISサーチ