プラマック・レーシング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。KLBot2 (会話 | 投稿記録) による 2013年4月16日 (火) 13:44個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (ボット: 言語間リンク 7 件をウィキデータ上の d:Q1272896 に転記)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

プラマック・レーシング
アレックス・エスパルガロ 2010年
2011年
チーム名
プラマック・レーシング・チーム
本拠地 イタリアの旗 イタリア カーゾレ・デルザ
代表 Paolo Campinoti
ライダー 14 ランディ・ド・プニエ
65 ロリス・カピロッシ
マシン ドゥカティ・デスモセディチ GP11
タイヤ ブリヂストン
ライダーズ
チャンピオン
-

プラマック・レーシングPramac Racing ) は現在ロードレース世界選手権に参戦するレーシングチーム。2000年にイタリアの企業プラマックによって設立された[1]2005年からはダンティーンMotoGPチームと共同で、プラマック・ダンティーンとして参戦した。ダンティーン・チームの代表だったルイス・ダンティーンは2008年シーズンの途中でチームを脱退している。

歴史

ダンティーンMotoGP ( 1999 - 2004 )

ダンティーンMotoGPチームは、1999年スペインの元GPレーサー、ルイス・ダンティーンにより設立された。チームはスペインの2人のライダー、フォンシ・ニエトダビド・ガルシアを擁してヤマハのマシンで250ccクラスに参戦を開始した。

2000年には500ccクラスにステップアップし、ライダーの阿部典史鈴鹿で勝利をおさめた。2001年にはセカンドライダーとしてホセ・ルイス・カルドソが加入した。この年のチームのベストリザルトは阿部の3位表彰台だった。

2002年に500ccクラスはMotoGPクラスに変わったが、チームは昨年度と同じライダー・同じ2ストロークマシンのYZR500で戦い続けた。パワフルな990cc4ストローク勢には歯が立たず、ベストリザルトは10位に終わった。

2003年にようやく4ストロークマシンのYZR-M1を手に入れ、中野真矢の1台体制でシーズンを戦った。

2004年にはマシンをドゥカティにスイッチし、前年型のデスモセディチ GP3でシーズンを戦うことになった。2003年のスーパーバイク世界選手権チャンピオン、ニール・ホジソンと同シリーズ2位のルーベン・チャウスのペアを擁したが、シーズン中盤にチームは資金難に陥り、テストプログラムを満足に消化できなくなった。ベストリザルトはチャウスの3位だった。

プラマック・レーシング ( 2002 - 2004 )

プラマック・レーシングは2002年に、原田哲也をライダーにホンダ・NSR500でMotoGPクラスに参戦を開始した。

2003年は4ストロークマシンのRC211Vを手に入れ、ライダーは原田に代わり玉田誠と契約した。この年、ホンダ系チームでは唯一ブリヂストンタイヤを履き、ベストリザルトは3位表彰台だった。

2004年はポンス・レーシングと一緒に「キャメル・ホンダ」というチーム名で戦うことになった。実質は1台ずつの別チームであり、プラマックは引き続き玉田・ブリヂストンの体制で、ポンスはマックス・ビアッジミシュランタイヤという体制だった。玉田はシーズン中に2勝を挙げた。

プラマック・ダンティーン ( 2005 - 2007)

2005年、ダンティーンMotoGPとプラマック・レーシングは共同で「プラマック・ダンティーン」として参戦することとなった。チームは前年型のドゥカティ・デスモセディチ GP4を使用し、ライダーにイタリアロベルト・ロルフォを擁した体制だった。タイヤはダンロップを使用したが、最下位近辺の常連となってしまった。

2006年は、ワークスチームと同じ最新型のデスモセディチ GP6を供給された。ライダーは新たにアレックス・ホフマンホセ・ルイス・カルドソの2人体制となった。しかしまたもダンロップタイヤの競争力不足で、最下位近辺から抜け出すことはできなかった。

2007年のシーズン開幕前、ダンティーンMotoGPはプラマック社の傘下に入ることが発表された[2]

排気量制限が800ccに変更になった2007年は、最新型デスモセディチ GP7を供給され、タイヤはブリヂストンにスイッチした。ブラジルアレックス・バロスが新たに加入し、ホフマンのチームメイトとなった。バロスはトップ10圏内の常連となる活躍を見せ、第6戦イタリアGPでは3位表彰台に立った。一方のホフマンは第11戦アメリカGPでプラクティス中に手に重傷を負い、欠場を余儀なくされた[3]。同GPでは代役にチャズ・デイビスが、第12戦チェコGPではイヴァン・シルヴァが採用された。ホフマンは第13戦サンマリノGPで復帰したが、その次の第14戦ポルトガルGPを最後にチームを解雇された。ポイント獲得の可能性があったにもかかわらず、レース中にやる気を無くして勝手にマシンを降りたのがチームの怒りを買ったためである[4]。シーズン残り3戦は,再びチャズ・デイビスが代役を務めた。

アリーチェ・チーム ( 2008)

2008年もデスモセディチ(GP8)+ブリヂストンのパッケージを継続することとなった。ライダーは一新され、シルバン・ギュントーリトニ・エリアスのコンビとなった。テレコム・イタリアISPブランド、アリーチェがスポンサーに付き、チーム名はアリーチェ・チームに変更になった。またルイス・ダンティーンは、第10戦ドイツGP開催中にチームを脱退した[5]。エリアスは第12戦チェコGP第13戦サンマリノGPと2戦連続で表彰台に立ち、ドゥカティ勢としては2番手となる年間ランキング12位を記録した。

プラマック・レーシング ( 2009 - )

2009年シーズンはチーム名をプラマック・レーシングに戻し、参戦を継続した。マシンパッケージは変わらず最新型デスモセディチ GP9とブリヂストンタイヤ、ライダーはミカ・カリオニッコロ・カネパに変更になった[6]。カリオはシーズン中盤、体調不良のケーシー・ストーナーの代役としてドゥカティ・ワークスから3戦に出場した。その間のプラマックのシートの穴埋めはミッシェル・ファブリツィオが1戦、アレックス・エスパルガロが2戦務めた。

2010年シーズンはカリオのチームメイトに、前年の代役参戦時の走りが評価されたアレックス・エスパルガロが就くことになった。カリオは肩の痛みにより苦戦が続き、シーズン終了を待たずにチームを離脱、終盤2戦にはカルロス・チェカが代役参戦した。

2011年はライダーを一新し、スズキからロリス・カピロッシを、ホンダLCRからランディ・ド・プニエを迎えることとなった[7]

脚注

外部リンク