ノート:バグダードの戦い

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正確性に関するテンプレートの付加について[編集]

以前より個人的に気になってはいたのですが、改めて読み直しまして、やはり記事内容についていささか正確性に疑問を感じられる部分が多々有りましたので、その旨閲覧される方に注意を促すべくテンプレートを貼りました。特にアッバース朝末期までサーマッラー遷都後にも「知恵の館」が存続していたか寡聞にして聞きませんし、また、現代の論者の評と、この戦役についての根本資料である『集史』であるとか『ワッサーフ史』など(あるいは恐らくヌワイリーやマクリーズィーなどのマムルーク朝の歴史家のものと思われるものなど)の叙述を区別せずに書くような方法は、記事として不適切であると思われます。そのため、今後の抜本的な修正に向けての指針も兼ねて、問題と思われる箇所に一応注記を加えておきました。バグダード包囲については東洋文庫版のドーソン『モンゴル帝国史』でおおよその資料は網羅されているため、今後の編集方針としては、まずはそれらに記載が有る資料をあたって内容を確認し、この戦役についての歴史学的に妥当と思われる論評も合わせて注記すべきだろうと思われます。--Haydar 2011年3月26日 (土) 18:25 (UTC)[返信]

モンゴル人がバグダードを破壊し、イスラムの科学者が残した書物を廃棄したことは事実。これによって人類は大きく後退してしまった。--220.213.112.218 2011年7月17日 (日) 08:33 (UTC)[返信]
バグダードはフレグ率いるモンゴル軍によって破壊・掠奪を受けたのは事実です。しかし、13世紀半ば当時のバグダードはサーマッラーへの遷都を経て創建当時の円城は放棄されて久しく、幾度かの内戦やブワイフ朝、セルジューク朝の覇権を受けて市域もティグリス東岸に移り、カリフ宮殿もティグリス川側にありました。「イスラムの科学者が残した書物を廃棄したことは事実」とのことですが、後世の文献ではモンゴルの文化破壊者としての側面を強調して、バグダード攻略の時ティグリス川は廃棄された書物のインクで川水がまだら模様になったなどとまことしやかに語られているようですが、『集史』や『ワッサーフ史』では駄獣4000頭分の膨大な量の戦利品がバグダードから駐営地であったアーザルバーイジャーン地方のマラーガまで運び出されたと書かれているものの、書物の廃棄などについては書かれていません。また、バグダードはネストリウス派の大主教座が置かれていましたが、彼らはカリフに従うムスリム住民たちとは対照的にフレグ側の降服勧告には受諾しており、掠奪や殺戮からの対照には外されていたため彼らの生命や財産は安堵されていた、とも伝えているようです。アッバース朝初期以来の書物の残存状況を知るには、サーマッラー遷都以後の「知恵の館」の行方や同じく学者たちの活動の軌跡を把握しないと、バグダードに書物が大量にあったこと、それらがどこになったかを証明し、さらにそれをモンゴル兵が廃棄したことなどを文献学的に明らかにせねばなりません。また、バグダードは破壊と掠奪にさらされましたが、市街地が完全に更地のように破壊された訳ではありません。『集史』では掠奪開始から7日後に投降していたバグダードの名士たちの嘆願によって、バグダード一帯での掠奪や殺戮を停止するようフレグの命令が発せられますが、その時にフレグは掠奪や殺戮を免れたバグダードの市民の生命と財産を安堵すると宣言しています。これによってバグダードはフレグのもとでイラーク・アラビー州の州都として存続し、数年後に『世界征服者史』の著者ジュヴァイニーがバグダードの長官(ハーキム)としてバグダードの復興に20年近く尽力する事になります。バグダードはイルハン朝君主の冬営地のひとつとして数えられており、イルハン朝下の20州の内、バグダードを中心とするイラーク・アラビー州は税収では全国第2位であり、バグダードの領有はイルハン朝内部の権力基盤を左右する重要なファクターとしてその後のイルハン朝の歴史と大きく関わっていきます。すなわち、市街地の破壊が=バグダードの滅亡では全くない、ということを重々認識せねばなりません。「イスラムの科学者が残した書物を廃棄したことは事実」とのことですが、アッバース朝時代初期にアラビア語による科学文献を著した人物の多くはネストリウス派のキリスト教徒など、非ムスリムの人々が多くバグダードなどで活躍した彼らをして「イスラムの科学者」と一括りにするのも問題です。「廃棄したことは事実」という点も、同時代資料的に確実にそうだと言えるかどうかは怪しい部分がある事は上で指摘した通りで、その情報の出所がはっきりしないうちには無闇に事実である事を前提にして断定してかかるのもやはり問題です。「これによって人類は大きく後退してしまった。」とのことですが、件のマラーガに建設された天文台でナスィールッディーン・トゥースィーらによる天文学等の学術振興は恐らく前近代のイスラーム世界での学術・文化振興を語る上でも重要な時代の一つです。トゥースィーを後援して天文台の建設等を進めたのは他なるフレグ本人です。天文台の建設はフレグの兄、モンケの要請でもありましたが、マラーガの天文台と大元朝の回回司天台との天文観測データの交流は有名な話でして、モンケの悲願をフレグとクビライが果たしたことになります。トゥースィーの同時代人で医学方面で有名な人物としてはクトブッディーン・シーラーズィーがおり、さらには『集史』の編者としても有名なラシードゥッディーン・ハマダーニーがいます。トゥースィーの業績は多岐に渡りますが、天文学について言えば、例えば有名なアブドゥッラフマーン・スーフィーの『星座の書』のペルシア語訳註本を作り、これがカージャール朝時代までイラン以東の地域で広く流布しました。ラシードゥッディーンは『集史』の編者で政治家ではありましたが、もともとは医者であり、東方からの医学知識の摂取には意欲的であり、『タンスーク・ナーマ』には『王叔和脈訣』や『銅人』などの中国医学書を下に書いており、農業書には『農桑輯要』をもとにしています。これらの近年の研究から判明している歴史的な事実からことからも、状況的に考えてバグダード攻略にともなって「モンゴル人」が意図的に「イスラムの科学者が残した書物を廃棄した」かは疑わしいと言わざるを得ません。さらに、「これによって人類は大きく後退してしまった。」という部分もトゥースィーやラシードゥッディーンの業績からすると、その認識も事実から乖離している感じが否めません。むしろ、イルハン朝が崩壊した後、断続的に起きた戦乱や地震等の災害でマラーガやタブリーズで蓄積された知識が十分に継承されず散逸したことの方が、指摘されていると聞きます。また、思想史的にもイルハン朝前後から哲学的な思潮は後退して、神秘主義的な方法論を宣揚する教団組織の本格的な活動がイラン内外で伸長しており、思想史的にもこの時代前後は大きな転換期という認識がされているようです。こういった転換期に前時代に文献群が忘却されていくことはままあり、そのためにそれらの文献も失われていった可能性も十分あります。そのため、バグダード攻略が前時代の文献群喪失の最大の原因であるのか、そもそも文献廃棄の情報は本当なのかについてはよくよく事実関係の精査を要する問題だと思います。(「人類は大きく後退」云々は全く無根拠だと思います。)--Haydar 2011年7月21日 (木) 16:46 (UTC)[返信]
イルハン朝下で書かれた集史やワッサーフ史のみを事実とし、後世に書かれた書物を疑問視するのはなぜですか?イルハン朝下で書かれた歴史書がイルハン朝に不都合なことを書きますかね?それと、モンゴル軍はネストリウス派キリスト教徒が多かったでしょうに。アバカはビザンツ皇女を側室に迎えている。ついでに、イスラムの科学者が非ムスリムに限ったような書き方をするのも疑問なのですが。キンディー、イブン・アル・ハイサム、ジャービル・イブン=ハイヤーンは非ムスリムなんですかね?バグダードだけでなく、ハッラーンといった学術が盛んだった都市もモンゴル軍は丸ごと滅ぼしていますけど。中央アジアの都市も丸ごと潰されていますよね。モンゴル人は見せしめのために都市まるごと破壊するしていましたから、バグダードを破壊しても何の不思議もありませんよ。--124.241.42.202 2011年8月20日 (土) 08:40 (UTC)[返信]
”イルハン朝が崩壊した後、断続的に起きた戦乱や地震等の災害でマラーガやタブリーズで蓄積された知識が十分に継承されず散逸したことの方が、指摘されていると聞きます” そもそも、誰から指摘されているんですか、これ?モンゴルがアッバース朝カリフを殺して、イスラム世界が混乱したことなどは無視ですか?世界征服者の歴史にモンゴルの残虐行為は書かれているでしょうに。『彼らは来たり、破壊し、焼き、殺し、奪い、去った。』彼らは文明を持ち込んだわけではないのですよ。--124.241.42.202 2011年8月20日 (土) 08:59 (UTC)[返信]
>集史やワッサーフ史のみを事実とし、後世に書かれた書物を疑問視するのはなぜですか?
単純に「後世の記録だから」という訳ではないのですが、『集史』その他フレグ〜アルグンの時代までの記録で、アルグンのようにモンゴル王族や部将たちがイラーク・アラビー州の拠点としてバグダードを利用し、そこでバグダードやイラーク・アラビー州で徴税された財貨を国庫に納めたり勝手に接収したりしている記事があるからです。特に、バグダードのハーキムとなっていた『世界征服者史』の著者アターマリク・ジュヴァイニーは、1280年代のはじめくらいに即位前のアルグンからモンゴル王族の権限だからと無理矢理接収させられ、さらには(アバカの時代末期の宮廷内の権力闘争によってですが)不正に蓄財していたと濡れ衣を着せられ拷問まで受けていますが、もし、バグダードがフレグの遠征の時に完全に破壊され都市が放棄されるような状態になったままであったら、例え遠征から20年近く経ってもこのような記事が出て来るはずがありません。「アターマリク・ジュヴァイニーがハーキムとしての権限を濫用して不正蓄財をしている」という噂の根拠になるような、経済的な活動がバグダードやイラーク・アラビー州に継続していたと考えねば不自然だからです。このアルグンのバグダードやイラーク・アラビーでの掠奪が叔父であるテグデル・アフマド・ハンとの対立をある意味決定付けた重要な事件であるだけに、バグダードが破壊されたままであったらアルグンの行動と整合性が合わなくなってしまいます。加えて、アターマリク・ジュヴァイニーをバグダードのハーキムに任命したのはバグダードを包囲・破壊したはずの当のフレグであり、アターマリク・ジュヴァイニーは以後1260年代からアルグンの掠奪の直後に没するまで、アバカ、テグデルの治世中も一応この地位を安堵され続けています。
私は当該資料の実見はまだしていませんが、黒柳恒男先生の論文によるとナスィールッディーン・トゥースィーの自伝に、フレグとともにバグダードなどイラーク・アラビーでの冬営行に随伴した時は、バグダードなどイラーク・アラビー州に残存する学術書の収集を行い、タブリーズやマラーガのあるアーザルバーイジャーン地方に持ち帰っていたと書かれているそうです。これが事実なら、モンゴル兵による掠奪などのあともこの地域には学術書が保管されていたところがあったということになります。
イルハン朝治下のキリスト教徒側の記録としては、アルメニア王国のガンジャケツィのキラコスの『アルメニア史』や、フランス王国に使節として派遣されたアルメニア王国の王族ハイトンの『東方史の華』などがありますが、バグダードでの掠奪や殺戮は述べるもののムスリムの書物を毀棄したというような話は見当たりません。同じく、バグダードでの掠奪や虐殺については、1280年代に書かれたヤコブ派キリスト教会の大主教バル・ヘブラエウスの年代記によると、フレグの軍に参加していたグルジア王国軍が、バグダード市街地の掠奪の際に、ネストリウス派大主教のもとに逃げ込んだムスリム住民も捕まえて虐殺し、その財産も掠奪していたことを述べているようですが、自分が確認した限りでも、同書でモンゴル兵やグルジア王国あるいはアルメニア王国その他のキリスト教徒の兵が、ムスリム住民から掠奪した書物の数々を河川に投擲した等とは書いていないようです。
>バグダードだけでなく、ハッラーンといった学術が盛んだった都市もモンゴル軍は丸ごと滅ぼしていますけど。
ハッラーンはフレグの西征の時は戦闘前に住民たちがフレグ側に降服し安全保障を安堵されたので、掠奪や破壊を免れたはずですが・・・
上記でも述べましたが、イルハン朝の領土はイラン高原からイラク、アナトリアまでおおよそ20の州から成り立っていたようですが、渡部良子先生の論文に述べられていますがイルハン朝末期くらいに成立した Nuzhat al-Qulūb という資料の地理篇によると、この20州のうち、最も税収が高かった地域はアナトリアのルーム地方で、第2位がバグダードのあったイラーク・アラビー州、3位がファールス州だったそうです。ガザンの財政再建までイルハン朝ではたびたび国庫の枯渇に悩まされ、ガザンは租税徴収の引き締めなどを行い、一連の政策はオルジェイトゥ、アブー・サイードの時代も継続していました。現実問題としてガザンの時代は経済の安定化や国家予算の確保に心血を注いでいた時期であり、それらの時代を踏まえた上での資料であるNuzhat al-Qulūb がイルハン朝君主の冬営地としてバグダードの近郊にたびたび幕営していたイラーク・アラビー州の評価を、敢えて全国第2位などと粉飾する理由がありません。宮廷が定期的に幕営する、ということは、カラコルムやジョチ・ウルスのバトゥ・サライやベルケ・サライ、イルハン朝のタブリーズも含め、その幕営地の周辺に都市などが存在する証拠でもあります。実際、イブン・バットゥータはバグダードに夏営している時期にアブー・サイードの宮廷を訪れていますが、カリフ宮殿跡などは荒廃していたようですが、バグダードの市街地そのものは存続し、バザールやモスク、マドラサにも十分人が居り、都市機能は存続していた様子を述べています。
例えば、 Nuzhat al-Qulūb に載っている他の都市の記述と比較すると、チンギス・カンの遠征で破壊されほぼ放棄されていたらしいホラーサーンの都市バルフは「(イランの伝説上の王)カユーマルスによって建設された」と述べていますが、わずか、3、4行で済ませられ、イルハン朝時代にどうなっていたのか、同書ではほとんど伺い知る事は出来ません。バルフはモンゴル時代以前はホラーサーン地方の4つの主要都市、ニーシャープール、ヘラート、メルヴと並び称されていましたが、他の3つの都市の記述と比べてもその分量の少なさは異様ですらあります。(20世紀の初頭に G.Le Strange による校訂本の場合、1ページにつき24行ですが、ニーシャープールの場合1ページ半ほどの分量で、地震によってたびたび市街地が崩壊しその度に隣接する土地に新しく市街地を建設したとか市街地に流入する河川で水車を回している(現在進行形で)など割と詳細な記事があり、ヘラートもクルト朝が存在していたこともあってまる1ページ分の22行ほど、メルヴも「現在荒廃している」と書かれていますがやはり22行あり、バルフはわずか6行弱しか記事がありません。メルヴの例を考えれば、イルハン朝時代も荒廃していたら「荒廃している」と書かれるはずですが、バグダードの項目には特にそのような文言は見当たりません)
>モンゴルがアッバース朝カリフを殺して、イスラム世界が混乱したことなどは無視ですか?
スンナ派ムスリムにとってはアッバース朝の滅亡が大問題だったことは間違いありませんが、イスラム世界といってもスンナ派のムスリムだけいる訳ではありません。シーア派ムスリムにとってアッバース朝のカリフの喪失が宗教的・政治的どれだけ影響したか考えると、「イスラム世界が混乱した」という単純なフレーズには疑問です。『集史』フレグ・ハン紀の有名なエピソードですが、フレグがバグダードを包囲するにあたってスンナ派の占星術師などがバグダードのカリフを攻撃する事は天変地異を引き起こす行為だ、という進言に対して、シーア派のムスリムであったナスィールッディーン・トゥースィーが4人の正統カリフのうち3人が暗殺され、アッバース朝のカリフも何人も宮廷内で暗殺されているが、いずれの時の天変地異など起きなかったと進言してフレグはバグダードへの侵攻を進めた、というものがあります。後にタグリービルディーなどのマムルーク朝側の歴史家たちは、トゥースィーのこの進言がアッバース朝の本家を滅亡させることに繋がったと非難しているようではありますが。ティムール朝やオスマン朝、ブハラ・ハン国とかも含めて良いかも知れませんが、「諸スルタンのスルタン」とか「地上における神の陰」のような本来アッバース朝カリフなどが帯びていた称号や讃辞が、イルハン朝の頃からカリフでもないテュルク・モンゴルの君主たちに使用されるケースが出て来たのは確かなようです。岩武昭男先生の論文だったと思いますが、ガザンがイスラーム改宗したあたりから「地上の支配権を担うモンゴル君主が、カリフ権やイマーム権を代行する」という理論がモンゴル宮廷でのスンナ派法学者たちや知識人たちのあいだで構築されて行ったらしいですが、これも、カリフの支配権の委任理論に、セルジューク朝スルタンが割って入って来て、スルタンがカリフが本来持っていた政治権力を実質奪い取っていたことの延長での理論構築だったようです。スルタンによるカリフの政治権力の剥奪の問題は嶋田襄平先生も書かれていましたが、マムルーク朝の場合アッバース家の生き残りをカリフにすえることで従来の法理論を保持し、一方イラン(あるはアナトリア)以東ではアッバース朝カリフが居なくても現実の支配構造に適合させるような(スンナ派の)ムスリム政権の支配正統性を法理論を構築する事になり、従来からあったらしいイラン以東地域でのアリー家の血統的尊崇などもより高まって、クブラウィーやナクシュバンディーといった教団のような新たな宗教権威の勃興によって、テュルク・モンゴル系の君主が宗教権と統治権を分立させている構造が現れるようになった、というのはティムール朝時代の著書や論文でもいくつか書かれていたはずです。間野英二先生の論文などを見られると良いでしょう。
>イスラムの科学者が非ムスリムに限ったような書き方をするのも疑問なのですが。キンディー、イブン・アル・ハイサム、ジャービル・イブン=ハイヤーンは非ムスリムなんですかね?
ムスリムの学者たちが科学史に寄与しなかったなどと書いた憶えは全くありません。どこからそのような結論をされたのか当惑いたします。恐らく「イスラムの科学者が残した書物」という文言に対して、私が「アッバース朝時代初期にアラビア語による科学文献を著した人物の多くはネストリウス派のキリスト教徒など、非ムスリムの人々が多くバグダードなどで活躍した彼らをして「イスラムの科学者」と一括りにするのも問題です。」と述べた事を指しておられると思いますが、自分はアッバース朝時代初期は科学や医学関係で功功績を残しているのは主にネストリウス派などのイラクやシリア方面に在住していたキリスト教徒たちなど非ムスリムたちがメインであり、彼らの業績を基盤としてやがてキンダ王家の末裔であるキンディーのような生粋のアラブ人からも科学史に貢献する人材が現れていったと理解しています。
「イスラムの科学者が残した書物を廃棄したことは事実」という文言そのものに疑義を抱いていますが、それとはまた別に、項目本文で特に説明もなく「イスラムの科学者」という書き方では、勢い初期イスラーム時代の非ムスリムの学者たちの貢献を看過しかねないものと危惧し、敢えて触れたものです。アッバース朝時代初期からの科学史や文化史を扱った書籍などを見るに、その実態は「イスラムの科学者」というやや安直な表現では収まり切らないもっと重層的で多面的な展開があり、イルハン朝時代までの科学史について触れるにしてももっとこの種の分野の研究成果を踏まえた表現が出来ると思います。
>中央アジアの都市も丸ごと潰されていますよね。モンゴル人は見せしめのために都市まるごと破壊するしていましたから、バグダードを破壊しても何の不思議もありませんよ。
モンゴル軍による戦争で「破壊された」という資料上の記述と、その後イルハン朝時代も荒廃したままかどうかは、全く別問題です。
私はフレグの遠征でバグダードは掠奪や破壊を被った事自体は否定していません。『集史』ではイルハン朝では宮廷でのモンゴル王侯の内部闘争などにより、モンゴル軍兵の貧窮や反乱などでイラン東部や西部では都市部でのモンゴル軍兵による掠奪や地元官吏たちによる租税の着服、臨時課税の乱発が繰り返されていたという記事を良く目にします。バグダードやイラーク・アラビー州も上記のジュヴァイニーのような例があり、こういった収奪が行われているということは、そこには収奪を受ける住民も租税も(かなりぼろぼろの状態とはいえ)存在したことを裏付けていると考えて差し支えないはずです。
>世界征服者の歴史にモンゴルの残虐行為は書かれているでしょうに。
念のためですが、『世界征服者史』にはフレグによるバグダード包囲の部分は書かれていません。フランス国立図書館蔵の『世界征服者史』の写本の一部などに、ナスィールッディーン・トゥースィーによるというバグダード包囲の記事が付されているものならあります。モンゴル軍による残虐行為についての記録は『世界征服者史』にも『集史』にも色々と書かれていますが、それと「イスラムの科学者が残した書物を廃棄したことは事実。これによって人類は大きく後退してしまった。」という一文を鵜呑みにすることとは、全くの別問題です。「イスラムの科学者が残した書物を廃棄したことは事実。」と断言して書くからには、発言者にはまずその資料的根拠を明らかにする義務が生じるはずですが、その資料的根拠は今もって提示されていません。 それによって「これによって人類は大きく後退してしまった。」と述べられていますが、近年の欧米や日本でのイルハン朝史に関わる研究を一取り見ましても、同時代的な資料を用いた研究でそのような論説はまずお目にかかった記憶がありません。
>アバカはビザンツ皇女を側室に迎えている。
いわゆるデスピナ・ハトゥンは側室(quma)ではありません。アバカのオルド内部ではそれほど飛び抜けて地位が高かった訳ではないようですが、一応正室(khatun)のひとりです。
>彼らは文明を持ち込んだわけではないのですよ。
「文明を持ち込」むというフレーズに、仰りたい事の内容がいまひとつ理解出来ませんが、イルハン朝時代がイラン以東における重大な画期であり、この時代に形成されたものが後代に残した影響は大きいことは、文化史や美術史についてはヤマンラール水野美奈子先生の一連の論文などで様々に論じられています。小学館の世界美術全集のイルハン朝の項目などをご覧になれば大体のことは書かれていますし、その点はかの杉山正明先生なども色々触れられていたはずです。フレグの西征軍は戦争をしにイランの以西の地にやって来たのでしょうけども、その戦争での破壊が、フレグとその子孫たちの統治時代に生まれ現存する様々文物そのものを否定する材料にはなりません。
>そもそも、誰から指摘されているんですか、これ?
歴史資料に記されているイランの地震に関しては、イルハン朝史研究でも有名な F.W. Cleaves の専著がありますし、科研費の報告書でも出ていたはずです。マラーガやタブリーズにあったイルハン朝時代の文物や記録が同王朝滅亡後の散逸については岩武昭男先生の論文でも触れられていたはずです。私もイルハン朝史研究の動向について十全な知見を有している訳ではありませんが、本田実信先生の著書でも良いですし、先年出版された『イスラーム世界研究マニュアル』や、あるいは『ケンブリッジ・イラン史』でも『イラン百科事典』でも良いですが、突っ込んだ議論でもって疑義を呈する前に、まずはイルハン朝史(あるいはイルハン朝前後の時代の)研究の論文なり研究なりをお読みになることをお勧めします。--Haydar 2011年8月21日 (日) 20:45 (UTC)[返信]
Ḥamd-Allāh Mustawfī of Qazwīnの著書'Nuzhat al-Qulūb'では、確かにガザンの税制改革後の税収は、イラーク・アラビー州は2位ですが、同じ著書では、セルジューク時代の数値も出ていて、イラーク・アラビー州はセルジューク時代1/10、ルームは1/5に低下し、全国合計値も1/5以下に低下しています。しかもイラーク・アラビー州はセルジューク時代はルームの2倍の税収がありました。この理由としては通貨のインフレがまずは推測されますが、ヤークートが13世紀初頭に記録した大都市周辺村の数と'Nuzhat al-Qulūb'に記載された村の数を比較すると、半分以下に激減、中には1/10近くに減少している(イスファハン)地域もあります。つまり、戦乱での荒廢は、かなり深刻だった可能性があると思います。「モンゴルが何もかも破壊した」という説に対するHaydarさんの反論は、私も概ね同意しますが、'Nuzhat al-Qulūb'の税収の部分については、少し情報が偏っているようなので追記させていただきました。--以上の署名のないコメントは、111.217.182.226会話/Whois)さんが 2012年3月12日 (月) 03:31‎ (UTC) に投稿したものです。[返信]
フレグとその子孫たちの統治時代を否定するイブン・タイミーヤの思想が、現在のイスラム過激派にまで影響を与えていることを忘れてはいけないと思います。
『集史』では掠奪開始から7日後に投降していたバグダードの名士たちの嘆願によってとありますが、当時の慣習では当然のことですが、7日間は略奪し放題だったということです。
モンゴルによるバグダードの書物遺棄の初出を調べてみる必要があるかもしれませんね。--G0mao会話2016年3月30日 (水) 11:44 (UTC)[返信]

編集の取り消しについて[編集]

Haydarです。去る 2015年11月29日付けの114.21.160.196さんの2度に渡る編集が、記事編集としていささか問題だと思われたたため、それぞれ取り消しを行いました。 この編集に先立ち、本記事中に(恐らく英語版からの日本語訳として)『ワッサーフ史』からの引用と思われる箇所がありましたが、これを(米国のモンゴル帝国史研究者の)デービット・モーガンの著書からの引用とされている部分について、自分が原著("The Mongols")やその邦訳を一読した限りでは当該箇所が見付からず、ネットで英語版の文面を検索したところ、同じく東洋史研究者のBertold Spulerの著書"History of the Mongols"(初版1972年) からの引用の可能性が大ではないかと思われたため、11月27日に当該部分の検証が終わるまで「要検証」のタグを付した次第でした。

これを受けてと思われますが、11月29日に114.21.160.196さんは脚注での『ワッサーフ史』の典拠情報を修正されたもののようです。しかしながら、『ワッサーフ史』の引用部分を「ワッサーフ(歴史家のベルトルト・シュプーラーによる引用」という書き方をされ、さらに脚注でこの典拠情報としてDavid Bade という研究者が著した"Of Palm Wine, Women and War: The Mongolian Naval Expedition to Java in the 13th Century" からの引用とされたようです。

この編集で問題なのは、まず「ワッサーフ(歴史家のベルトルト・シュプーラーによる引用」という部分ですが、まず当該部分はペルシア語(およびアラビア語)文で書かれた(史料である)『ワッサーフ史』の文面をBertold Spulerが英訳し、それを本記事である日本語版に編集者の手に寄って重訳したものであるので、「ワッサーフ(歴史家のベルトルト・シュプーラーによる引用」という説明は日本語として破綻しています。

次に、David Bade氏の著書はクビライによるジャワ島遠征に関する研究書から引用したものであり、直接フレグのバグダード征服をメインテーマとした著書ではないという問題があります。ジャワ島遠征とフレグのバグダード征服とを比較するという意味では有意義ではあるので必ずしも本項目で排他的に扱うべき文献ではないとも言えますが、しかし、それでもDavid Bade氏が論文中で引用する『ワッサーフ史』の部分は、基本的に上述のBertold Spulerの著書に掲載されているSpulerの英訳を転載しているに過ぎません。Bade氏もSpulerの著書もともに英語で著述されているため、当該部分を引用する際はその英訳のオリジナルの訳者であるBertold Spulerの著書の当該部分を引用すれば事足りる事案であって、David Bade氏の著書から二重に引用する必要性がそもそもありません。

このような文献引用の仕方は(一般的なやり方として)甚だ問題があるため、114.21.160.196さんの11月29日の最初の編集は、『ワッサーフ史』の当該部分がBertold Spulerによる英訳であるとの検証が済むまで取り消しが妥当だと判断して取り消しを行いました。

次に11月29日の114.21.160.196さんの二度目の編集についてですが、本記事ではニザール派とアラムート城塞の陥落の前にロルの征服、具体的にはロレスターン地方の征服がフレグ遠征軍によって行われたかのような書き方がされていますが、この編集も記事内容と事実関係について問題があるため取り消しを行いました。 まず、北川誠一先生の諸論文にも書かれていることですが、11世紀以降のロレスターン地方はディズ川を挟んで大ロルと小ロルに分かれていました。このうち、小ロルの勢力はグユクの即位式に列席していた関係でフレグがイラン入りした時にはモンゴル帝国側に帰順していたようですが、大ロルを支配していたファズルーイェ朝のアタベク・テキラであり、『集史』フレグ・ハン紀の記述に依れば、フレグがイラン入りした頃はまだ帰順しておらずモンケの命によってニザール派やアッバース朝、クルディスターンともども討伐対象になっていたようです。帰順の明確な時期は不明なようですが、アラムート陥落後にフレグがバグダード征服に先立ってハマダーン経由でイラク地方へ進出するくだりで、この時期にフレグがキトブカ・ノヤンにロレスターン方面の平定を命じた、という記事が出て来るようです。『集史』ではいまひとつ分かりづらいようですが、ハムドゥッラー・ムスタウフィーの『選史』等によると、このキトブカのロレスターン平定の時に大ロルのアタベク・テキラは軍を率いて帰順したようで、そのままバグダード征服に参加した、との事のようです。

つまり、フレグ遠征軍によるロレスターンの征服はアラムート攻略の後の出来事であり、ロレスターン征服ののちにアラムートが陥落したかのような本記事の書き方は明らかに史実や史料と錯誤していると言わざるを得ません。(ここら辺の事情は、北川誠一先生の「大ロル・アタベグ朝とモンゴル帝国」『文経論叢. 人文学科篇』 8、弘前大学人文学部、1988年(p.77-92) に説明されています) そのため、11月29日の114.21.160.196さんの二度目の編集も問題があるため、取り消しを行った次第です。

本記事は全体的に(歴史学的な根拠が不明確な)通俗的な評価記事をメインに編集された印象が強く、現在までの西アジア史やモンゴル帝国史関係の歴史研究を踏まえた記事作りがなされているのか怪しいいように感じます。いずれ抜本的な記事改正を強く望みますが、応急的なものとして一先ずこれらの処置を行った次第です。 --Haydar会話2016年1月6日 (水) 22:42 (UTC)[返信]

重ねてリバートいたしました。差し当たり11月29日の編集についてですが、これは先立つ他利用者氏の編集によって生じた構文エラー部分を除去したものにすぎません。ご確認いただければ幸いに存じます。--114.21.160.191 2016年1月10日 (日) 15:43 (UTC)[返信]
114.21.160.191さん 編集お疲れ様です。
 確認致しましたが、まず新たに付された「知恵の館」に関する脚注のリンクですが、ブリタニカ百科事典の記述からである、という点は良いのですが、問題はそのブリタニカ百科事典がいつの版か不明確である事と、さらにそのブリタニカ百科事典の記述内容も当該箇所の筆者は「1258年のアッバース朝滅亡までに『知恵の館』存在した」と看做しているようですが、その文献的根拠が示されていません。Wikipedia:信頼できる情報源#情報源でも「『ブリタニカ百科事典』の中には信頼できる三次資料として利用できる記事が多数ある一方で、『ブリタニカ百科事典』、『ワールド・ブック』、『エンカルタ』、『マイペディア』のような著名な百科事典の記事ではあっても、著者の記名がないものは編集部員が書いたものであり、彼らは専門家とは限らないため注意が必要な場合もあります。」と注意書きがされているように、ブリタニカ百科事典は基本的に三次資料であって、情報の原典である史料一次資料)や研究論文・著書である二次資料ではありません。同じ百科事典類であってもイスラーム百科事典イラン百科事典であれば基本的にその分野の専門家が記事を書き、おおよその場合記事制作に用いた典拠情報を載せているため二次資料とほぼ同等のものと言えますが、残念ながら引用されたリンクの記述では「知恵の館」にまつわる情報の典拠が示されていません。よってこのリンクは信頼できる情報源の要件を満たせていないと言えます。そのため、改めてこの部分は差し戻し致しました。
 また、ロレスターン関係の記事も構文エラーの除去との事ですが、時系列の錯綜は修正されていない状況には変わらないため、一文読む限り時系列関係を誤認し易い文は早々に修正すべきと思われたため、時系列に沿う形に修正致しました。加えて、冒頭部分も「知恵の館」がバグダード陥落まで存続していたか怪しい点もさることながら、アッバース朝カリフは一応このムスタアスィムで断絶したと言えますが、この直後にアッバース家の親族がマムルーク朝で擁立されてカリフに即位しており、少なくともこの血統の「カリフ」はマムルーク朝滅亡まで存続していた事は周知の事ですので、その点も記事編集で考慮されていないままでは不適正な状態と言えます。さらに「その後数世紀間にわたって当地は無人の廃墟となった」に至っては明確な虚偽情報です。バグダードはイルハン朝時代でも都市機能は存続してイラーク・アラビー州の州都であった事はイルハン朝側の記録からでも明確にされおり、イブン・バットゥータも旧カリフ宮殿等は荒廃しているものの、市中にあったムスタンスィリーヤ学院その他のマドラサは彼が訪れた14世紀前半でも聴講生が寄宿している様や住民も生活して都市も機能していた事を述べており、この一文は明らかに誤りです。それらの問題があるため、この部分はひとまずコメントアウト致しました。Spuler英訳の『ワッサーフ史』関連の情報はまだ調査出来ていませんが、場合によっては記事の保護を検討すべきかもしれません。--Haydar会話2016年1月11日 (月) 01:05 (UTC)[返信]
Haydarさん、有効な出典の除去はご遠慮ください。
Bade氏もSpulerの著書もともに英語で著述されているため、当該部分を引用する際はその英訳のオリジナルの訳者であるBertold Spulerの著書の当該部分を引用すれば事足りる事案であって、David Bade氏の著書から二重に引用する必要性がそもそもありません。
とのことであれば、Haydarさん、あなたご自身の手で「Bertold Spulerの著書の当該部分を引用」する形へ変更すればよろしいだけの話であって、そしてそれこそが望ましい対処の形なのであって、本ケースにおいて、単に当該の出典を除去、という対応は建設的なものではありませんでしょう。--114.21.160.191 2016年1月11日 (月) 03:33 (UTC)[返信]
114.21.160.191さん 重ねて、自分が主張している点は、「知恵の館」や「バグダード」関係の事柄については「ブリタニカ百科事典は基本的に三次資料であって、情報の原典である史料一次資料)や研究論文・著書である二次資料ではない」事が重要であり、ブリタニカ百科事典と言えども記述内容の根拠に出展が付されていない以上は信頼性に瑕疵がある、ということに尽きます。その点はWikipedia:信頼できる情報源#情報源で注意が喚起されている通りでして、「『ブリタニカ百科事典』の「知恵の館」の項目に書いてあるから」というだけの理由では、「知恵の館が1256年までに存続していた」という事実関係の情報ソース・根拠にはなり得ず、有効な出典とは看做せないのです。そのため、『ブリタニカ百科事典』の当該部分を用いる場合、「後代の俗信」的なものとして「知恵の館が1256年までに存続していた」事を本記事に残すのであればその旨加筆修正する必要があります。しかしながら、再三述べていますように、事実的なものとして載せるには要件を満たせていない事には変わらず、やはりwikipediaの百科事典としての公平性を優先してこの部分の削除等が妥当と考えます。
>あなたご自身の手で「Bertold Spulerの著書の当該部分を引用」する形へ変更すればよろしいだけの話
 この部分の問題は、当該部分をまず英語版からそのまま持って来た時の編集者氏が引用文献の検証を十全にせずにそのまま和訳して掲載してしまった事が原因ですが、ネットで検索しただけでは確認が採れない事案ですので、目下自分も検証中であり、確認が取れ次第暫時訂正する予定ではあります。しかしながら、それはつまり現在の記事は検証可能性が確保されていない、ということでありますのでそれに適った対応をするのがより建設的であると解します。編集にかかわる以上は、wikipediaの百科事典としての公正性・基本姿勢を遵守しつつや閲覧者にとって有益な記事作りを心掛けるべきだと思いますが、残念ながら『ワッサーフ史』関係の引用状況からしても本記事の状態は良好とは言い難く思います。そのため、この状況が改善されるまで、なんらかのタグの付加等の措置をするべきだと考えます。114.21.160.191さんは「あなたご自身の手で」とおっしゃいましたが、自分は自分以外でも記事編集に供せるように情報源としてBertold Spulerの"History of the Mongols"や北川誠一「大ロル・アタベグ朝とモンゴル帝国」等参照すべき文献を提示したつもりなのですが、自分がやった差し戻しの後で114.21.160.191さんはリバートされる前にこれらの文献情報からの内容を確認した上で改めてリバートされたのでしょうか? また、「変更すればよろしいだけの話」とのことですが、SpulerなりBade氏なりが訳したり引用したりした内容が本当にワッサーフ史の当該部分にそう事が書いてあるかも確認・検証せねばなりませんので、ただ単純に「変更するだけ」では問題があるように感じます。特に『ワッサーフ史』や「知恵の館」関係の情報の検証が済むまで、何らかの保護依頼等の処置がやはり必要かも知れません。 --Haydar会話2016年1月11日 (月) 14:17 (UTC)[返信]
まず「知恵の館」に関してですが、これが本記事主題(「バグダードの戦い」)の折に破壊されたというのが果たして歴史的事実にあたるのかどうか、という点でHaydarさんが疑念をお持ちであるという現状は存じており、先立つ正確性に関するテンプレートの付加についてにて述べておられる内容にも説得力を感じています。これについては、本記事主題(すなわち「バグダードの戦い」)を焦点に据えて書かれた体系的な(「最も」信頼性の高い)資料においてこの件がどのように言及されているのかを確認し、それを記事に反映する、というのが理想的な対応になるのでしょうが、果たしてそうしたものが存在するのか、また資料の選定基準、などの点でなかなかそう都合よくも進まないのが現状であろうと認識しております。あるいは「バグダードの戦いにおける『知恵の館』の破壊」を(直接的かつ明示的な形で)否定している資料なるものが存在するならば、そちらを参照する形でその(否定の)旨を(暫定的であれ)併記するという対処も一考に値するのではないかと思います。
重ねて述べておられる編集保護のご提案についてですが、念頭に置かれているのはいわゆる半保護でしょうか。であるとして、理由が単に(このたびの)論争点が存在するため、とのことであれば、それはそもそも半保護の趣旨に反しておりますがゆえ、依頼を提出したところで見送りという結果になるだけかと思われます。本ケースにおいて編集保護が必要となるのは、論争当事者、すなわち私(IP 114.21~)とHaydarさんとの間で編集合戦が発生し、それが継続するおそれがある場合ですよね。--114.21.160.188 2016年1月12日 (火) 04:16 (UTC)[返信]
Haydarです。『ワッサーフ史』の当該部分の問題ですが、今日Bertold Spulerの"History of the Mongols"の当該部分(p.120-121)の確認が取れまして、見たところやはり英語版の引用は本書からのもので間違いなく、英語版の「David Morgan からの引用」という記述は間違いである事がほぼ確定できました。しかしながら、英語版の引用は本書からのものとしては正確さに欠けていまして、所々誤記が確認されました。また本書ではされている(『ワッサーフ史』原典に記述がある)コーランからの引用が省略されていたり、26行程の部分のうち間の10数行も省略されていました。その点は引用例としては許容されるかとは思うのですが、それでも英語版は1、2文脱落してる箇所もあるようですので、後で(参考用に)当該部分を別途掲載した方が良いかも知れません。
 加えて、本書では用いられている『ワッサーフ史』は凡例によれば1850年代にインドから出版された通商ボンベイ版と呼ばれるテキストを用い、翻訳は同じく1856年にドイツの東洋史研究者 Josef von Hammer-Purgstall の編著であるペルシア語校訂+ドイツ語訳本を用いている旨が書かれていますが、残念ながら当該引用部分はこのドイツ語訳の情報のみで、ボンベイ版での当該情報は載っていませんでした。自分は今のところボンベイ版の方は確認出来ますので、そちらを一先ず確認するつもりですが、Hammer-Purgstallと最近イランから出版された『ワッサーフ史』のファクシミリ版と校訂本の方は直ぐには確認が出来ない状況ですので、両書の検証は大分時間が掛かりそうです。(一応、東大と京大の各図書館にはおのおの所蔵されていますので、関東や関西在住であれば程なく確認が取れるだろうとは思うのですが…)
>「知恵の館」について
 自分がモンゴル軍に破壊されたという言説に疑義を抱いている理由はいくつかあるのですが、ひとつはデミトリ・グタスという研究者がアッバース朝時代初期の翻訳運動についてまとめた『ギリシア思想とアラビア文化  初期アッバース朝の翻訳運動』(邦訳 2002年)という本に、『知恵の館』そのものの歴史的実態についてかなり疑問視しており、第2章6節「翻訳運動と「知恵の館」の問題」で、元々はカリフ・マンスールの図書館でありその活動内容もパフラヴィー語からアラビア語への翻訳がされていた事や、後に天文学・数学関係の研究がされていた事、「翻訳された「古代の」諸学問を教えるための「アカデミー」でもなかった事は確かである。」と評している点でして、アッバース朝初期の翻訳活動全般やその後における「知恵の館」の重要性がどこまで歴史的な実態があるかかなり怪しげであるらしい事がまずあります。また、初期イスラーム史の研究者である後藤明先生が平凡社の『新イスラム事典』(初版 2002年)の「バイト・アルヒクマ」の項目で「カリフ、ムタワッキル(在位847-861)の時代に「知恵の館」は自然消滅したが…」(p.386)と述べられており、後藤明先生の説明に従えば、フレグのバグダード包囲(1258年)の四百年も前に「知恵の館」は消滅してしまっていた事になります。残念ながら(事典の性格上)後藤先生がその説の根拠となる資料や研究を上げておられないので、この点は最近のアッバース朝関係の研究を調査しないと何とも言い難いところです。しかし、初期イスラーム史の研究者である後藤先生がはっきりと「ムタワッキル時代に自然消滅した」というだけの根拠はあるはずですので、この点は記事編集をする上でも十分留意せねばならないと思います。
 3つめくらいになりますが、そもそも『集史』をはじめとする13-14世紀に書かれたアラビア語ペルシア語史料に「知恵の館」自体さっぱり出て来ない事が個人的には大きいです。G. Le Strange という研究者が" Baghdad buring the Abbasid Caliphate "(初版 1900年)という創建時代からアッバース朝滅亡までをあつかったバグダードの包括的な歴史研究があるのですが、そこでは「知恵の館」(Bayt al-Hikma)なる単語がさっぱり出て来ておらず、同書のアッバース朝滅亡の部分でも触れられていない事も大きいです。
「モンゴル軍による『知恵の館』の破壊」の出所がどこなのか自体、何らかの研究の対象になりそうですが、この問題自体を別項設けて、ご提案のようなその種の記述がある邦訳等の文献をいくつかあたって記述した方が恐らく問題の正確性に適った対処であろうかと、自分もそのように思われます。
>編集保護について
 記事本文の検証や検討が十分でないまま記事の差し戻しや削除の応酬では記事編集のやり方としては不健全ですので、記事編集が出来るだけの情報源の確認等の材料が揃ってから編集を進めた方がより適切であろうと考え、それまで保護等の措置が必要ではないかと思い、その旨述べた次第です。「フレグによるバグダードの包囲」に関する問題は、700年以上も前の出来事である以上は基本的に歴史研究の成果に依拠したものを記述の中心に据えるべきだと思いますので、その後のこの戦闘についての「評価」的なものは、それとははっきりと峻別して飽くまでこれらの歴史的な研究や情報に付随した形にした方がより中立性が保たれるものと心得ます。なお、本項目の執筆基準となる文献としてですが、東洋文庫版のドーソン『モンゴル帝国史』第4巻(初版 1973年)の第5章(p.207-285)が関連する諸史料をおおよそ網羅していますし、前嶋信次『東西文化交流の諸相』(1971年)等の「バグダードの文化とその滅亡」(p.245-337)も全体的な出来事の推移や関連文献を用いていますので、今でもある程度有効かと思われます。ただ、「バグダードの文化とその滅亡」では前嶋信次先生は『元史』に出て来る郭侃を『集史』等に記述されているフレグ幕下の将軍のひとり Kūkā Īlkāī と同一視していますが、『集史』 の各帝王本紀とテュルク・モンゴル部族誌を精査された志茂碩敏先生の研究(『モンゴル帝国史研究序説』初版 1995年)によって、 Kūkā Īlkāī がウリャンカイ部族出身のスベエテイの(男系)親族である事が(文献的に)立証されているので(p.218-219)、このような近年までのバグダード包囲やアッバース朝末期についての関連研究も参照しながら編集する必要があるかと思われます。(前嶋先生が書かれる以前に欧米の科学史関連の研究で『集史』に出て来る Kūkā Īlkāī を『元史』の郭侃と同一視してしまった研究者が何人かいたようで、その記述に影響されたものと思われます。) --Haydar会話2016年1月12日 (火) 15:43 (UTC)[返信]

関連典拠情報の精査の必要について[編集]

Haydarです。本年初頭から主に『ワッサーフ史』等々のペルシア語資料を中心に本項目の検証作業を続けていますが、やはりイブン・タグリービルディーヌワイリー等のマムルーク朝側のアラビア語資料の確認が必要なようでして、作業は道半ばといった状態です。

ただ、やはり伝ナスィールッディーン・トゥースィー筆の『バグダード陥落記』(Gibb Memorial Series No. 17, Moḥammad Qazvīnī校訂の『世界征服者史』第三巻, 279-292頁 )やクトゥブッディーン・シーラーズィー『モンゴル情報(Akhbar-i Mughulan)』(Iraj Afshar校訂、30-33頁)、『集史』フレグ・ハン紀(Muhammad Rawshan, A. A. Ali-zade両校訂本)、『ワッサーフ史』(ボンベイ版)等の13-14世紀に書かれたペルシア語史料を見て回った限りでは、「知恵の館」の破壊やモンゴル軍による学術書の意図的な棄却という記述は見付けられませんでした。「バグダードのカリフ・ムスタアスィムは滅ぼされ、虐殺されること80万人におよんだ」云々とは『集史』完成の20年程の後に書かれたムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』フレグ・ハンの条(Abd al-Husain Nava'i校訂、589頁)で出て来る文言ではありますが、ここでもやはり書物の破棄や特に「知恵の館」は出て来ません。イラン百科事典を見ても、この点は確認が取れないのでようですし、これはもはや史実的な事柄というよりも、俗説の類いと判断しても差し支えないのではと疑わしく思われます。(イスラーム時代以降のバグダードの歴史研究としては古典であるLe StrangeBaghdad during the Abbasid Caliphate(1900年)でもバグダード攻略の下りでは「知恵の館」云々が出て来ないことは先述の通りですが) ただ、フレグによるバグダード陥落の話しでは良く聞かれるということは、俗説であるにしても欧米ではそのように言われている、という点は一応本文では後段なりで触れておくべきかもしれません。(実際に欧米の著者によるモンゴル関係の書籍でそのように書かれているもの等があればベストですが)

また、本記事を編集する際に特に気をつけなければならないことですが、先日の『ワッサーフ史』や上で触れたムスタウフィー・カズヴィーニーの記事でも見られた事ですが、英語版からの記事上の問題が検証を経ずにそのまま掲載される例がままあるので、引用される場合は必ず情報源や典拠資料の精査や追跡を済ませてからすべきだと思います。

例えば、バグダード#攻囲軍の構成で書かれている「中国人の銃の専門家1000名に加え、」という所の典拠情報として脚注でアメリカの中国史研究者Luther Carrington GoodrichA Short History of the Chinese People(1951年、173頁)からだと書かれていますが、当該箇所を確認すると、この情報も実際にはロシアの東洋史研究者エミール・ブレットシュナイダーMedieval Researches from Eastern Asiatic Sources第1巻の113頁からの孫引きである事がわかります。

この173頁では典拠情報からの引用として、 "a thousand engineer from China had to get themselves ready to serve the catapults, and to be able to cast inflammable substances." とある訳ですが、"the catapults"だと言ってますので「の専門家」ではありません。L. Goodrichからの引用であってもここの部分は明らかに誤訳です。(後述のようにこの記述自体が『元史』郭侃伝がその典拠であるようですので「投石機」とか漢文原文表記の「砲」とかが正しいでしょう)

またそこでもL. C. Goodrichの本でもこの千人云々も(173頁の脚注では、何故か中華民国総統袁世凱が顕彰したという26人の軍事的な英雄のうち、フレグとKuo K'anなる人物が出て来るそうですが、これも本書後段のアルファベット・漢字対照リストの265頁を見るとKuo K'anは郭侃の事だと分かります)、よくよく見ると郭侃(Kuo K'an)の名前が出て来るので、『元史』郭侃伝(『元史』巻百四十九 郭寶玉伝 郭侃条)を典拠にしているだろうことが予想で来ます。

L. Goodrichの引用文はエミール・ブレットシュナイダーの原文ではどう書いているかというと、引用文なので特に変わらないはずですが、当該書113頁の本文末尾に、 "A thousand engineer from China had to get themselves ready to serve the catapults, and to be able to cast inflammable substances (naphtha)." となっていて、ナフサの部分が省略されている事が分かります。また、このブレットシュナイダーの本では118頁以降にバグダード攻略についての記述がされているのですが、アラムートのニザール派の討伐について書かれた後にイラン鎮守軍のバイジュ・ノヤンがフレグのもとに召喚された話しが出て来るので、逸話の順序立てからするとどうも『集史』フレグ・ハン紀の記述をベースにしているように思われます。

ただ、ブレットシュナイダーは"A thousand engineer from China..."の部分の典拠情報を載せていないので、これを郭侃(Kuo K'an)云々と補足したのはL. C. Goodrich本人によるものと看做せるかと思われます。(Goodrichが触れるように、袁世凱がどこかしらで郭侃について言及した事があるのかもしれませんが、ここら辺は未調査です)

以上は「知恵の館」関係とアメリカの中国史研究者Luther Carrington Goodrich関係の典拠情報について、最近までに調べた事の報告のようなものですが、記事本文で歴史的な事柄について情報を載せる場合は、やはり孫引き曾孫引きになっているようなものや事は避け、なるべく現在での研究論文や研究書の記述に依拠すべきかと思われます。また、それらの研究で使用されている(モンゴル帝国時代に前後に編纂された)原典資料についても、少なくとも現行刊本や(刊本になっていない場合は)主要な写本、もしくはその翻訳文がある場合は、その引用される当該部分を確認したうえで附記して記事化すべきであろうと思います。それらの原典史料(『元史』『集史』等)からの引用部分が不明確である場合は、例え近年の研究論文での記述であろうとも本文記事化は避けるのが至当であるやに思われます。

そのため、今後の記事編集のためにも、記事情報の典拠に瑕疵がある場合は一旦その部分を削除する等し、併せて記事化する際には可能な限りその編集内容の典拠情報の事前的な精査は必須である事を提言しておきたいと思います。--Haydar会話) 2016年10月16日 (日) 04:10 (UTC) リンクを修正。--Haydar会話2016年10月16日 (日) 07:17 (UTC)[返信]


126.151.19.93さんの編集を差し戻し致しました。リバートの理由ですが、上記で自分が何度か指摘して来た通り、自分が先日削除した冒頭部分は、
 第1に、「当時の記録からは、13世紀半ばまでバグダード知恵の館が存在したのか(資料的・研究史的に)確認が出来ず、さらには初期イスラーム史の研究者(後藤明氏等)から『9世紀半ばには自然消滅した』との指摘もされている」点、
 第2に、なおかつ加えて「何十万冊もの大量の学術書はモンゴル軍によって燃やされるか、または、川に捨てられた」事も(同時代的な)資料的に確認が取れていないため今現在検証可能性が確保されていない点、
 第3に、(これに至っては)「『世界征服者史』『集史イブン・バットゥータの旅行記その他の13-14世紀のアラビア語ペルシア語史料に基づく限り、『市民は皆殺しにされ、その後数世紀間にわたって当地は無人の廃墟となった。』の部分は明白な虚偽情報である点(アッバース朝カリフも一応はマムルーク朝下でも存続しているため「「カリフ」の系統も殺されて途絶え」という部分もやや難点)
これら3点を主な理由として削除したものでしたが、126.151.19.93さんの差し戻し編集は、残念ながらこれらの問題点のいずれも解消出来ていません。「同様の理由に基づく」とのコメントを残されていますが、何がどう「同様の理由」なのか全く説明不足の状態で、これだけでは差し戻された事もこれも残念ながら説得力を感じられません。上記でも指摘した通りですが、英語版に基づく『ワッサーフ史』の引用も(出典である英語テキストから見ても)やや正確性に欠けており、いずれにしても本項目の全面的な改定は必要であると切に感じます。本項目は、西アジアの歴史としては一応は特筆べき事件であろう事は異論は出ないとは思うのですが、そうであるが故に'史料や現在までの歴史研究等に基づいた記事作りは須く心得るべき事と思われ、リバートや削除の応酬ではなく、(少なくとも記事の骨子となる部分は)可能な限り検証に耐えうるような信頼できる情報源に従う形で編集すべきだろう事と改めて提言致しておきたいと思います。--Haydar会話2016年11月4日 (金) 17:07 (UTC)[返信]
不躾の虞を承知ながら申させていただきますが、2016年1月12日 (火) 04:16 (UTC)時点から何一つ進展していないように見受けられます。たとえばブリタニカ百科事典ひとつとってもこれにより破壊されたとの旨を明確に記しているわけで、またそうした情報(源)の否定的検証に取り掛かるにしても、1次資料の検証は信頼できる情報源に委ねる形とするのが好ましく、我々ウィキペディア編集者の独自検証であってはなりません。--126.162.102.149 2016年11月5日 (土) 07:23 (UTC)[返信]
そしてHaydarさん、まさに2016年7月30日 (UTC)に申したことでございますが、単にごっそり除去してしまうのではなく、今一度、修正、特に加筆修正による対処を検討してはいただけませんでしょうか。貴公の2015年10月19日 (UTC)以降の全編集を精査させていただきましたが、概ね他者の編集に文句を付けるだけの趣旨のものしか見当たりませんでした。それはそれで一つの貢献の形と見ることも当然ながら可能ではございますし、その根拠としての検証可能性の重視、これは至極真っ当なものでございますが、ひるがえって、ご自身の加筆編集に際しては一切の出典を提示なさらない。貴公の優れたる能がより建設的な方向に発揮され得ることを願って止みません。--126.162.102.149 2016年11月5日 (土) 07:48 (UTC)[返信]
126.162.102.149さん 改めて差戻し致しました。126.162.102.149さんがや126.151.19.93氏と同一の方なのかは分かりませんが、本ノートにて自分が数度に渡り本記事の現状での問題点を指摘し、他の編集者諸氏による記事編集上での材料や検証に資すればと思い、その根拠となる典拠情報等も併せて付したつもりでした。しかしながら、年初から今秋に掛けて自分以外に本記事の問題部分に手を付けた編集者は他にいなかったようであり、それも『ワッサーフ史』の引用部分の訂正が出来た程度という感じでした。このような状況で、典拠情報を載せたものの、一連のリバートで何らそれらが有効に用いられていないような状況は甚だ遺憾に感じます。
 重ねて、記事冒頭部分での明らかな虚偽情報を含む文章が放置されたままというのは、Wikipediaの百科事典としての信頼性を損ねるものであり、早急な改善が必要であろうと改めて感じます。また、この不適正と思われる状況に対して、本格的な記事改定までの暫定措置として不可視化や(それでは不十分であるという指摘を受けて)削除したものでしたが、残念ながら建設的な記事編集に結びついていません。また、再三ブリタニカ百科事典の当該記事についても、Wikipedia:信頼できる情報源#情報源にも「『ブリタニカ百科事典』の中には信頼できる三次資料として利用できる記事が多数ある一方で、『ブリタニカ百科事典』、『ワールド・ブック』、『エンカルタ』、『マイペディア』のような著名な百科事典の記事ではあっても、著者の記名がないものは編集部員が書いたものであり、彼らは専門家とは限らないため注意が必要な場合もあります。」と注意書きがされているように、ことバグダード攻略関係のソースとしてはブリタニカ百科事典は飽くまで三次資料であり、しかも存在していた事の論拠が明らかにされておらず、執筆者も不明のままであって、ブリタニカ百科事典に書いてあるという理由だけでは信頼できる情報源の要件を満たせていない点等を指摘したつもりでしたが、それらも考慮されておられぬやに思われるご意見にも重ねて遺憾に感じます。
2016年1月12日 (火) 04:16 (UTC)時点から何一つ進展していないように見受けられ
 『ワッサーフ史』の当該部分の英訳の典拠が、David Morganの著書からであるという英語版の説明は誤記であり、実際はBertold Spulerの"History of the Mongols"からの引用である事はほぼ特定出来ましたが、このSpulerの英訳もどうやら19世紀のHammer-Purgstallによる『ワッサーフ史』のドイツ語訳からの重訳らしいところまでは分かりました。Spulerが典拠としたHammer-Purgstall版が最近まで確認出来なかったため、この部分は放置せざるを得なかったのですが、年初からあまり時間が取れず他の検証もあまり進んでいません。時に、「何一つ進展していないように見受けられ」と評された訳ですが、126.162.102.149さんは何かしら関連情報の精査や検証はされたのでしょうか? 
 このままでは今後も建設的な議論になるかは覚束無いように感じられたため、個人的に記事化するにはまだ準備不足の感が否めないものの、今後数度に渡って暫時記事の改訂を行う心積りでおります。ひとまず、参考文献表を載せましたが、本記事を執筆するに必要と思われる13-14世紀のペルシア語アラビア語による関連史料と、モンゴル帝国史やイスラーム史関係の研究者の手になる研究文献を載せました。特に後者はおおよそは代表的なものだけであるため、近年の研究はカバー出来てないかとも思われますので、これも随時増補すべきかと思います。--Haydar会話2016年11月5日 (土) 20:34 (UTC)[返信]

Haydarです。長らく放置状態でしたが、J. Hammer-Purgstall (1856)と Bertold Spulerの訳文に準拠してワッサーフ史の当該部分を修正しました。また、ブリタニカ百科事典からの援用部分もリンク先から当該部分について本文が確認出来なかったため、[要検証]タグを付加しました。Ian Frazier氏についても資料的根拠が明らかにされておらず、Ian Frazier氏が歴史研究上どういう人物か不明であるためこれにも[誰?]タグを付加しました。やはり記事全体の改組が必要と思われますが、一時的な措置ながらこれらの処置をしておきたいと思います。--Haydar会話2017年12月12日 (火) 17:18 (UTC)[返信]

Haydarです。今月初めにIP氏による記事冒頭部分等の編集がされましたが、先般議論になっていた「市民は皆殺しにされ、その後数世紀間にわたって当地は無人の廃墟となった。」等の虚偽情報に基づいたものであったため、差し戻し致しました。これまで幾度となく申し上げて来た事ではありますが、フレグのバグダード攻略による「市民の皆殺し」や「数世紀に渡る無人の廃墟」等はイルハン朝時代史的に言っても全く事実に反しており、このような虚偽に基づいた文面は全く百科事典に相応しくないものです。そのため、従前の当ノートでの議論を踏まえない、もしくは改善の見られない記事編集が続く場合は、やはり本記事の保護依頼の要有りと判断せざるを得ません。いずれにしろ、度々差し戻しが続いていたのは事実でもあり、今後の方針を考える上でも、コメント依頼は必要かと思われますので、数日中にコメント依頼を出したいと思います。--Haydar会話2018年2月18日 (日) 23:12 (UTC)[返信]