ドイツのレース

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ドイツのレースでは、ドイツにおけるレースの歴史について述べる。

概要[編集]

16世紀末以降、ドイツでは織機で織ったレースの一種を生産していたことが知られている。アウスブルクニュルンベルクフランクフルトストラスブールなどで印刷されたパターンブックにより、ドイツの室内装飾家がレースに関心が高かったことがわかる[1]1583年にストラスブールで出版されたベンハルト・ヨービンドイツ語版の本や、1597年にニュルンベルクで出版されたヨハン・ジープマッヒャードイツ語版の本はイタリアで出版された本のライバルとして長命であった[2]

17世紀の商人の在庫目録により、レースが産業としてある程度成功していたことも明らかである。17世紀のレースの実例は、ニュルンベルクのゲルマン国立博物館に収蔵されている。バルトロメオ・ダニエリ (Bartolomeo Danieli) のパターンブックからの借用やポワン・ド・ヴニーズに似せたレースモチーフを印刷したドイツ製織物も残っている。18世紀には、ドレスデンライプツィヒでレースを模した白糸刺繍が作られるようになり、高い評価をうけた。フランスベルギーでも模倣された[1]

19世紀には、レース産業は急速に拡大した。1860年に機械レースが、ザクセン地方のプラウエンに紹介され、急速に発展した。1867年のパリ万国博覧会では低価格によるレース競争が起きた。そのため、ザクセン地方ではあらゆる種類のレースを作った。ドレスデンでは、美しい種類のレースを複製し豪華なレースを作った。1871年のフェリックス・オブリの報告によると、すべての製作所の指導は、ベルギーのレース工が行っていた[1]1883年ケミカルレースがドイツで開発された。この技術は後に、スイスザンクト・ガレン地方業者による改良を経て、レリーフのある全てのレースの大量生産につながった[3]

20世紀初頭には、ドイツの主要都市には、レース教習所が作られていた。レニ・マタイボビンレースバウハウス・スタイルを適用したことで著名であった。彼女は1981年に108歳で亡くなるまで、線の表現にこだわり続けた[4]

機械レースがあらゆる種類のレースを生産し、手作りのレースは植民地で生産されるようになった。プラウエンの業者はモダンスタイルへの需要に適応して生産した[4]。手作りのレースが植民地での生産に移行したことに加え、第二次世界大戦の影響により、ヨーロッパ全土の手作りレースは殆ど絶えた。手作りのレースは趣味として生き残っている。

1949年シュヴァルムシュタットツィーゲンハインに設立されたシュヴァルム博物館ドイツ語版には、カラフルな民族衣装トラハト英語版とともに、この地方を世界的に有名にした精巧な白い刺繍が展示されている。これらの刺繍の技法が今日まで伝承されたのは、アレキサンドラ・ティールマン (Alexandra Thielmann) とテクラ・ゴムベルト (Thekla Gombert) の2人の女性の働きによる。ティールマンは、ヴィリングハウゼに刺繍工房を設立し、伝統的デザイン画を蒐集し、富裕層の女性の好みに合うように発展させた。ゴムベルトは、スイスザンクト・ガレンで修行し、1941年にこの地に住み着いた。技術や理論に卓越し、91歳まで作品を作り続けた彼女の作品は、シュヴァルム博物館2階の「ゴムベルトの部屋」に多数展示されている[5]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • M. リスラン=ステーネブルゲン 著、田中梓 訳『ヨーロッパのレース : ブリュッセル王立美術館』学習研究社、1981年。ISBN 4050047764 
  • ジャン・マリー・ジロー; エリアーヌ・ジロー『フランスの小花文様』学習研究社、1981年。ASIN B000J7XGMS 
  • アン・クラーツ 著、深井晃子 訳『レース 歴史とデザイン』平凡社、1989年。ISBN 4582620132 
  • 大塚あや子監修; 小苅米アヰ子編集『シュヴァルムの白糸刺繍』雄鶏社、2004年。ISBN 4277311466