ティーブ・釜萢

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ティーブ釜萢
Tib Kamayatsu
出生名 釜萢 正
生誕 (1911-05-07) 1911年5月7日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス市
死没 (1980-03-10) 1980年3月10日(68歳没)
ジャンル ジャズ
職業 ジャズミュージシャン、日本ジャズ学校創設
担当楽器 ピアノ
活動期間 1930年代後半 - 1980年
共同作業者 森山久、石井好子、細野晴臣、かまやつひろし、Taroかまやつ

ティーブ・釜萢(ティーブ・かまやつ、Tib Kamayatsu、本名:釜萢 正(かまやつ ただし)、1911年5月7日 - 1980年3月10日)は、1919年までアメリカ国籍を保持していた[1]アメリカカリフォルニア州ロサンゼルス市生まれのジャズミュージシャンシンガー。戦後の日本においてジャズを普及させたミュージシャンの一人。

経歴

生い立ち

渡米して、現地ロサンゼルス市郊外で洋服店を営む日本人の両親のもと、1911年にアメリカのカリフォルニア州ロサンゼルス市郊外で日系アメリカ人2世として生まれた。その後音楽に親しみ、バンジョーやギターなどの楽器を習得し、演奏を行うようになる。

来日

その後1920年代後半に日系アメリカ人のバンド「ショー・トーキアンズ」に加入したものの、アメリカは当時大恐慌下で、アメリカでは日系人には職が得られなかったため、1930年代に来日した。

日米間を運航する客船のバンドで演奏した後、東京府をベースにジャズシンガーとして活躍していた。淡谷のり子のバックバンドをやったり、中華民国上海に赴き「上海バンスキング」のモデルとなった店で演奏する。

なお、この頃おなじく日系アメリカ2世で、日本に渡ってジャズをやっていた森山久森山良子の父)と親しくなる。釜萢は日本人女性と結婚したが、それが縁で森山は釜萢の妻の妹と結婚し、「妻どうしが姉妹」の義兄弟の関係になる。

第二次世界大戦末期の1944年日本語がほとんど話せないにも関わらず召集令状がきた。自動車の運転ができたため、輸送部隊に配属され中国戦線に渡った。なお、「東京ローズ」の対米プロパガンダ放送のバックで、釜萢(もしくは森山)がジャズを演奏していたという説もある。

復員後

復員後は、森山久がいてボーカルは石井好子だった「ニュー・パシフィック・バンド」に入り、駐日連合国軍(主に首都圏のアメリカ軍)の将校クラブやキャンプ等で演奏活動をする。

日本ジャズ学校

その傍ら、1950年に日本初のジャズ音楽専門学校である「日本ジャズ学校」を設立し、ミッキー・カーチス平尾昌晃弘田三枝子ペギー葉山日野皓正などの戦後の日本の音楽界を代表するミュージシャンを多数育て、日本の音楽界に多大な影響を与えた。

また同時に、「ティーブ釜萢とブルーリボン」などのグループとしても活躍した。なお、息子のかまやつひろしによると、生涯、日本語はほとんど話せなかったという。1980年に死去した。

家族

息子の「ムッシュかまやつ」ことかまやつひろし、孫の「TAROかまやつ」ことかまやつ太郎も共にミュージシャンであり、息子との競演アルバム「FATHER&MAD SON」を発表している。なお、ムッシュかまやつが在籍していたバンド、ザ・スパイダースの名付け親でもある。

また、姪(妻の姪)は歌手の森山良子、大甥(妻の大甥)はシンガーソングライターの森山直太朗、大姪(妻の大姪)は元歌手の森山奈歩、その夫はおぎやはぎ小木博明という芸能一家と縁がある。

その他

細野晴臣のアルバム「はらいそ」に収録された「ジャパニーズ・ルンバ」(グレン・ミラーの曲のカヴァー)でリードヴォーカルをとっている。

1953年の新東宝映画『青春ジャズ娘』に本人役(審査員役)で出演した[2]

関連項目

脚注