チャック・ジョーンズ

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チャールズ・マーティン・’チャック’・ジョーンズCharles Martin "Chuck" Jones,1912年9月21日 - 2002年2月22日)は、アメリカ合衆国のアニメーター、漫画家、映画脚本家、プロデューサー、アニメ映画監督であり、担当した作品の大半はルーニー・テューンズメリー・メロディーズなどワーナー・ブラザースに関係した短編アニメ作品が占めている。

『オペラ座の狩人』(1957)や『カモにされたカモ』(1952)(これらの作品は後にアメリカ国立フィルム登録簿に登録された)、ジョーンズ作品で有名な『標的は誰だ』、『ちゃっかりウサギ狩り』、『何のシーズン?』(1951~53)の狩人3部作などといった、バッグス・バニー、ダフィー・ダック、ロードランナー&ワイリー・コヨーテ、ペペ・ラ・ピューとその他大勢のワーナーキャラクターが出演する古典アニメ作品の監督を多く務め、重要な原案者及びストーリーテラーとして君臨した。

1962年にワーナーを退社した後、Sib Tower 12 Productionsを設立、新トムとジェリーシリーズや、ドクター・スースの『グリンチはどうやってクリスマスを盗んだのか』(1966)のアニメ化などといったMGMでの仕事を始めた。後にChuck Jones Productionsという自身のスタジオを作り定期的にルーニー・テューンズに関係した作品を作り続けた。

人物

青年期まで

ジョーンズはワシントン州スポケーンで生まれた後、両親と3人の兄弟と共にカリフォルニア州ロサンゼルスへ移った。 ジョーンズは自伝『Chuck Amuck』の中で、自分の美術の才能は、1920年代にカリフォルニアで事業の失敗を繰り返していた父親に培われたものだとしている。ジョーンズの父親は新しく事業を立ち上げる際、自分の会社の名前の入った鉛筆や文房具を買い入れた。事業が失敗すると、彼は使い物にならなくなったこれらの文房具を子供に与えては、なるべくすぐに使い切るよう子供に言っていた(例:両面使用禁止)。上質の紙や鉛筆の供給は尽きることがなく、子供たちは精力的に描き続けた。

後にある美術の授業で教授は真剣に、価値のあるものを描くことができるまでに10万枚の駄作を生み出さなければならない、と生徒に教えた。チャック・ジョーンズはこの発言が大きな心のよりどころとなり、20万枚を描いたところで、やっとすべての文房具を使い切ることができた。

ジョーンズと兄弟の何人かは美術の道へ進んだ。シュイナード芸術学校を卒業したあと、ジョーンズはアブ・アイワークスのスタジオでのセル画洗いやウォルター・ランツのスタジオでの補助アニメーターなどといったアニメ業界の中で低賃金の仕事についた。アブ・アイワークスのスタジオで働いているとき、後にジョーンズと結婚するセル画担当者ドロシー・ウェブスターに出会った。

ワーナー時代

チャック・ジョーンズは、補助アニメーターとして、ルーニー・テューンズメリー・メロディーズワーナー・ブラザースのために製作しては提供している独立スタジオ レオン・シュレジンガー・スタジオに1933年に入社。1935年にはアニメーターとして採用され、レオン・シュレジンガー・スタジオの新監督テックス・アヴェリーの許で働くことになった。この小さなスタジオの中にアヴェリーのための部屋はなく、アヴェリーとジョーンズはボブ・クランペット、バージル・ロス、シド・サザーランドといったアニメーターたちとスタジオの近くの小さな建物に移った。この建物は"Termite Terrace"と呼ばれた。

クランペットが監督に就任した1937年、ジョーンズはクランペットの班に参加した。というのは、かつてジョーンズを雇っていたアブ・アイワークスが1937年に4本のアニメ作品の下請けを委託したからである。

1938年にフランク・タシュリンがスタジオを去ると、ジョーンズは監督(このスタジオでは作画監督にあたる職位はsupervisorと呼ばれていた)に就任した。ジョーンズの初監督作品は、のちにSnifflesというねずみへ発展するかわいらしい子猫の出てくるThe Night Watchmanである。

1930年代から1940年代初期のジョーンズの作品は豪華だったが、観客やレオン・シュレジンガー・スタジオのスタッフは、本物のユーモアの欠如を見抜いていた。のろのろ動き、‘かわいらしさ’が過剰なジョーンズの初期の作品(特にTom Thumb in TroubleやSniffles出演作)は、ウォルト・ディズニーの短編の二番煎じという印象が強かった。

1942年の『ドーバー・ボーイズ』でついにジョーンズは従来のかわいらしさやアニメにおけるお約束から抜け出すことができた。彼はこの作品は’どうやって面白くするかを教えてくれた’と評価する。この作品はアメリカの映画で初めてリミテッド・アニメーションが使用された作品でもあり、ディズニーに影響されたよりリアルな作品とは別物になっていた。この作品以来、Charlie Dog, Hubie and BertieやThe Three Bearsといった現在ではあまり知られていないキャラクターが制作され始める。今日こういったキャラクターは知名度が高いとは言えないが、これらの初期キャラクターが登場する作品はジョーンズが面白くすることを意図して制作した初期の作品を代表するものとなっている。

第二次世界大戦の間、ジョーンズはシオドア・スース・ガイゼル(Theodor Seuss Geisel 、後のDr.スース)とともに軍事教育アニメPrivate Snafu を制作。Private Snafu は当時の一般大衆向け作品よりもきわどいものとなっており、スパイ行動や怠惰を戒める教育を目的としたものであった。後にジョーンズはスースの作品のアニメ化を数多く手がけるようになり、代表的なものは1966年の『グリンチはどうやってクリスマスを盗んだのか』である。

ジョーンズは1940年代後半からペースを取り戻し、1950年代に納得の行く作品を作り続けた。このころクロード・キャットやマーク・アンソニー&プッシーフット、チャーリー・ドッグやミシガンフロッグなどが作られ、中でも有名なのがロードランナー&ワイリー・コヨーテである。ワイリー・コヨーテはマーク・トウェインの『西部放浪記』(Roughing It)という本が元になっており、「背が高く病的でやせていて惨めな身なりの骸骨」や「生ける欲望の寓話である。彼は常に腹をすかしている」と Roughing It内で表現がされている。マイケル・マルティーズが原案・脚本を担当した「カモにされたカモ」、「魅惑の蛙」、「オペラ座の狩人」といったジョーンズの監督作品は今日まで名作と評されているのである。

ジョーンズのチームAのスタッフは、ジョーンズ自身同様作品を成功に導くのに重要だった。重要なメンバーの中には、脚本家のマイケル・マルティーズ、背景・レイアウト兼助監督のモーリス・ノーブル(Maurice Noble)、アニメーター兼助監督のAbe Levitow、そしてケン・ハリスとBen Washamというアニメーターもいた。

1950年、ジョーンズとマルティーズは、「標的は誰だ」の制作を始める。ジョーンズらはこの作品で、ダフィー・ダックを従来の滑稽で笑いを誘うキャラクターから、虚栄心が強く自己中心的で、バッグズ・バニーを押しのけてスポットライトを浴びたがる主役気取りのキャラクターへと変更し、以降の作品でもこの位置付けが定着した。ジョーンズいわく「バッグズ・バニーは僕らのなりたいもので、ダフィー・ダックは僕らそのもの」。

1950年代を通じてジョーンズはずっとワーナー・ブラザースの仕事をしていたが、1953年にワーナーがアニメ制作スタジオを一時的に閉鎖したことがあった。閉鎖の間はウォルト・ディズニー・ピクチャーズウォード・キンボールと組み、4ヶ月間ノンクレジットで「眠れる森の美女」(1959)の制作に協力した。ワーナーがアニメ部門を再開した後に復帰した。

1960年代初頭、ジョーンズ夫妻はGay Purr-eeというアニメ作品の脚本を担当した。この映画はジュディ・ガーランドロバート・グーレレッド・バトンズらがパリの猫たちの声を当てることになっていた。制作はUPAで、監督はジョーンズのかつての同僚 Abe Levitow。ジョーンズはワーナー・ブラザースと独占契約を結んでおり、この映画の仕事はワーナーには無断で引き受けたものだった。しかしUPAが映画を1962年に完成させ、公開したところをワーナー・ブラザースに見つかってしまう。ジョーンズの契約違反を知ったワーナー・ブラザースは、ジョーンズをクビにし、それからまもなくジャック・ワーナーがアニメスタジオの店を閉鎖してしまった(自伝を含めジョーンズはあちこちで言及しているが、ジャック・ワーナーがスタジオ閉鎖を決めたのはアニメスタッフがミッキーマウスのようなアニメを作る気がないとようやく悟ったからである)。

ワーナー・ブラザース退社後から復帰まで

ジョーンズはレス・ゴールドマンをビジネスパートナーに迎え、Sib Tower 12 Productionsという独立アニメスタジオを設立した。モーリス・ノーブルとマイケル・マルティーズを含むワーナー時代の多くの仲間がこれに加わった。1963年、MGMはSib Tower 12 Productions社にトムとジェリーの制作を委託し、トムとジェリーは最初のハンナ・バーベラ・プロダクション版よりも優れていると評価された。1964年Sib Tower 12 Productions社はそのMGMに吸収合併され、MGM Animation/Visual Artsになった。1965年ジョーンズの手がけた短編アニメーション『点と線』(The Dot and the Line: A Romance in Higher Mathematics)は、アカデミー賞短編アニメーション部門で受賞した。このころジョーンズはThe Bear That Wasn'tという古典アニメも手がけた。

トムとジェリーシリーズが1967年に打ち切りになり、ジョーンズは活動の場をテレビに移した。1966年彼はテレビスペシャル『グリンチはどうやってクリスマスを盗んだのか』の制作・監督し、声や顔の動きはボリス・カーロフが担当した。ジョーンズはほかにもHorton Hears a Who!などといったテレビシリーズの仕事をしたが、彼がよく覚えていたのは、1970年にMGMが公開した際、生ぬるい作品だと評されたThe Phantom Tollboothだった。1969年、ジョーンズはウォルト・ケリーのコミック・ストリップ『ポゴ』を基にしたPogo Special Birthday Specialという作品の共同監督に参加し、Porky Pine と Bun Rabの声を当てた。

MGMは1970年にアニメ部門を閉鎖、ジョーンズは再び自分のスタジオチャック・ジョーンズスタジオを設立。1971年にアメリカン・ブロードキャスティング・カンパニーのテレビアニメシリーズThe Curiosity Shopを制作。

このころの代表作は「モーグリの兄弟」、「The White Seal」「Rikki-Tikki-Tavi」といったラドヤード・キップリングの小説「ジャングル・ブック」のアニメ化作品である。1976年、『動物の謝肉祭』をバッグズ・バニーとダフィー・ダック主演でアニメ化するという仕事のため、ワーナー・ブラザースに復帰。それからジョーンズは自分の傑作集であるThe Bugs Bunny/Road Runner Movieを制作。このとき、ジョーンズはThe Electric Company に出てくるロードランナーの短編と『バッグス・バニーのクリスマス(原題:Bugs Bunny's Looney Christmas Tales)』(いずれも1979年公開)を制作し、1980年のBugs Bunny's Bustin' Out All Over以降バッグズ・バニーの新作は作らなかった。1977年から78年の間、ジョーンズはシカゴ・トリビューンNYニュースシンジゲートに配給するためのコミック・ストリップ"Crawford" ("Crawford & Morgan")の脚本・作画を行った。

晩年

1980年代から90年代にかけて、ジョーンズはアニメやパロディを制作しては、自分の娘の運営するアニメーション・ギャラリー、リンダ・ジョーンズ・エンタープライズ社に売らせていた。ジョーンズはインターネット向けに新キャラクター「トーマス・ティンバーウルフ」が登場する作品をつくったり、1984年公開の映画グレムリンにカメオ出演したり、続編の中に出てくるバッグズ・バニーとダフィー・ダックの出てくるアニメーションの監督も担当したりした。また、『カウチポテト・アドベンチャー』(原題:Stay Tuned、1992)や『ミセス・ダウト』(1993)といった映画の中に出てくるアニメーションも彼が監督した。ジョーンズは現代のアニメーション、特にハンナバーベラ作品を"illustrated radio"(絵のついたラジオ。声の演出主体で絵がおざなりの意)と呼び、好まなかった。

1988年、ジョーンズはロンドンに開館する映像博物館に赴き、数日間にわたり高い足場の上で作業を続け、博物館の壁に直接作品を描いた。知性主義、ストーリーテリングと自己分析の能力は、ジョーンズを20世紀のアニメーションの発展に貢献した人間の一人にしたのだった。1993年にはオグルソープ大学から名誉学位を受け取った。さらにアニメ産業に貢献したということでハリウッド名声の歩道7011 Hollywood Blvdに、ジョーンズの星印がある。

ジョーンズは生涯に8度もアカデミー賞にノミネートされ、うち3作品で(For Scent-imental Reasons、 So Much for So Littleと『点と線』。なおSo Much for So Littleは短編アニメーションではなく、ドキュメンタリーとして)受賞した。また、「半世紀以上にわたり現実世界にいるわれわれに楽しみを与えてくるアニメ作品やキャラクターを作り続けた」として、1996年、映画芸術科学アカデミーの理事会からアカデミー名誉賞を受け取った。

ジョーンズが担当した最後のルーニー・テューンズ作品はバッグズ・バニー (声:グレッグ・バーソン) とヨセミテ・サムが出演した『宝の箱でお払い箱』(1996-1997)で、この作品は1995年に死去したアニメ監督フリッツ・フレレングにささげられた作品である。この頃ジョーンズはルーニー・テューンズに関係した作品もそうでない作品も手がけ、このときの代表作はChariots of Fur(1994)で、ジョーンズが担当したバージョンの、最後のロードランナーの出演作でもある。

2002年に心不全で亡くなった後も、彼の影響はまだ残っている。2004年の『ダフィーの大統領』は、ジョーンズの書いた本が基になり、キャラクターのデザインも彼の時代のものを真似ている。2000年に公開予定だったが、2004年までに公開が延期になった。(いずれの年も現実に大統領選挙があった)。

監督としての代表作品

  • ダフィと恐竜  Daffy Duck and the Dinosaur (1939)
  • ドーバー・ボーイズ The Dover Boys (1942)
  • なんとしてでも当選させよう Hell-Bent for Election (フランクリン・ルーズベルトのためのキャンペーン・フィルム 1944)
  • 猫は負け犬 Scaredy Cat (1948)
  • Long-Haired Hare (1949)
  • For Scent-imental Reasons (1949)
  • コヨーテ怒りのダッシュ Fast and Furry-ous (1949)
  • So Much for So Little (1949,連邦保障局のPublic Health Serviceのために制作された)
  • セビリアのラビット理髪師 The Rabbit of Seville (1950)
  • 狩人3部作:『標的は誰だ』、『ちゃっかりウサギ狩り』、『何のシーズン?』 The "Hunting Trilogy": Rabbit Fire (1951), Rabbit Seasoning (1952), Duck! Rabbit! Duck! (1953)
  • 子ネコに首ったけ Feed the Kitty (1952)
  • カモにされたカモ Duck Amuck (1953)
  • ダフィー・ウォーズ Duck Dodgers in the 24½th Century (1953)
  • オーレ!!は闘牛ウサギ Bully for Bugs (1953)
  • 魅惑の蛙 One Froggy Evening (1955)
  • オペラ座の狩人 What's Opera, Doc? (1957)
  • ダフィーはロビンフッド Robin Hood Daffy (1958)
  • ドレミなへべれけ High Note (1960)
  • Now Hear This (1962)
  • 点と線 The Dot and the Line(1965)
  • The Bear that Wasn't (1967)
  • グリンチはどうやってクリスマスを盗んだのか How the Grinch Stole Christmas! (TVスペシャル, 1966)
  • セサミ・ストリート Sesame Street (1969,アニメパート)
  • The Electric Company (1971)
  • Horton Hears A Who! (1970年のTVスペシャル)
  • The Phantom Tollbooth (1970年の長編映画)
  • Rikki-Tikki-Tavi (1975年のTVスペシャル)

外部リンク