サビーネ・アペルマンス

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サビーネ・アペルマンス
Sabine Appelmans
基本情報
国籍 ベルギーの旗 ベルギー
出身地 同・アールスト
生年月日 (1972-04-22) 1972年4月22日(52歳)
身長 168cm
体重 57kg
利き手
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1987年
引退年 2001年
ツアー通算 11勝
シングルス 7勝
ダブルス 4勝
生涯通算成績 493勝399敗
シングルス 346勝237敗
ダブルス 147勝162敗
生涯獲得賞金 2,041,247 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト8(1997)
全仏 4回戦(1991)
全英 4回戦(1996・97・2000)
全米 4回戦(1992・99)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト8(1991)
全仏 3回戦(1992)
全英 ベスト4(1997)
全米 3回戦(1991)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 16位
ダブルス 21位

サビーネ・アペルマンスSabine Appelmans, 1972年4月22日 - )は、ベルギーアールスト出身の元女子プロテニス選手。長年にわたり、ベルギーのテニス界の先駆者として活動してきた選手である。自己最高ランキングはシングルス16位、ダブルス21位。WTAツアーでシングルス7勝、ダブルス4勝を挙げた。左利き。

1987年にプロ入り。1988年から女子テニス国別対抗戦・フェドカップベルギー代表選手となる。1990年全豪オープンで3回戦に進出し、この年に年末の世界ランキングを一気に22位まで上げた。それ以来、アペルマンスはベルギーの女子テニス界の先駆者として活躍を続けてきた。1991年11月にアメリカの「アリゾナ・クラシック」と「バージニア・スリムズ・オブ・ナッシュビル」で2週連続優勝を達成。日本のトーナメントにも数多く出場し、1991年1992年の2年連続で「サントリージャパン・オープン」の準優勝者になっている。1992年のジャパン・オープン決勝では、アペルマンスは伊達公子に 5-7, 6-3, 3-6 で敗れた。伊達とアペルマンスの対戦は2度あり、伊達の「2戦2勝」であるが、1995年ウィンブルドン1回戦でも伊達が勝っている。

アペルマンスの4大大会自己最高成績は、1997年全豪オープンベスト8である。この大会で、アペルマンスは4回戦でスペイン2強豪の1人コンチタ・マルチネスを破ったが、準々決勝でマリー・ピエルスに敗れた。ベルギーはこの年にフェドカップでも好成績を挙げ、世界最上位の8ヶ国による「ワールドグループ」1回戦でスペイン・チームを5戦全勝で破ったが、2回戦(準決勝)でフランス・チームに敗れた。1997年11月、アペルマンスはベルギーの女子テニス選手として史上初めて、世界ランキング上位16名のみが出場できる女子ツアー年間最終戦「チェイス選手権」(当時の名称)に出場した。1998年2月第3週のドイツハノーファーの大会では、左膝の手術による8ヶ月のブランクから復帰したシュテフィ・グラフを準々決勝で破っている。この頃には同僚選手のドミニク・ファン・ルーストも世界ランキング上位に躍進し、ベルギーの先駆者としてアペルマンスが積み上げてきた活動は、大きく結実しつつあった。

アペルマンスはオリンピックのベルギー代表選手としても、1992年バルセロナ五輪1996年アトランタ五輪2000年シドニー五輪の3大会連続で出場を果たしている。バルセロナ五輪の女子シングルスでは、シュテフィ・グラフとの準々決勝まで勝ち進んだ。アトランタ五輪では1回戦で敗退したが、シドニー五輪では南アフリカ代表のアマンダ・クッツァーと3回戦を戦った。2000年度のシーズンを終えて、アペルマンスは年間最終ランキング50位に入っていたが、2001年1月の全豪オープンを最後に28歳で現役を引退した。

外部リンク