サイフ・アル=アデル
サイフ・アル=アデル(英:Saif al-Adel、アラビア語: سيف العدل)は、エジプト国籍の爆発物専門家で、アル・カイーダの最高幹部の1人。2011年5月にウサーマ・ビン=ラーディンが死亡した後に、後継者としてアル・カイーダの最高指導者の地位に就いたとされる[1]。
経歴
サイフは1960年にエジプトに生まれた(1963年説もある)。1998年にケニアとタンザニアで同時に発生したアメリカ大使館爆破事件の首謀者の1人として訴追されている。
エジプト・イスラム・ジハード団(EIJ)とアル・カイーダにおいて軍事・諜報部門の専門家としてアフガニスタン、パキスタン、スーダン、ソマリアで活動した。ソマリアではラス・カンボニに訓練キャンプを設立、1993年のモガディシュの戦闘ではサイフの指導を受けたイスラム民兵がアメリカ軍との戦闘に参加している。1981年のエジプトのアンワル・アッ=サーダート大統領暗殺の黒幕とされる。1988年にはエジプトを離れ、アフガニスタン紛争にムジャーヒディーンとして参加した。またレバノンにも入り、サウジアラビアやクウェート、レバノンで活動するイスラム武装組織「ヒズボラ・アル=ヒジャーズ」(ヒジャーズのヒズボラ)を指導した。ハルツームでは民兵をリクルートし、爆弾のスペシャリストを養成した。サイフはアル・カーイダの顧問・ムスタファー・ハーミド(Mustafa Hamid)の娘と結婚し、5人の子供がいる。
サイフはサイイド・アル=マスリーやマフフーズ・ワラド・アル=ワリード(Mahfouz Ould al-Walid)らと共に2001年のアメリカ同時多発テロ事件には反対したと言われる。当時、サイフはカブールにおり、11月にはターリバーン政権よりウサーマ・ビン=ラーディン、アイマン・ザワーヒリー、ムハンマド・アーティフらと共にアフガニスタンの市民権を与えられた。その後、アーティフが死亡するとサイフが後任に就いた。アメリカ軍のカンダハール空爆時にはサイフの健在が確認されている。サイフはその後、アフガニスタンからイランへと逃れ、テヘラン近郊で拘束されていると報じられた。2010年末にサイフはパキスタンの連邦直轄部族地域の北ワジリスタン周辺に移動したと報じられている。2001年以降、サイフはFBIの最重要指名テロリストにリストアップされ500万ドルの報奨金が賭けられている。
2012年2月29日、エジプト当局に帰国し出頭する旨の連絡をし、カイロの空港へ到着したところを拘束された、との報道があった[2]が、逮捕された男はサイフ・アル=アデル本人ではない、とエジプト内務省が明らかにした[3]
脚注
- ^ Egyptian Saif al-Adel appointed acting leader of al Qaeda, CNN, May 17, 2011
- ^ “アルカーイダ最高幹部拘束 エジプト 「帰国し出頭」”. 産経新聞. 2012年2月29日閲覧。
- ^ “Egypt says man seized at airport not al Qaeda leader”. CNN. 2012年3月1日閲覧。