アル・クーパー

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アル・クーパー
アル・クーパー(2009年)
基本情報
出生名 アラン・ピーター・クーパーシュミット
生誕 (1944-02-05) 1944年2月5日(80歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク ブルックリン区
ジャンル ロックブルースロック、ルーツ・ロック
職業 シンガーソングライターキーボーディストギタリスト音楽プロデューサー
担当楽器 ボーカルハモンドオルガンピアノキーボードギターベースパーカッション
活動期間 1959年 - 現在
レーベル コロムビア・レコード
ユナイテッド・アーティスツ・レコード
ミュージック・マスターズ・ロック
フェイヴァード・ネイションズ
共同作業者 ロイヤル・ティーンズ
ボブ・ディラン
ブルース・プロジェクト
ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ
マイク・ブルームフィールド
スティーヴン・スティルス
シュギー・オーティス
レーナード・スキナード
公式サイト alkooper.com

アル・クーパーAl Kooper1944年2月5日 - )は、アメリカ作曲家ミュージシャンプロデューサー。本名、アラン・ピーター・クーパーシュミット(Alan Peter Kuperschmidt)。ボブ・ディランとの共演やブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ結成を経て、1969年よりソロ活動も行っている。

来歴

ニューヨークブルックリン区のユダヤ人の一家に生まれ[1]クイーンズ区ホリス・ヒルズで育つ[2]。独学でピアノギターを弾くようになり、1959年、ロイヤル・ティーンズにギタリストとして加入しプロ・デビューを果たした[1]

1965年

その後はソングライターとして活動。1月、ボブ・ブラス及びアーウィン・レヴィンと共作した「恋のダイアモンド・リング英語版」がゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズのデビュー曲に起用される。同曲は同年2月に全米1位を獲得した[1]。また、ジーン・ピットニーのために「I Must Be Seeing Things」を書いた。

6月15日、ボブ・ディランはアルバム『追憶のハイウェイ 61』のレコーディングを開始。クーパーは見学のためにスタジオに入り、この時マイク・ブルームフィールドとの出会いを果たしている[3][4]。翌16日、「ライク・ア・ローリング・ストーン」の録音の際、その場でオルガンの演奏を提案し、飛び入りでセッションに参加した[3][5]

同年の後半、ブルース・プロジェクト英語版のオーディションに参加し、グループに加入。1966年3月発表のデビュー・アルバム『Live at The Cafe Au Go Go』ではオルガンを弾くとともに、「I Want to Be Your Driver」でリード・ボーカルを担当した。

1966年

1月から3月にかけて、ボブ・ディランのアルバム『ブロンド・オン・ブロンド』のレコーディングに参加。その他、ピーター・ポール&マリーの『The Peter, Paul and Mary Album[6]、トム・ラッシュの『Take a Little Walk with Me』[7]などのレコーディングにも参加した。

6月発売のコンピレーション・アルバム『What's Shakin'』で自作曲「Can't Keep From Crying Sometimes」を自身の名義で発表。

1967年

6月16日から18日にかけて野外コンサート「モントレー・ポップ・フェスティバル」が開催される。クーパーは17日昼の部に単独で出演した。秋にブラッド・スウェット・アンド・ティアーズを結成する。

1968年

1968年初め、モビー・グレープのジャム・セッションにマイク・ブルームフィールドと共に参加。クーパーは「Black Currant Jam」で、ブルームフィールドは「Marmalade」でピアノを弾いた(アルバム『Wow/Grape Jam』は4月に発売)[8]

2月21日、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズのファースト・アルバム『子供は人類の父である』が発売される。しかしリリースから間もない3月にグループを脱退[9]

4月15日、ニューヨークのライブハウスで行われたジミ・ヘンドリックスのジャム・セッションに参加し、「ライク・ア・ローリング・ストーン」でオルガンを弾いた。このときの演奏はいくつかの非公式のCDで聴くことができる[10]

7月22日、マイク・ブルームフィールド、クーパー、スティーヴン・スティルス3人の名義でアルバム『スーパー・セッション』を発表。

8月23日、ロサンゼルスハリウッド・ボウルで行われたサイモン&ガーファンクルのコンサートの録音エンジニアをつとめる。このときの音源もいくつかの海賊盤で聴くことができる[11]

9月26日から27日にかけてサンフランシスコのフィルモア・ウェストでブルームフィールドと共演。なお28日は出演不可能となったブルームフィールドの代役としてエルヴィン・ビショップ、カルロス・サンタナらがクーパーのコンサートに参加した。この年、ローリング・ストーンズの「無情の世界」(発表は翌年)、バターフィールド・ブルース・バンドの『In My Own Dream』、ジミ・ヘンドリックスの「長く暑い夏の夜」などのレコーディングに参加。

1969年

前年にブルームフィールドと共演としたライブにオーバーダビングを施し、2枚組のアルバム『フィルモアの奇蹟』として発表。

2月、初のソロ・アルバム『アイ・スタンド・アローン』をリリースし全米54位を記録[12]。9月発売のジャニス・イアンのアルバム『愛のためらい(Who Really Cares )』にオルガンで参加[13]

1970年以降

1972年アトランタ市へ移住[3]。同年9月、ジョン・プラインの「サム・ストーン」のカバー・バージョンをシングルとして発表[14]。1973年1月、アルバム『赤心の歌(Naked Songs)』を発表。アルバムに収録された「ジョリー」は日本で特別に愛された[15]。同年MCAレコードのサブ・レーベル「サウンズ・オブ・ザ・サウス」を設立し、レーナード・スキナードを世に出してサザン・ロック・ブームの一翼を担った。

1980年代以降は寡作となるが、2003年に初の日本公演を行い、2005年7月には11年ぶりの新作『ブラック・コーヒー』を発表した[16]

2016年12月10日放送の「NHKスペシャル ボブ・ディラン ノーベル賞詩人 魔法の言葉」にて「ディランをよく知るミュージシャン」として取材を受ける。

ディスコグラフィ

アルバム

  • アイ・スタンド・アローン』 - I Stand Alone (1969年)
  • 『孤独な世界』 - You Never Know Who Your Friends Are (1969年)
  • 『イージー・ダズ・イット』 - Easy Does It (1970年)
  • 『紐育市(お前は女さ)』 - New York City (You're A Woman) (1971年)
  • 『早すぎた自叙伝』 - A Possible Projection of the Future / Childhood's End (1972年)
  • 『赤心の歌』 - Naked Songs (1973年)
  • 『倒錯の世界』 - Act Like Nothing's Wrong (1976年)
  • 『チャンピオンシップ・レスリング』 - Championship Wrestling (1982年)
  • Rekooperation (1994年)
  • Soul of a Man (1995年) ※ライブ・アルバム
  • Rare and Well Done (2001年) ※ボックス・セット
  • 『ブラック・コーヒー』 - Black Coffee (2005年)
  • 『ホワイト・チョコレート』 - White Chocolate (2008年)

コラボレーション・アルバム

来日公演

関連項目

脚注