利用者:永尾信幸

ウィキペディア日本語版ヘルプページです。


ほんの少し活動しています

基本的にはノートで意見を述べる程度で加筆修正というような手間のかかる部分は敬遠したいですが、103系でいくつか問題があったのでその処理的な感じですが。ただ、あまり関わらない方が良いと思ってる点は以前と変わらない。だいたい向いている方向が違う多くの者の中で事を起こすほど手間で生産性の無いものはないんでね。こっちで時間を使うなら、例えば一時期議論になった出典の部分を自分の中で整理する方向に時間を費やす方がよっぽど良いし。ここ何年かでン十万枚くらい資料をスキャンしたんだけど、そのスキャンデータにインデックスを付けて必要な記事を分類していく作業ってのが手間で手間で。ただ、こういう作業を続ける事で関連する記事をすぐに見つけれるし、例えば出典を聞かれた際にも迅速に提出したりも出来るだろう。何より、同じ事が書かれている複数の文献を確認するためには、こういう事前作業が必要かなと思う。ウィキペディア云々よりも、こういう作業の方が将来のためになる(急がば回れ)んで先に資料のまとめですね。ま、過去の資料でアドバイス出来る(ここに載ってたよのような部分)のであればワンポイントでノートなどには書くかも知れない。文献量って莫大だから、闇雲に関連する記事を調べようとしても挫折するだけだろうから、インデックスが示せたら多くの人が文献チェックできるからね。時間があまり無いので、本当にたまにだけどね(笑)→良く考えたら2月に編集する前って12月に1回、11月に3回編集しただけだったから昔と変わらんわけだが・・・そう考えると下で活動を休止しましたと宣言しなくても、既に休止状態だったようなもんだったなぁ(笑)--永尾信幸 2010年4月17日 (土) 04:42 (UTC)

活動を休止しました

知らない間にブロックが解除されていたようだ(笑)少しブロック短縮してくれたみたいですが。
2010年2月6日の103系記事のおける加筆[1]後の一連の騒動は、私が下記で思っていた事、特に「共同作業と信頼関係」や「百科事典に書くと言う事」の悪い部分が出たと言えます。
ウィキペディアでは記事を良くする、又はトラブルを防ぐと言う事で、様々なガイドラインが定められています。右に羅列してるようなのはその一部で、この中には「絶対に守らなければならない公式ガイドライン」と遵守する方が良いとされる「非公式ガイドライン」があり、公式ガイドラインはごく一部で、その多くは非公式なガイドラインで、まだガイドラインとして完成しておらず常に進化させてる部分もあるからか内容については常に変化しています。
で、これらガイドラインを守って利用者は活動していけば良いのですが、ある程度グレーな部分なども多く完全ではありません。
しかし、それを運用する側で、この未完成なガイドラインを盾に取り、多くの記事のチェックを行う方々が居ます。その方々は基本的には記事のパトロールをしてると言えるわけで、その行為自体はウィキペディアにとって非常に有益な活動です。
しかし、今回のように出典を明記して加筆してるにも関わらず、出典が無いから独自研究なので差し戻したなどと意味不明な回答をし、出典があったんだけどと言うと今度はその出典がわかりにくかった、~だからが独自研究だから即刻差し戻した等と言うような回答をする方もおられます。
正直なところ、結局私が書いた内容が大筋で合っているのですが、差し戻された本人の知識不足からかそこまで考えが及ばなかったのか、最後はルールに従って削除したというような点を強調されており、非常に困惑したというか何というか。
要はルールを盾に取ったアラシ行為とも呼べるようなこういう方がいるような場所では、落ち着いて活動も出来ないのです。「百科事典の重み」でも下記のように書いたのだが、
  • ただ、検証可能にして記述しているのに、その検証をせずに安易に書き換える編集者がいるのであれば、検証可能性のメリットは根底から狂う。
  • そこで、専門知識を持った者はハッと気づく。ウィキペディアは何もわからない素人も何の制約も無く編集できるのか・・・と。
結局ルールを盾に取ってのアラシ行為者の前には検証可能性の大前提がゆらいでしまう。また、得てしてこういう方々は「出典を明記するのは加筆者の義務」と言う。根本からわかってないのは、要出典と声を大にして言えるのは「その事に深い知識があるものが、こんな理論は聞いた事も無い、どのような書籍に記載があるのか教えて欲しい」という部分で使うものであり「こんなの俺知らんぞ」と言うだけで安易に貼り付けれるたぐいのものではない。そう、このタグを貼るためにはその記事に対しての深い知識が本来必要なのだ。そんな事ぐらい、ちょっと深く物事を調べてまとめた事がある者ならすぐに気がつくはずだ。
しかし、現行のルールではそこまでの条件提示は無く、誰でもいつでも要出典タグを貼れる。そう、ここに「ウィキペディア学校」が誕生することになるのだ。
ウィキペディア学校とは、その記事に対して十分な理解や知識が無い為に書いてある内容が理解できなかった場合、利用者は躊躇無く「要出典」を貼り付ける。自分が知らない・わからないから教えろと言う訳だ。また、そういうヤカラはどちらかというと、出典を脚注形式で示せと言う。それはなぜかと言うとそうしてもらえないと「探せないから」なのだ。普通、その記事に対しての知識があるならばまず参考文献を当たろうと努力する。もちろん、参考文献が多い場合はその全てを当たる事は出来ないかも知れない。しかし、その記事を加筆修正するとする以上、最低限はその記事に興味を持って頂かなければならないのに、そういう自分がまずなすべき事すらやらずに、この部分がわからないから教えろと言うのが要出典タグで、このタグのこういう誤った利用の仕方がまん延している事で、ウィキペディアはある意味学校の如く質問が要出典という形で飛び交っている。
また、その方々が盾に取るガイドラインですら「参考文献を注釈形式で出典として記事にリンクさせろ」などとは一言も書いてないのだが、彼らは「自分が調べるのが面倒だから、どこに書いてあるか教えてもらえなきゃ検証できない」なんて理論の元に脚注を使えを強制する。脚注形式は非常に便利だし、それで出典を示すこと自体は私も賛成なのだが、それを盾に取って相手に出典を要求する姿勢は、私から見ると「テストの問題を見せろ」よりももっとひどい「テストの答えを見せろ」と言い寄ってくる受験生かの如く感じてしまう。テストの問題を提示してあるにも関わらず、彼らはそれを解くことが出来ないのだ。
そんな奴らが、答えを解いた者に偉そうに言えるだろうか?実社会では絶対に言えないはずなのだが、このウィキペディアでは不思議なことに「ルールにのっとって」の名の下に、本人の努力と関わりなく、このような傲慢な態度で突っかかってくる事ができる。それを私は「自治厨」と呼ばせて貰ってるが、こういう自治厨はウィキペディアの記事の発展どころか、その記事を本当に検証してくれるような者まで敵に回して、結果として記事の発展性を失わせてしまうんだな。
もちろん、要出典でも本当に内容を理解して、その上で「この文章だが、この文献にはこうあるけど、この理論は何を見て書いたのか?」なんて要約欄にでも書いてくれるようなものだったら真剣に向き合うんだけど、ウィキペディア学校の生徒が出してきた要出典にはばからしくて答える気にもならない。「そんなことは自分で調べろ、参考文献すら読んだこと無いなら、まず参考文献を熟読しろ。その後で疑問点をぶつけてみろ」としか思わないんでね。
それほど参考文献と脚注をリンクさせろと言っていた本人が[2]こんな編集をしてるのよね。この程度なら参考文献を見ればそのまま載っているから特に脚注形式でリンクする迄もないと言う判断なのかどうか知らないが、人に脚注を入れろと言うなら自分も入れろよと思う。
脚注リンクを入れると非常に煩雑になるわけだが、本人がしてないのに人になんで言えるんだろう。この程度のボリュームだから不要とか言う判断こそガイドラインの独自解釈じゃないのか?ではどの程度の記事から脚注を入れなきゃならないのか?「多くなれば脚注形式にした方が分かりよい」と言うのは誰だってわかる話だが、それを厳密に運用したいが為に今回差し戻しという手段を用いてまで訴えたのであれば、自分自身の編集も見直したらどうだと思うが、まぁこういう自治厨は自分が正しいと思い込んでるから、何を言っても無駄なのよね。で、指摘を食らうとあくまで自己正当化で一つ言われたら違う理由付けを言ってくる。それをまた指摘されるとまた違う理由・・・
正直、疲れる・・・相手を疲弊させるユーザーと言っても良いだろう。
103系の記事でも私が過去の加筆で参考にしたような文献を羅列したが、2chをはじめとして単に羅列だと思ってる方も多いようだ。まぁ「ピクトリアルの105系特集が出ました→105系の記事を加筆」みたいに資料の単独使用の方が多いので、一つの記事に1000を超える記事が参考にされてるなんて事を考えた事も無いのかも知れないが、一つの記事を検証するためにはそれに対して根拠が書かれた文献を調べ、その文献の内容を検証するには他の文献を調べる。結局、2次・3次と資料を掘り下げて見ていく必要もあるし、そうやって掘り下げて調べる事をしているからこそ、単に「○○線では使えなかった」と書いてあった場合に「その理由がわかる」のだ。
もちろん、ウィキペディアで勝手に理由を決めるのはモロに独自研究になるのだが、その理由に対しての根拠を記載していくことで、読者が「あぁそういう事か」とわかれば同様な事ができる。
こういう複数文献を比較検討するというのは資料を調べる上では非常に大事な事で、例えば資料が1点しか無い場合、例えばJRRが出した「東京の国電」にしておこうか。これの常磐線の部分には新性能化が完了したのは1970年8月とある。著者は国電研究(どちらかというと旧形中心)の大家である沢柳健一さんだ。しかし、新性能化はそんな時期には完了していない。他の文献を見れば1971年4月20日改正である事が分かる。
単に著者名だけで記事内容が正しいと判断できない理由は、こういう事例など過去に山のようにあるからで、だからこそ他の記事と付き合わせていく必要があるのだ。
また、例えば「不利である・有利である」という言い回し一つとってみても、何に対して不利なのか、何に対して有利なのかがわからず、単に不利と思い込む方も多い。
得てして、鉄道系の記事は過去の焼き直しが多いために、知らない間に雪だるま式に軽く不利と書かれた部分も致命的な不利にと大きくなっていく。こういう事をきっちりと精査するには、最初の記事で「不利」と書かれた内容を検証する必要がある。それは多くの文献から関連する部分を抜き出して付き合わせて居かねればならない。気の遠くなるような作業だ。どんな本にどんな記事が書いてあるかなんてもちろんわからない。手当たり次第に記事を調べまくらなければならない。どれだけの労力が掛かっているだろうか?
そうやって調べ上げた結果が、私自身の知識となって蓄積されており、それを元にして記事の内容を見直していたのだが、それを単なる「思い込みだけで独自研究」と決めつけるような方が出てきたのは非常に残念でもあり、やはりウィキペディアに労力をつぎ込むのはバカらしいと実感した瞬間でもある。
今回のHATARA KEIさんが加筆してくれた斎藤氏の鉄道ファンの記事ではこの例のように事実誤認的な一文が含まれていた。それはちゃんと深く資料を掘り下げれば誰だってわかるのだ。斎藤氏の記述を103系の記事の載せる点では多くの意見が集まり読者に選んでもらえれば良いわけだから問題は無いのだが、結局その後に「この文章には事実誤認の部分がある」としたら、何が事実誤認かもわかってないような、要はウィキペディア学校の学生さんが、「俺、そんな事知らない、斎藤さんの実績を知ってるのか、斎藤さんが間違うわけないじゃないか」みたいに突っかかって来るわけだからね。
結局、信頼関係の面もあるし、自分としてはもっと新しい事も発表していきたいし、今までの調査の結果をまとめたいとも思っている。それは、苦労もせずに「教えてと言えば何でも教えてもらえると思っている、自分では動かない奴」(下の「行動しない人は口が動く」も関係する)がいるような、このウィキペディアという場所では、効果的な活動が出来ないのが今回はっきりした。ウィキペディアはグーグルでも検索されると上位に出てくることもあり、103系関係の記事で独自研究や誤りの加筆修正がされるのを防ぐという目的もあったんだが、治安が悪い場所で何をやろうとしても無駄だと言うのがはっきりしたんで。
そういえば、曖昧な言葉がどうのこうのと差し戻し理由にあがっていたが、多くの記事のrefの中身を見ていってもらいたいなと思うけどなぁ。かなり主観の混じった記事だらけなんだよな。それも全部差し戻せよと言いたいが・・・
結局、何か狙い撃ちみたいな感じで差し戻されたのは遺憾としか言いようが無い。ま、ウィキペディアってのは所詮とういう所だったと言う事なんだろう。
また、他の記事を参考してみればの如く意見もだされていたようだが、少なくとも鉄道以外の歴史的記述においては「~と思われる」という表現が多いと感じるのだが?これらは「無知な者が曖昧な感じで加筆」したのではなく、有識者レベルがじっくり検討した結果、そうであると確信はしているものの、出典を明示するための確固たる証拠が無い、それでいて現行の記述のままだと誤解を受けるような場合「~と思われる」としてでも、内容を引き締めた方が良いような場合に使われてると判断していた。だから「~と思われる」と言うのが「無知なものの戯言」としか思えないのは、自分自身が深く記事に携わった事がなく、そういう立場でウィキペディアのルールと照らし合わせたことが無い結果では無いかと感じる。今回のように良く良く調べれば出典が出るようなケースに適用して良いのかどうかは議論の余地(出典があるなら、もっと堂々と加筆すれば良かった)はあるだろうが、内容を精査した者から指摘を受けるならまだしも、そうでなく単に「~と思われる」というのが「独自研究と即断する独自研究」である点は反省して頂きたかった点ではあるのだが、その意図すら理解してもらえなかったようなので致し方ないと言えば致し方ないか。
ただ、元々私自身が無知な部分も多いため、多くの方からいろんな意見を伺ったし、疑問点も多くいただいた。それによって、また私自身が新しい資料を調べたり、それの証明をするために検証するなど前向きな行動に出れた点は非常に有益であったと思っている。--永尾信幸 2010年2月15日 (月) 02:58 (UTC)

知らなかったぁ

利用者ページというのは、利用者が自由に書けるエリアだったんだと、つい最近2ちゃんねるで教えて頂きました。
わたしは、ノートがあるし、ノートの方に自己紹介は書いたので、別にいいやと思っていましたが、ここが空白だと違和感がある方が多いらしいので、少し書いておこうと思います。でも、この最初のメッセージも不親切ですね。「まず自分の自己紹介を利用者ページに書きましょう」とでもしてくれていたら、もっと早く書いたのですけどねぇ。

参加のきっかけと現状

ノートの方に書いたように国鉄の103系を少しお手伝いしたいと思っていましたが、それを書いてから1年ほど経ちますが、いろいろな方の編集を見てきた結果、今は労力をかけてまでここに記したいとは思わないという風に感じています。

違和感を感じる点

誰でも編集しやすいくするため「検証可能性」に基づく記述を基本としている点です。
つまり、ウィキペディアの記述は真実を求めるのではなく検証できる事を求めるというのが最大の違和感です。
わたしをはじめとして、何かを調べたりする方々の多くは、過去の文献を調査したり、資料を探し集めたりして「真実とは」を求めます。
今まで解き明かされていない謎を究明する事や、今までの記述をもっとわかりやすく言い換えようとか、違う角度から見てみようとか、そのような目標があるために辛い調査中でもモチベーションを持続できるわけです。
が、ウィキペディアは、そうやって入手した真実については記事に書く事が許されません。
もちろん、それをどこかに発表してからであれば改変できるわけですが、普通考えてください、そうやって発表できるのであれば、何もウィキペディアに参加してこちらに記事を書く必要などありませんよね。

抜け道

ただし、検証可能性には、
個人のウェブサイトやブログは、原則として適切な情報源としては認められません。ブログや掲示板の発言を一意見として紹介するのも同様です。例外となりうるのは、関連分野において著名な専門研究者や有名ジャーナリスト(記者)が自主公表した場合でしょう。その人の著作がこれまでに信頼できる第三者によって出版済みであるなら、その人の自主公表物を情報源として認めてよいこともあり得ます。しかし、注意してください。もしその専門研究者のブログに掲載された情報が本当に書く価値のあるものならば、他の誰かが既に執筆していたはずです。
とあります。
裏返せば「信頼できる第三者によって自主公表した事がある者は自己のブログに書いた内容をして検証可能性を満たすことができる」とも読めます。
この解釈で行けば、わたしは自分のブログに記載するだけで、その事柄については検証可能性を満たす事ができるようになります。
しかし、この特例も結局は使う事が無く終わりそうです。

共同作業と信頼関係

ウィキペディアは共同作業だと言われます。しかし、お互いは名前も知らなければ顔も知らない。話もしたことがなければ、相手がどんな事を好むのかもわからない。
この状態で、どの程度信頼関係を築けるでしょうか。
ガイドラインを無視して編集する方々、真実はもとより、検証可能性すら満足させようと努力しない方々を見て、信頼関係以前に、この方々と共同作業ができるのかどうか非常に疑問に思っています。
また、うまくコミュニケーションを取ってくれる方も多数ウィキペディアには存在します。そのような信頼関係を築こうとしている方が大勢いる反面で、どちらかというと敵対関係でも良いと考える人が多くいるため、どのジャンルの記事でもトラブルは絶えません。
仮に、信頼関係に基づく共同作業が、誰にでも簡単にできるのであれば、こんなに多くの場所でトラブルは発生していません。
つまり、信頼関係に基づく共同作業を行う事は、非常に困難な事であると言えると思います。
そのような、信頼関係が築きにくいプロジェクトは、苦労が多いばかりか生産性もあがりません。
そんな苦労をするならば、勝手知ったる信頼関係を築ける方々とプロジェクトを立ち上げて独自に発表する方がよっぽどスムーズに事が運ぶと考え、こちらで上の特例を用いて記事を真実に導くのであれば、別プロジェクトでそういう発表の企画を考える方がよっぽど良いと感じました。

百科事典の重み

ウィキペディアを1年近く見てきて、感じたのは「百科事典とは何だろう」でした。
誰もが自由にと書かれていますが、自由をはき違えているのではと感じる。
百科事典を編集するという事はどういう事だろうか?普通、常識で考えたら「自分が専門としている項目」「自分が研究してる項目」でなければ編集できないはずです。
が、ウィキペディアは違います。誰でも編集できます。
要は「専門知識を持ったAさんが記述した内容を、ちょっとその件について雑誌で斜め読みしたBさんが意図も簡単に書き換えれる」事を意味します。
しかも、その大半はAさんの専門的知識と検証可能性に基づく資料によって記されてる内容をBさんがただ、そのことを知らないという理由だけで変えられるのです。
そうなったときに、専門的知識を持った方が、この百科事典の正確さについて疑問を持ち始めます。
そこでWikipedia:検証可能性の冒頭にある
  • ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です
を思い出します。
信頼のおける出版物に記載されてるという事は、それを参照しているウィキペディアの記述は真実である可能性が高い。だから、検証可能という部分は良い。ただ、検証可能にして記述しているのに、その検証をせずに安易に書き換える編集者がいるのであれば、検証可能性のメリットは根底から狂う。
そこで、専門知識を持った者はハッと気づく。ウィキペディアは何もわからない素人も何の制約も無く編集できるのか・・・と。

ウィキペディアは嘘ばかり

先の検証可能性で書かれてるように、ウィキペディアでは真実はどうでも良いのです。ただ、基本的に検証できるような理論は事実である可能性が非常に高く、例外的に検証できない真実はあっても、気にするレベルではないとの事だと思っています。
ここで言う「嘘ばかり」というのは、検証可能性に基づく真実ではない記述の事ではありません。
検証も何もせずに、単に自分が感じただけで記述する編集者が多すぎるために起こる、検証可能性を満たさない妄想的文章があちこちに散らばっているという事です。
ウィキペディアに長年携わった方はこう言うでしょう。
  • そういう根拠の無い書き込みは、すぐに差し戻される
と。
確かにそうでしょう。でも、差し戻すのは誰ですか?差し戻すためにはその書かれた内容を検証できたかどうかが大きく関わります。
つまり、その記事の内容に精通していなければ実質的には不可能です。
と、なると、その記事に常駐している専門知識を持った方が最有力なのですが、その方の気持ちになって考えてください。
  • 無駄な時間だ
と思うはずです。そんな時間があれば、もっと記事を構築する上で必要になる資料の精査などをしたいわけです。
だから、だんだんと、こういう検証可能性を満たさない文章が放置される事になっていく。

記事の構成について

総論が少なく各論が多いという状況は、裏返すと全体像を見れる専門知識を有した方が居ないと言えます。
結局、それにつきると思うし、車両の記事だと雑誌の特集号などを参考にするので、細かい車両解説などの方が記事にしやすいと言うのがあるんだろう。
構成については、いろんな方が気になさってるようなので、そのうち何かは変わると思うけど、変わるとと言っても執筆者がいなければ今のままなんだよねぇ。
専門知識を有した方が定着しにくい状況を考えると、素人執筆者からの妨害を受けつつも、そういった労力のかかる事を誰がやろうとするのかは疑問ですけどね。

今、お手伝いできる事

ウィキペディアで記事を書くためには、まず記事の元になる根拠を過去の資料などから抽出してこなければならない。ウィキペディアが検証可能性を掲げる以上、当然の作業なんだが、この作業というのが非常に手間暇かかる。
たぶん、多くの方が普段は仕事をしてると思うのですが、その環境の中でこれらの作業をするわけですから、一つの節の記事を書く、または改変するのに月単位の時間がかかる事も珍しくありません。
特に加筆の場合は、今まで書かれている記事内容との整合性を図らなければ文章としておかしくなるので、それらを見越して資料を精査する必要もあります。
わたしは現在多忙ですので、そのような時間をウィキペディアのために費やす事ができません。
上で説明したように、ウィキペディア自体に失望してるのも理由ですが、時間のないわたしが、何かお手伝いできないかと思ったのが、画像の提供でした。
画像の場合はウィキペディアで説明されているかどうかを判断基準として画像を選定すれば良く、記事を書くのに必要な資料の精査という莫大な時間は不要だからです。

でも少し憂うつ

現存しない車両の画像をアップしても別に感謝されるわけでもなく、逆に画像の内容についての知識が無いものから批判される状態があると、こういうことすらバカらしいってなってくるんですよねぇ。
画像が多すぎる云々という意見があるが、市販の百科事典も昔に比べて遙かに画像・図表の比率が高まっている。なぜか?文字でくどくど説明するよりも見たらわかるって事が多いから。会社の書類もそうでしょ?提出を受けた報告書を見て、文字がびっしりだと「却下、書き直せ」って言いませんか?
  • でも市販の百科事典の画像・図表なんて一つの記事に何枚もあるわけじゃない・・・
ふむふむ、そりゃそうだ、誌面が限られてるんだから。
考えた事は無いですか?2枚だったらどうなるんだろうかって。
画像が増えたら、それに応じて記事も見直せば良い。
そうすれば、質は完全に向上している。
見にくくなるとか、末節にこだわりすぎるとか、それは構成の問題であって、一つ一つの節レベルの話ではない。
一つ一つの節レベルの記事は常に質を高める努力をすべきだろう。
画像がたくさんある百科事典など誰も見た事無いだろう。でも、それがダメな理由は見つからない。ウィキペディアでチャレンジしても良いのではないかとは思うな。
そういう可能性を考えずに、闇雲に「ダメ」「バランス悪い」と決めつける方が多いような気がして、その点はちょっと憂うつ

恐れていた事が

485系において、私が上で書いたような理由で、とりあえず画像をアップしていたのですが、画像過多だとノートで怒られてしまいました。どうも画像のアップも編集だからきっちりと記事も書かないと無責任だと言うのです。(甘えてるんだそうです、ちょっと表現にびっくり)
まぁセットでできるに超した事無いとは思うのですが、だからこそ最初に断りを入れているんですが、受け入れられないのであればお手伝いする必要もありませんね。
画像が欲しくなったら自分たちで撮影するなり、画像提供者を捜すなりしてくれればいい話です。
そういう事ができないから、今までの各記事には画像も図表も無かったんだと思います。
写真を撮るにはその車両が走ってるところまでいかなければなりませんし、図表を書くにもセンスや手間がかかりますからね。それに比べて記事は言っちゃ悪いが、ちょっと雑誌を見ただけで書ける。
その記事に対してどの程度の思い入れがあるのか、そういう部分が問われると思っていますが、本当に思い入れがあれば、画像提供に対しては「でも少し憂うつ」で書いたように感謝されて当然だと思うんですがねぇ。
それが無いというのは、あまり思い入れが無いって事なのかなぁと思ったり。
自分がそういうのを用意せずに記事を書くのは、先の理論から行くとそれこそ無責任とも言えるかと思いますね。
もちろん、画像がなければ記事を書いてはいけませんなんてどこにも書いてませんが、画像もそうですよねぇ。
記事がなければ画像をアップするなとは書いてないと思うんですけどね。後者を甘えというなら、前者も甘えだと思いますが。(私は今までそういう風には考えた事無かったけど)
いずれにしても自分ができる範囲を持ち寄って作り上げていくという分業システムを否定されたら、共同作業なんてできやしませんから、画像提供ってのは103系など自分が記事を書きたいと思ってる項目以外は終了にします。

行動しない人は口が動く

で、こういう画像・図表を揃えれないから、逆に百科事典の記事には画像や図表は、そんなにいらないと言う事を言い始めるわけで。
具体的な説明を求める時に、そのことを知らない人に説明するにはどうしてもくどくど言わなきゃならない。姿形なんて文字で説明するのは大変だからねぇ。それを画像を使えば非常に楽に見せれるし、だからこそ紙ベースの百科事典でも画像・図表が増えているんだけど、オンラインで容量を気にしないウィキペディアでそれを用いない手はないんだけどね。
画像・図表の入手が困難だから、あえて「不要」という風に決めつけてるように思えますね。
画像ばかりあってもと言うかもしれませんが、例えば山の写真でも東西南北から見た画像があったらダメですか?湖の画像でも同じですが・・・
雨の日と晴れの日の画像があったらダメですか?
想像してみてください。そういうのを一度に見れるんですよ。素敵じゃないですか。
どうも、ウィキペディアに参加してる方の一部は、一般の百科事典と比較する事が多いですが、もともと別物というのはわかってるはずですが、こういう自分たちが動く事が難しい・面倒だというような話になったときには、一般の百科事典を引き合いに出すケースが多いように思えます。
まぁ、画像に関しては「カメラ」というのが必要になる事もあって、その道具を使って綺麗な写真を作るにはちょっとしたスキルが必要なんだけど、そういうスキルの無いやつが人の画像に文句を言うシーンを良く見かける。
だいたい人の画像に文句言うなら、自分が代わりの画像を撮ってこいってのが実社会でも言われる事なんだけどねぇ。
  • 文句言わずに、きっちり仕事(よりよい画像の撮影)をして、さりげなく報告(画像の差し替え)をしたら良い
って思うんだけど、そういう自分は動かないが人の事にけちをつける連中が多いから「共同作業と信頼関係」で思うように信頼なんてできないんだよなぁ。

責任って?

485系でもノートで責任を持って編集してると言ってる方が、検証途中の内容をいきなり本文から削除したりするんだもんなぁ。責任って何だよって思うけど、その程度なんですよねぇウィキペディアの責任って。
だって、実社会と違って自分自身が責任を負うわけじゃない。自分のアカウントという影武者が非難されるだけですからね。
実社会では、検証不足から間違った事を公表してしまうと「あいつの言う事は信用ならん」「頼りにできない」など言われてしまいますから、だからこそいい加減なレベルで話を進めれないわけです。特に仕事などはそうですが検証はきっちりとする事が大事です。
それに対してウィキペディアでは、間違った事を公表したり、間違いを記述したりしても、本人は何ら影響を受けませんよね。
あいつは信用できないと言うのは、単にアカウントやIPに対しての事で、本人にはそういう評価は全く及びません。
しかも分が悪くなると出てこないんですよねぇ。実社会ではありえないでしょ?
大きなミスをした。実社会ではその批判を受けて会社なりに出て自分を晒さなければならない。
だから、そうならないように慎重に行動する。
それに対して、ウィキペディアは出てこなければ済むだけなんですよねぇ。(アカウントを変える人もいます。ブロック対象後にアカウントを変えるので無い限りは別に規制は無いみたいですから)
だからいい加減に内容を書き換える方が多いのでしょうけどね。
きっちり、居住地や名前を登録させておき、いい加減な事を言えばネットで公開するなどの制裁は必要ではないかと思いますね。
個人情報云々という方がいるかもしれませんが、百科事典の編集に匿名ってのもおかしいでしょう?それだけ責任の重い仕事をしてるという自覚が必要ですから、そんなのは当然の事ではないでしょうか。
良く文責と表現されますが、ウィキペディアには責任を取る人が誰もいない点が大きな欠点だと思いますね。
だから共同作業もできなければ、信頼関係も築きにくいと思います。
まぁこういうのは実現不可能だろうけど、それくらいの意識で編集して欲しいですけどねぇ。

当然の帰結

485系のノートを見ていると、検証可能性の存在自体ご存じないような書き込みがありました。「ウィキペディアは嘘ばかり」で書いたように、検証可能性を満たせない記事はとても危険なんですよね。
本人は悪気があって書いてるのでは無くても、検証できない状態では本人の妄想と思われても仕方ないですから。
で、検証可能性に基づいて、出典を明記して「こんな記述がありました」と根拠を示しても、それは全く無視するんですよねぇ。
こうなると、話にならないです。
私が出した根拠が記事の中で使うに相応しいか相応しくないかは、これから決めるべきことなのに、ハナから土俵に上がれないんですよね。
つまり、相手が気に入らない根拠は仲間に入れてもらえないという事で、それってのは偏見混ざってますよねぇ。
本当に簡単に調べて数点の根拠を出しただけだけど、他の方は全く自分の意見をおっしゃるだけで、その根拠は全く提示していただけませんでした。
一週間ほど待ってみましたが、結果としては全く私が提示した検証可能性を満たす根拠は無視なんですから、もう何も言うことは無いというか、勝手にウィキペディアのルールに合致していない「自分たちの考えるウィキペディアを作れば良い」と思いますね。
別に485系の記事がどうなろうが知ったことではないしね(笑)
ルールをわかっていない者が多すぎるのなら、やっぱり参加はできないですよねぇ。
ま、がんばって下さいと言うしかないですが・・・・

自分たちでwiki

ウィキペディアについては、こういうやりとりができる事を教えてくれたという面では非常に感謝しています。
すでに、自分自身でウィキペディアと同じwikiのシステムであるMediawikiをインストールして使える状況を作っていて、ウィキペディアでの経験を生かしたウェブサイト作りができるかどうか、今度は自分自身のwikiで試していっています。
ウィキペディアのような複数の方々と共同して作るような事もできるでしょうから、そういうプロジェクトがあれば、プロジェクトチーム用に解放するつもりにもしています。
ウィキペディアでは信頼関係など持てという方がハナから無理で、その状況での共同作業が本当にできているのかどうかについては、これだけ多数のページでトラブルが起こってる現状を見ても明確です。
当然、責任を持った編集をしてる方などごく一握りであり、その他の方は、口では偉そうに言っても、実際には「自分の好き勝手書き換えたい」という方々です。
そんな事で、自分自身でwikiを持った事は正解だと思っています。MySQL等の知識がいりますが、そのあたりもサポートしてくれるホスティングサービスも増えたので、本当に真剣にやりたい方は、私のように自分自身でwikiを構築していく方が今後増えるのでは?と思います。

保護とノートの活用

問題の多くが本文への無責任な加筆と改編にあるので、それをできないように基本的に全ての記事を保護扱いすればと思う。
現在の記述を書き換えたいのであれば、ノートで提起して一定の人間の同意を得る必要があるという感じで、合意形成ができた段階で初めて本文を変更するという手順を踏めば、無駄な編集合戦も減ると思う。
もちろん、ノートページで議論は多数起こると思うけど、それこそ百科事典の編集に相応しい手順だと思うけどね。
読者に見せる本文側であーでもないこーでもないと編集合戦を起こしてる状態がどれだけ不細工な状態か。小売店で店員が商品の値札を100円じゃない300円だと店頭で言い争いをしてるようなもんで、そんな店、信用できないので訪れませんよね普通。
そんな事は事前に決めておけって誰しも思うけど、店頭であーでもないこーでもないってやってるのが、今のウィキペディアです。
もっとノートを活用するようにすれば良いんだけど、ノートも自分に不利になると出てこない無責任な方が多いのでねぇ。議論の途中で出てこなくなったアカウントやIPを無期限ブロックにする等の措置が無いと、なかなか活発化しないでしょうが。そうすれば何らかの都合で議論から抜けるときにも「挨拶」をするようになるでしょう。今の状態では「現在調査中なので議論に参加できない」のか「議論を放棄」したのかわかりませんからね。

百科事典に書くと言うこと

自分が本当に調査してる項目だけしか編集しないようにさせる方法を考える点でしょうかねぇ。
ちょっと本を読んだらすぐに記事にできるなんて、百科事典じゃないと思いますけどね。
多くの方がすごくたくさんの項目の編集に携わってるんですが、あれを見るだけで「いい加減な媒体だ」ってわかりますよね。普通、自分が参考資料を集めていて人に説明できる項目なんてせいぜい数点でしょうから。
ブログとかなら「ちょっと調べてみました」程度に書くのは大いにアリだと思うんですけど、その感覚で百科事典の編集をされてもねぇと思いますが(笑)
百科事典に一行書くのが本来どの程度の知識が必要か冷静に考えたら、そんなちょっと文献を読んだからという無責任な形で加筆なんてできないはずですが、それができてしまうのがウィキペディアの怖いところですね。

あれ?

ウィキペディアの編集スタンスを書いてるうちに、大半がウィキペディア批判になってしまった。

こんな注釈が増えた

  • 閲覧される皆さんへ: ウィキペディア日本語版に記載されている内容には、未確認の情報や誤りがある可能性があることを考慮してください。
  • 編集される皆さんへ: ウィキペディア日本語版に編集を行う際は、必ず検証可能な出典をつけてください。

いいことだと思う。まずウィキペディア自体が「妄想だらけの記事も多い」点を読者に認識させるというのは良い事だと思う。また、出典を付けるというのも妄想をへらす事が出来る点で良いだろう。ただ、鉄道ファンなどのネットニュースはチェック機能が誌面のものより低いので、そのあたりは制限を課す必要は少しあるかもしれない。写真があれば出典というのも厳密にダメとすべきだな。