203高地

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座標: 北緯38度49分43.10秒 東経121度11分36.30秒 / 北緯38.8286389度 東経121.1934167度 / 38.8286389; 121.1934167

203高地
海軍軍令部『明治三十七八年海戦史』(1909年)より
標高 203 m
所在地 中華人民共和国の旗 中国 遼寧省大連市
プロジェクト 山
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203高地(にひゃくさんこうち、にいまるさんこうち、ロシヤ語ではビソスカヤロシア語: Высо́кая Гора́))は、中国北東部の遼東半島南端に位置する旅順(現在の大連市旅順口区)にある丘陵である。

1904 - 1905年日露戦争では、ロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る日露による争奪戦の激戦地となった。

地理

203高地の忠魂碑。当時日本軍が使用していた三十年式実包をかたどっている。文化大革命で先尖部分が破壊されたが、のちに復元された。
203高地から見た旅順港。直線距離で4km
頂上から見た包囲中の旅順港
203高地の石碑

旧市街地から北西2kmほどのところにある。海抜203メートルであることからこの名が付けられた。

現状

大連市により、文物保護単位に指定されている。

中国海軍軍事施設に含まれており、外国人の立ち入りは長く禁じられてきたが、1990年頃から水師営と共に観光客に開放されるようになった。

日露戦争

日露戦争において要所となった旅順において、日本陸軍第3軍を編成し旅順要塞および旅順艦隊を攻撃した。

旅順要塞の西方に位置する203高地は、

・ロシア側では、元々は旅順要塞防衛線の一翼を担うはずだったが、予算削減により防衛線が縮小された際にそこから外れ、前進陣地として運用された。

・日本側は当初は重要視せず、第三軍に用意された地図には前進陣地すら書いていなかった。陸軍は要塞自体の攻略を作戦目的としており、その形は旅順要塞が陥落するまで変わらなかった。陸軍はロシア軍主力との決戦に備え、後方の、しかも物資揚陸地点の大連の目と鼻の先にロシア軍が立て籠もっていることを懸念したからである。封鎖も検討されたが、封鎖するだけでも相当数の部隊を割かねばならず、降伏するまでの長期間、封鎖部隊は他方面に活用できなくなり、ロシア軍と比べて戦力の乏しい日本にその決断はできなかった。そのため大山巌児玉源太郎らは要塞攻略を第一に考え、後に海軍から旅順艦隊の無力化を要請されても、要塞攻略を第一とする方針は変えなかった。

203高地は港湾部を一望できる観測点としては有意義な地点であったが、要塞攻略にはあまり重要ではなかった。さらに盤龍山保塁や東鶏冠山保塁などの後方にある「望台」の方が標高で勝り、港湾だけでなく要塞全体も一望できたので、第三軍は総攻撃前に最終的にはこの望台を占領すべく東北方面を主攻撃目標とする決断を下し、大山、児玉ら満州軍総司令部もこれを支持していた。これに対して長岡外史参謀次長など一部は、203高地よりもさらに西方の平坦な地域からの主攻撃を主張したが、補給面や部隊展開の不利などの理由から採用されなかった。海軍はこの時点では第三軍の方針に関して意見を述べた事実はなく、実際はこの時点で203高地に注目していた人物は誰もいなかった。

ロシア軍側も、203高地一帯は要塞主防御線から離れており攻撃側からすると移動に時間が掛かるだけでなく、その際は他の防御保塁からはまる見えで迎撃を被るという攻めるに不利な地点であったため、警戒陣地・前進陣地としての運用しか考えていなかった。陣地自体の規模は南山の戦い後より防御強化の工事がなされており、第三軍の包囲完了時点でかなり強固な陣地となっていたという、攻城砲兵司令部参謀の証言がある。

2度にわたる攻撃失敗、さらにバルチック艦隊の出撃の報を受けた海軍は、旅順艦隊殲滅を優先するよう動き出す。そのための観測点として、前進陣地であり規模も大きくなく、簡単に落とせそう(と海軍が判断した)な203高地を攻略して欲しいと進言(秋山真之が進言したともいわれるが定かではない)し、これに当初から要塞西方主攻勢論だった大本営が同調して203高地攻略を支持する。

これに対し大山や児玉、現地軍である第3軍司令官の乃木希典らはすでに大孤山からの観測砲撃や黄海海戦で旅順艦隊は壊滅しており、観測点など必要としない。艦隊を殲滅しても要塞守備隊は降伏せず、降伏しない限り第3軍は北上することはできない。そのためには、要塞正面への攻撃による消耗戦しかない[1]。東北方面にある「望台」の方が、要塞も艦隊も一望でき、重要性が高いと判断し、海軍や大本営の203高地攻撃要請を却下し続けた。

しかし御前会議を開いてまで決定した「203高地を攻略する」という決定と、大本営からの圧力(本来、第3軍は満州軍の所属で、大本営の直接指揮下にない)に第3軍が屈し1904年11月28日に203高地攻撃を開始する。一度は奪取に成功するもロシア軍が反攻して奪還され、一進一退の激戦となる。

結局12月5日に203高地は陥落する[2]。観測点を設置し港湾への砲撃を開始したが、ほとんどの艦艇は黄海海戦での損傷が直っていなかったことや、要塞防衛戦に搭載火砲や乗員を出していたので戦力としては無力化しており、自沈であったことが戦後の調査で判明している。第三軍も203高地を攻略するとすぐに配置を元に戻して東北方面の攻撃を再開し、ロシア軍も旅順艦隊が自沈しても抵抗を続けた。結果的に要塞の予備兵力が消耗枯渇したロシア軍は、続く要塞正面での攻防で有効な迎撃ができず、それでも1か月ほど頑強に抵抗した。だが正面防御線の東鶏冠山保塁二龍山保塁などが相次いで陥落、翌1905年1月1日に要塞は降伏した[3]

本争奪戦は、多くの戦死者を出した。第7師団(旭川)は、15,000人ほどの兵力が5日間で約3,000人にまで減少した。ロシア側の被害も大きく、ありとあらゆる予備兵や臨時に海軍から陸軍へ移された水兵までもが、この高地で命を落とした。第3次総攻撃では乃木希典の次男・保典も戦死し、乃木は自作の漢詩で203高地を二〇三(に・れい・さん)の当て字爾霊山(にれいさん、汝の霊をまつる山[4])と詠んだ。

203高地にまつわる文化

二百三高地髷

日露戦争後に日本で流行した、前髪を張り出し、頭頂部に束ねた髪を高くまとめるような女性の髪型を「二百三高地髷(にひゃくさんこうちまげ)」という。当時普及し始めていた洋装に合う髪型として生み出された。

映画『二百三高地』

1980年、日露戦争の旅順攻囲戦における203高地での日露両軍の攻防戦を描いた『二百三高地(にひゃくさんこうち)』という東映製作の日本映画が公開された。1981年にはテレビドラマ化もされている。

爾霊山高地の石塊・棗萩松碑

湘南遊歩道路(現・国道134号)開通時(1935年1月1日)、神奈川県鎌倉郡片瀬町(現・藤沢市片瀬海岸一丁目)の現在の江ノ電駐車場の所に建てられた乃木の銅像の傍らに横須賀鎮守府が寄贈したもの。戦後、銅像が取り壊されたときに江の島島内の児玉神社境内に移設された。

脚注

  1. ^ 戦車航空機のない当時としては、第二次世界大戦での電撃戦のような早期突破はできない以上、塹壕に籠り鉄条網と機関銃で守っている敵要塞を落とすには消耗戦しかなかった
  2. ^ 帝国海軍と鎮海 海上自衛隊幹部学校 - archive.today(2012年8月5日アーカイブ分)
  3. ^ 小説『坂の上の雲』(司馬遼太郎)では児玉源太郎が203高地を主目標に変更させたと記されたが、直接の資料は存在せず、実際目標を変更させたのは乃木である。
  4. ^ 日本財団図書館(電子図書館) 月刊「吟剣詩舞」2001年6月号

関連項目

外部リンク