香川善治郎

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香川 善治郎(かがわ ぜんじろう、1848年6月14日嘉永元年5月14日[1])- 1921年大正10年)3月7日[1])は、日本剣道家。流派一刀正伝無刀流称号大日本武徳会剣道範士。一刀正伝無刀流山岡鉄舟の高弟。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

讃岐国豊田郡古川村[1](現香川県観音寺市)の中農の二男として生まれる。幼少時に母が他界し、父も病弱であったため祖父母に養育される。祖父磯五郎は武術を好み、自宅に道場を備えていた。

青年期[編集]

15歳で丸亀藩剣術師範の直清流矢野市之進に入門。3年後の1865年慶応元年)江戸に出て、田宮流島村勇雄の道場に1年間留学。1866年(慶応2年)に帰郷し矢野から直清流目録を授けられる。その年祖父磯五郎が死去。

明治維新後[編集]

1870年明治3年)、赤心報国党に参加し挙兵を企て捕縛される。高松監獄に1年余入牢。放免後は自宅に謹慎して農業に従事する。1875年(明治8年)、善通寺市医師山地浅三郎の娘タカと結婚。

1880年(明治13年)8月、故郷を突然出奔して剣術修行を再開する。岡山阿部右源次道場を訪ね阿部守衛奥村左近太らと試合を行い、大阪秋山多吉郎道場、滋賀籠手田安定高山峰三郎名古屋の知人の元を渡り歩く。その後東京榊原鍵吉道場で2か月間修行。学習院撃剣部で指南する。

無刀流修行[編集]

1880年(明治13年)、無刀流開祖山岡鉄舟と試合をする。鉄舟は32竹刀、善治郎は4尺2寸の竹刀を使ったが、善治郎は身動きさえできないまま敗れた。

1881年(明治14年)1月、鉄舟に入門。同年4月1日、7日間1400回立ち切り試合に挑む。4日目、善治郎の死ぬ覚悟を見届けた鉄舟は、立ち切り試合が目指す境地に到達したものと認め、成就を宣した。無刀流に「誓願」という修行法が設けられたのはこの後である。

晩年[編集]

1895年(明治28年)、大日本武徳会第1回武徳祭大演武会松崎浪四郎と対戦。同会から精錬証を授与される。

鉄舟没後、無刀流普及のため各地を転々とした。最後は住友本店の住友倶楽部剣道師範。弟子に石川龍三草鹿龍之介等。

妻タカのもとに帰ったのは死去の2年前であった。1921年大正10年)3月7日死去。翌月21日にタカも亡くなった。

伝記[編集]

  • 森川竜一『香川善治郎伝』香川善治郎伝刊行会、1983年。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『剣道事典 技術と文化の歴史』344頁。

参考文献[編集]

  • 堂本昭彦『明治撃剣家 風のごとく発す』〈徳間文庫〉徳間書店、2000年。
  • 中村民雄『剣道事典 技術と文化の歴史』島津書房、1994年。

関連項目[編集]