青山準二郎

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あおやま じゅんじろう

青山 準二郎
東京一致神学校の学生時代の青山(29歳)
生誕 (1853-10-05) 1853年10月5日
日本の旗 日本 越後国与板(現・新潟県長岡市与板
死没 没年不詳
日本の旗 日本 不詳
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京一致神学校
職業 牧師
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青山 準二郎(あおやま じゅんじろう、嘉永6年9月3日1853年10月5日〉 - 没年不詳)は、明治時代に活躍した長老派系の日本基督教会牧師。北海道の宣教で活躍した。

生涯[編集]

1883年第三回全国基督信徒大親睦会の幹部の記念写真、青山は前から3列目の右から5人目

越後国村上藩中山湛斉の3男として生まれる。1878年(明治11年)エディンバラ医療宣教会宣教師T・A・パーム押川方義に出会いキリスト教回心する。1880年(明治13年)3月にパームより洗礼を受ける。[1][注釈 1]

パームの薫陶を受けて、伝道者になることを決心して、1883年(明治16年)に上京し、東京府築地東京一致神学校に入学する。上京して間もない5月には第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として参加し、植村正久内村鑑三と一緒に写真と取っている。

1886年(明治19年)より、津和野(現・島根県鹿足郡津和野町)、柳川(現・福岡県柳川市)で牧会をしたのち、1898年(明治31年)より北海道滝川伝道を始める。その結果滝川教会が設立される。

滝川では冬期学校を開校して、江部乙町(現・滝川市江部乙)、新十津川(現・新十津川町)、歌志内(現・空知郡歌志内町)、音江(現・深川市音江)などへ伝道し、1921年(大正10年)これまで無牧でしばしば応援して支えてきた樺戸郡浦臼村(現・浦臼町)の聖園教会の牧師に就任する。[注釈 2][注釈 3]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1880年までにパームから洗礼を受けた者は88人を数え、1881年には会員73人を持って一個の独立した教会を組織した。大西 2003, pp. 1185)
  2. ^ 聖園教会は幕末の偉人武市半平太の親戚の武市安哉ら旧土佐藩出身の士族が中心になって設立された教会である。(福島 1988, pp. 23)
  3. ^ 聖園教会は1897年に新会堂を建設して自主独立教会になったが、大洪水がしばしば起こり離村者が続出、福田捨助牧師も転住したので無牧であった。青山は、光小太郎、坂本直寛らと共に来援していた。(金田 1988, pp. 739)

出典[編集]

  1. ^ 福島 1988, pp. 23)

参考文献[編集]

一般書[編集]

  • 高橋昌郎『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年。ISBN 4-642-03752-7 
  • 守部喜雅『日本宣教の夜明け』いのちのことば社、2009年。ISBN 978-4-264-02638-9 

事典[編集]

  • 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年。ISBN 9784764240056 
    • 福島恒雄「青山準二郎」『日本キリスト教歴史大事典』1988年、23頁。 
    • 金田隆一「聖園教会」『日本キリスト教歴史大事典』1988年、739頁。 
    • 本井康博「パーム」『日本キリスト教歴史大事典』1988年、1185頁。 
  • 『長老・改革教会来日宣教師事典』新教出版社、2003年。ISBN 4-400-22740-5 
    • 大西晴樹「パーム」『長老・改革教会来日宣教師事典』2003年、305-318頁。