耶律氏

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耶律 氏(やりつ し)は、満洲に居住していたキタイ人(契丹人)のの一つ。西遼における国姓のひとつ。風の姓として「劉氏」ともいう。「移辣」とも表記する。

耶律氏の王朝[編集]

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916年耶律阿保機が満洲に樹立した王朝が(契丹)である。当初はをも軍事的に上回ることもあったが、後代になるにつれ次第に遼の王朝文化は華美になり、支配下の周辺民族・部族からの収奪も重くなった。これに怨みを抱いた女真部完顔氏族長の完顔阿骨打の軍勢によって攻略され、第9代皇帝天祚帝(耶律延禧)は雲中山西省大同市)の陰山に潜伏したが、金軍に包囲されて降伏したことで遼は滅亡した。

北遼[編集]

1122年、3月に燕京で天祚帝の従父の南京留守、秦晋王・耶律淳(天錫帝)が大石李処温らによって、北遼の皇帝として擁立された。6月に天錫帝は崩御し、天祚帝の五男で太子の秦王・耶律定が擁立された(摂政は天錫帝未亡人の蕭徳妃・蕭普賢女) 。翌年5月に父帝から自立した次男の梁王・耶律雅里が擁立されるも10月で崩御。今度は天錫帝の太子の耶律朮烈(英宗)が擁立された。翌月に英宗は内紛で家臣に殺害され、間もなく北遼は滅亡した。

西遼[編集]

遼の皇族耶律大石は遼滅亡後、故地を捨てて現在のトルキスタン一帯に西遼(黒契丹、カラキタイ)を建国した。西遼では耶律氏が5代にわたり王統として存続したが、耶律直魯古の代に、モンゴルに滅ぼされたナイマンの王子クチュルクを女婿とし庇護したことに起因し、クチュルクに王位を簒奪され滅亡した。クチュルクもまたチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国の軍勢に滅ぼされ、耶律氏の支配する国家は完全に滅亡した。

金朝・元朝の臣下としての耶律氏[編集]

耶律氏の一族には完顔氏が建てた金朝の臣下となる者も多く、譜代の廷臣となった。金朝に仕えた耶律氏は廷臣として重用されたが、金朝がそれまで殺戮または臣従させ、虐げてきたモンゴル高原の遊牧部族をモンゴル部族のチンギス・ハーンが統一し、金朝攻略に乗り出すと、耶律阿海耶律禿花兄弟が金朝に造反し、チンギス・ハーンの配下として金朝攻略軍の指揮を担った。

一方で同族の耶律楚材は金朝の廷臣としてモンゴルの侵攻に抗するも、モンゴル軍の金朝攻略によりチンギス・ハーンの臣下となった。楚材はチンギス・ハーンとオゴタイの2代に仕えて中書令に任ぜられ、モンゴル帝国の政治において重きをなし、死後に太師の官を追贈され広寧王を追封された。その子耶律鋳と孫の耶律希亮クビライに仕え、中書左丞相となるなど、耶律氏は元朝の重臣として続いた。

関連項目[編集]