興宗 (遼)
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| 興宗 耶律只骨 | |
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| 遼 | |
| 7代皇帝 | |
| 王朝 | 遼 |
| 在位期間 | 1031年6月25日 - 1055年8月28日 |
| 姓・諱 | 契丹名:耶律只骨 漢名:劉宗真 |
| 字 | 夷不菫 |
| 廟号 | 興宗 |
| 生年 | 1016年4月3日[1] |
| 没年 | 1055年8月28日 |
| 父 | 聖宗(長男) |
| 母 | 欽哀蕭皇后 |
| 皇后 | 仁懿蕭皇后 |
| 年号 | 重熙 : 1032年 - 1055年 |
興宗(こうそう、1016年4月3日 - 1055年8月28日)は、遼の第7代皇帝(在位:1031年6月25日 - 1055年8月28日)。契丹名は耶律 只骨。
1016年に第6代皇帝であった聖宗の長男として生まれる。3歳の時に梁王に冊封され、1031年、聖宗の崩御により皇位を継承する。しかし幼年であったため、当初は生母の太后・蕭耨斤が摂政として実権を握り、朝政を行っていた。
成人後は生母を幽閉して実権を取り戻し、親政を開始する。この頃の遼は国力衰退の兆しが見え始めていたが、興宗は軍事力を増強して北宋への圧力を強め、歳幣を増加させることに成功した。また、新興勢力である西夏に対しても軍を送って屈服させ、朝貢させることに成功するなどして遼の再建を成し遂げた。文化面・内政面でも繁栄を遂げた遼は、全盛期を迎えるに至った。
1055年に40歳で崩御し、太子の道宗が継承した。
目次 |
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 仁懿蕭皇后
- 蕭貴妃
[編集] 子
[編集] 女
- 耶律跋芹(蕭撤八の妻、晋国長公主)
- 耶律斡里太(蕭余里也の妻、鄭国大長公主)
[編集] 脚注
- ^ 《辽史·圣宗本纪》记载:开泰五年二月,“戊戌,皇子宗真生。”用万年历换算为公历则是1016年4月3日。
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