白髪部

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白髪部(しらがべ)とは、古代日本の名代)の一つ。清寧天皇の御名代部を管掌した。

概要[編集]

「白髪部」のルーツは『日本書紀』巻第十五によると、

二年の春二月(きさらぎ)に、天皇(すめらみこと)、子(みこ)無きことを恨みたまひて、乃(すなは)大伴室屋大連(おほとものむろやのおほむらじ)を諸国(くにぐに)に遣して、白髪部舎人(しらかべのとねり)・白髪部膳夫(しらかべのかしはで)・白髪部靫負(しらかべのゆげひ)を置く

とあり、遺跡を残して、後世に名を伝えることが目的であった、と記されている[1]。同様の記載は、『古事記』の雄略天皇段や清寧天皇段にも見え、『書紀』巻第十七の継体天皇元年にも、大伴金村が天皇に確かな皇太子と良き后がいないと、天下を治め、良い子孫を得ることができないとして、その具体例として清寧天皇の三種の白髪部のことについて言及し、手白香皇女との婚姻と天神・地祇をまつり、子孫を得ることを祈ることを勧めている[2]

これは東国の国造一族の多くが舎人として、大王の王宮に出仕したことを現しており、さらに膳夫としても出仕していることを示している[3]

この白髪部は、畿内山城国摂津国和泉国と、西国の美作国備中国石見国周防国肥後国のほか、遠江国駿河国美濃国武蔵国常陸国上野国下野国などの東国に分布しており、白髪部という氏姓も同じ地域に分布している。

1975年昭和50年)、飛鳥京跡からは「白髪部五十戸」と記された木簡が出土しており、地名を示すものと推定されている。1950年代には縦27センチメートル、幅23センチメートルの平瓦が飛鳥寺から出土しており、2015年平成27年)発表の奈良文化財研究所の調査の結果によると、そこには「白髪部=しらかべ」と刻書されていることが判明している。焼く前にへらのような道具で刻んだと推測され、瓦の製造技法から7世紀後半の作とみられる。このことより、白髪部は瓦を作る労働集団だった可能性があり、飛鳥寺の造営には部民が使役されたことが想定されると、調査に携わった東野治之奈良大学教授は述べている。

『書紀』巻第二十五、孝徳天皇白雉元年(650年)には、倭漢直県(やまとのあやのあたいあがた)・白髪部連鐙(しらかべ の あたい あぶみ)・難波吉士胡床(なにわのきし あぐら)を安芸国に派遣して、百済舶2隻を建造させた、ともある[4]。『平城宮木簡』には欠名の「白髪部連」の名前も見えている。

続日本紀』巻第三十八によると、延暦4年(785年)5月、光仁天皇の諱である「白壁」と同音の「白髪部」の姓を改めて「真髪部(真壁)」とし[5]、郷名も改めさせられている。

脚注[編集]

  1. ^ 『日本書紀』清寧天皇2年2月条
  2. ^ 『日本書紀』継体天皇元年2月10日条
  3. ^ 『日本の古代6』(中公文庫)「2.大王による国土の統一」の中の「3.部民制の展開」文:鎌田元一から「『ベ』の成立とその本質」より
  4. ^ 『日本書紀』孝徳天皇白雉元年是歳条
  5. ^ 『続日本紀』桓武天皇延暦4年5月3日条

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]