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'''パロディ'''(parody)


古代[[ギリシャ文学]]では、パロディとは他の詩歌の形式を模倣した詩の一形態であった。事実、“parody”という単語は、ギリシャ語の“par-”(従属的な)と“-ody”(頌歌)に由来する。従って本来のギリシャ語「パロディ」は、概ね「模倣詩」の意味になる。
[[文学]]などで、広く知られている既成の作品を、その特徴を巧みにとらえて、滑稽化・風刺化の目的で作り変えたもの。[[日本]]の替え歌・狂歌などもこの一種。


[[古代ローマ]]の作家たちは、ユーモラスな効果を狙った他の詩による模倣作としてパロディを解釈した。[[フランス]]の[[新古典主義]]文学でも、「パロディ」は、ユーモラスな効果を狙って他の作品形式を模倣した詩の一形態であった。
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[[オックスフォード英語辞典]]では、パロディという言葉の最初の用例として、[[ベン・ジョンソン]]の喜劇『十人十色』([[1598年]])が引用されている。「パロディよ、パロディよ! パロディをより不条理にするために、パロディはあった」次の注目すべき用例は、[[1693年]]の[[ジョン・ドライデン]]の著作から引用される。ドライデンはパロディという言葉が一般に使われていなかった事を示唆し、説明を加えている。“Preface to the Satires”の中で、ドライデンは「パロディ、すなわち偉大な詩から継ぎ合わされ、元詩の著者の意図とは別の意味に変えられた韻文に満ちた風刺詩の存在を、我々は見出せるかもしれない」と述べている。

その結果として、ドライデンの定義は彼が風刺を意味した先の用例から発展し、更に、まだ名前を持っていなかった[[疑似英雄詩]](mock-heroic)という近代文学のサブジャンルに、他言語の用語パロディを適用させた。

18世紀に先立つパロディは、音楽における「引用」(例えば[[モーツァルト]]が鳥の声を模している一方で、[[メンデルスゾーン]]がモーツァルトを模している事を考えよ)と概ね同じような、効果、あるいは装飾とされていた事は、重視しなければならない。『マクフレクノー』で、ドライデンは完全にパロディによる嘲笑を意図した詩を創作した。『マクフレクノー』はウェルギリウスの叙事詩『[[アエネイス]]』を模しているが、二流の戯曲家トマス・シャドウェルについての詩である。ウェルギリウスからのヒロイックな形式と英雄シャドウェルの貧弱な資質の暗黙の対照は、シャドウェルをより悪し様に見せている。アイネイアスの着物を身に纏う場面では、シャドウェルは全く馬鹿のように見える。

王政復古期から18世紀前半のその他のパロディは、低級あるいは愚劣な人物や慣習を笑いのめすために、真摯かつ崇高な作品の模倣を使用していた点で、ドライデンのパロディと似通っていた。この概ね[[サミュエル・バトラー]]と彼の詩『[[ヒューディブラス]]』に代表されるジャンルは、一般に疑似英雄詩と呼ばれていた。結合が意識される場合、非常に軽薄あるいは無益な主題を備えた、非常に真摯あるいは高尚な形式の対照はパロディとなる。この結合が意識されない場合は、漸降法(bathos)(『[[ロンギヌス]]』の[[アレクサンダー・ポープ]]によるパロディ、『[[ペリ・ベイサス]]』に由来)となる。

ジョナサン・スウィフトは物語体の散文にパロディという言葉を用いた最初のイギリス作家であり、パロディという用語があらゆる軽侮の意図による文体模写を示すために作られたとするのは、おそらくはスウィフト自身によるパロディの定義への誤解による。『[[桶物語]]』の緒言の一つ「諸々の弁解」において、パロディとは暴露願望による作者の模倣であるとスウィフトは述べた。この発言は本質的に、パロディを茶番(バーレスク)や嘲弄とほとんど差異のないところへ持っていく。そしてスウィフトの言語に対する注意力から鑑みるに、スウィフトがこの事を承知していた可能性は充分にある。事実、スウィフトによるパロディの定義は、明白な説明や言葉の借用といった、ドライデンにより習慣的に想定されたパロディかもしれない。

ジョナサン・スウィフト以降、パロディという用語は専ら嘲笑的な言及、特に物語的な言及に使用された。

より古い語義では、ある作品の要素全体が作品の文脈から取り出され再使用される場合を、パロディと見做すことができる。[[パスティーシュ]]はパロディの形式の一つで、ある作品に属するキャラクターや設定がユーモラスな手法で他の作品に使用される場合も、パロディと見做せる。

例えば[[フラン・オブライエン]]の小説『[[スウィム・トゥ・バーズにて]]』では、[[狂王スウィーニー]]と[[フィン・マックール]]、妖精[[プーカ]]に[[カウボーイ]]達といった面々が、[[ダブリン]]の宿屋で一堂に会する。神話の登場人物や[[ジャンル小説]]のキャラクターの混交と日常的な設定を組み合わるユーモアは、いかなる元作品のキャラクターや原作者により演出されたものではない。この確立、かつ確認されたキャラクター達の新しい設定での組み合わせは、架空の歴史的キャラクターを文脈から取り出し、隠喩的要素を提供するために用いる[[ポストモダン主義]]者の習慣と同じものではない。しかしながらポストモダン的意味では、ブランク・パロディ(無表情なパロディ)は、作家が他の芸術作品から骨格形式を取り、新たな内容を備えた新たな文脈の中に配置する部分において共通である。

幾人かの[[ジャンル映画理論]]家達は、任意の(特に映画作品の)[[ジャンル物]]の成長過程での、自然な発展としてパロディを認識している。例えば、古典演劇では慣習的なジャンル物と定義されている[[西部劇]]は、同じく慣習的に風刺文学とされているパロディの舞台を体験した。古典的な西部劇を観た経験から、観客は新しい西部劇へ幾つかの予想を抱いており、それらの予想が正反対に出た時、観客は笑い出したのである。

時おり、パロディの評判はパロディの元作品の評判より長く続く。顕著なケースとして、[[ヘンリー・フィールディング]]の[[小説]]『[[ジョセフ・アンドリュース]]』([[1742年]])、陰鬱な[[書簡体小説]]のパロディである[[サミュエル・リチャードソン]]の『[[パミラ]]』(1740年)、『[[鏡の国のアリス|いい年なのに、ウィル親父]]』等に代表される[[ルイス・キャロル]]の多数のパロディ等は、いずれも元作品より広く知られている。

パロディの一部として、作家やジャンルが初期作品の要素を繰り返すことで創造性の喪失を示す、[[セルフパロディ]]がある。

パロディは[[合衆国著作権法]]の下では[[二次創作]]と考えられるが、17 USC &sect; 107の[[フェアユース]]により保護されている。[[2001年]]に、第11巡回区連邦控訴裁判所は、サントラスト銀行とホートン・ミフリン社の裁判において、『[[風と共に去りぬ]]』と同じ物語を、[[スカーレット・オハラ]]から解放された奴隷女の視点から描いたパロディ、“The Wind Done Gone”を出版した[[アリス・ランドール]]の権利を支持した。『[[オー・プリティ・ウーマン]]』の替え歌に関する、[[合衆国最高裁判所]]のキャンベル対アカフ-ローズ・ミュージック裁判も参照せよ。

音楽のパロディの幾つかは、“[[Mondegreen]]”として知られている聞き間違いによって占められ、幾つかはそうではない。

== 関連項目 ==

* [[文学技法]]
* [[パロディ宗教]]

== パロディ作品 ==
=== 歴史的なパロディ作品 ===

*『チョーサーによる[[騎士トパス]]の物語』(『[[カンタベリー物語]]』より) [[ジェフリー・チョーサー]]
*『[[ドン・キホーテ]]』 [[ミゲル・セルバンテス]]
*“Beware of the Cat” [[トマス・ナッシュ]]
*『[[ぴかぴかすりこぎ団の騎士]]』 [[フランシス・ボーモント]]と[[ジョン・フレッチャー]]
*『[[ウォントリーの龍]]』 作者不詳の17世紀のバラッド
*『[[ヒューディブラス]]』 サミュエル・バトラー
*『マクフレクノー』 [[ジョン・ドライデン]]
*『[[桶物語]]』 [[ジョナサン・スウィフト]]
*『[[髪盗人]]』 [[アレクサンダー・ポープ]]
*『[[ナンビ・パンビ]]』 [[ヘンリー・ケアリー]]
*『[[ガリバー旅行記]]』 ジョナサン・スウィフト
*『[[愚物列伝]]』 アレクサンダー・ポープ
*『[[ラセラス]]』 [[サミュエル・ジョンソン]]
*“The Memoirs of Martinus Scribblerus” [[ジョン・ゲイ]]、アレクサンダー・ポープ、[[ジョン・アーバスノット]] 、[[ロバート・ハーレー|オックスフォードの伯爵]]、およびその他
*[[モーツァルト]]による『[[音楽の冗談]]』(''Ein musikalischer Spa&szlig;''), K.522 (1787) - 幾人かの研究かの仮定では、モーツァルトの無能な同時代人のパロディーとされる
*『[[衣装哲学]]』 [[トマス・カーライル]]

=== 現代のパロディ作品 ===

※翻訳中

*''[[Barry Trotter]]'' - parodies of [[Harry Potter]] books.
*『[[ブレージングサドル]]』 - [[メル・ブルックス]]監督によるアメリカ[[西部劇]]のパロディ映画
*''[[Bored of the Rings]]'' - a parody of ''[[The Lord of the Rings]]''
*[http://www.wilsonsalmanac.com/da_vinci_code_parody.html The Dundee Code] - a parody of [[The Da Vinci Code]], supposedly set in [[Australia]]
*『[[エクセル・サーガ]]』と『[[ぷにぷにぽえみい]]』 - [[アニメ]]文化のあらゆる側面をパロディ化したアニメのパロディシリーズとOVA
*『[[MAD]]』 - アメリカの[[ポップ・カルチャー]]すべてに対するパロディ雑誌
*''[[The Misprint]]'' - similar to [[The Onion]], parodies politics in [[India]]
*『[[空飛ぶモンティ・パイソン]]』の無数のレパートリー
*[[Chris Morris]]'s ''The Day Today'' and ''[[Brass Eye]]'' - parodies of high paced self-important genre of [[TV news]] programmes
*''[[The Onion]]'' - parody of newspaper and magazine [[journalism]]
*''[http://www.norrathian.net/article.php?art=poparody1 The Planes of Parody]'' - a parody of the storyline of ''[[The Planes of Power]]'' expansion for the ''[[EverQuest]]'' online game.
*[http://www.preparingforemergencies.co.uk/ Preparing for Emergencies] - a parody of the British Government's ''[[Preparing for Emergencies]]'' website ([http://www.preparingforemergencies.gov.uk/ original site]) by the student Thomas Scott.
*''[[Radio Active]]'' - BBC parody of poorly funded rural local commercial radio
*''[[The Rerun Show]]'' - television series that parodies classic episodes of old shows
*''[[Ripping Yarns]]'' - television tales penned by [[Michael Palin]] and [[Terry Jones]] to parody heroic stories/comics aimed at British boys during the [[1920]]-[[1960]] (?) period
*''[[Rutland Weekend Television]]'' - [[Eric Idle]] inspired parody of low grade commercial television
*[[The Rutles]] - parody of [[The Beatles]]
*''[[The Sunday Format]]'' - BBC radio parody of vacuous lifestyle journalism
* [[Allan Sherman]]'s and [[Weird Al Yankovic]]'s innumerable [[song]] parodies


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[[fi:Parodia]]
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[[he:פרודיה]]
[[nl:Parodie]]
[[nl:Parodie]]
[[pl:Parodia]]

[[Category:芸術と文化|はろてい]]

2005年2月12日 (土) 18:55時点における版

現代の慣用では、パロディ(parody)とは、他の芸術作品を嘲る意図を持って模倣する風刺の一形式である。文学音楽映画を含めたすべての芸術媒体に、パロディは存在する。

古代ギリシャ文学では、パロディとは他の詩歌の形式を模倣した詩の一形態であった。事実、“parody”という単語は、ギリシャ語の“par-”(従属的な)と“-ody”(頌歌)に由来する。従って本来のギリシャ語「パロディ」は、概ね「模倣詩」の意味になる。

古代ローマの作家たちは、ユーモラスな効果を狙った他の詩による模倣作としてパロディを解釈した。フランス新古典主義文学でも、「パロディ」は、ユーモラスな効果を狙って他の作品形式を模倣した詩の一形態であった。

オックスフォード英語辞典では、パロディという言葉の最初の用例として、ベン・ジョンソンの喜劇『十人十色』(1598年)が引用されている。「パロディよ、パロディよ! パロディをより不条理にするために、パロディはあった」次の注目すべき用例は、1693年ジョン・ドライデンの著作から引用される。ドライデンはパロディという言葉が一般に使われていなかった事を示唆し、説明を加えている。“Preface to the Satires”の中で、ドライデンは「パロディ、すなわち偉大な詩から継ぎ合わされ、元詩の著者の意図とは別の意味に変えられた韻文に満ちた風刺詩の存在を、我々は見出せるかもしれない」と述べている。

その結果として、ドライデンの定義は彼が風刺を意味した先の用例から発展し、更に、まだ名前を持っていなかった疑似英雄詩(mock-heroic)という近代文学のサブジャンルに、他言語の用語パロディを適用させた。

18世紀に先立つパロディは、音楽における「引用」(例えばモーツァルトが鳥の声を模している一方で、メンデルスゾーンがモーツァルトを模している事を考えよ)と概ね同じような、効果、あるいは装飾とされていた事は、重視しなければならない。『マクフレクノー』で、ドライデンは完全にパロディによる嘲笑を意図した詩を創作した。『マクフレクノー』はウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』を模しているが、二流の戯曲家トマス・シャドウェルについての詩である。ウェルギリウスからのヒロイックな形式と英雄シャドウェルの貧弱な資質の暗黙の対照は、シャドウェルをより悪し様に見せている。アイネイアスの着物を身に纏う場面では、シャドウェルは全く馬鹿のように見える。

王政復古期から18世紀前半のその他のパロディは、低級あるいは愚劣な人物や慣習を笑いのめすために、真摯かつ崇高な作品の模倣を使用していた点で、ドライデンのパロディと似通っていた。この概ねサミュエル・バトラーと彼の詩『ヒューディブラス』に代表されるジャンルは、一般に疑似英雄詩と呼ばれていた。結合が意識される場合、非常に軽薄あるいは無益な主題を備えた、非常に真摯あるいは高尚な形式の対照はパロディとなる。この結合が意識されない場合は、漸降法(bathos)(『ロンギヌス』のアレクサンダー・ポープによるパロディ、『ペリ・ベイサス』に由来)となる。

ジョナサン・スウィフトは物語体の散文にパロディという言葉を用いた最初のイギリス作家であり、パロディという用語があらゆる軽侮の意図による文体模写を示すために作られたとするのは、おそらくはスウィフト自身によるパロディの定義への誤解による。『桶物語』の緒言の一つ「諸々の弁解」において、パロディとは暴露願望による作者の模倣であるとスウィフトは述べた。この発言は本質的に、パロディを茶番(バーレスク)や嘲弄とほとんど差異のないところへ持っていく。そしてスウィフトの言語に対する注意力から鑑みるに、スウィフトがこの事を承知していた可能性は充分にある。事実、スウィフトによるパロディの定義は、明白な説明や言葉の借用といった、ドライデンにより習慣的に想定されたパロディかもしれない。

ジョナサン・スウィフト以降、パロディという用語は専ら嘲笑的な言及、特に物語的な言及に使用された。

より古い語義では、ある作品の要素全体が作品の文脈から取り出され再使用される場合を、パロディと見做すことができる。パスティーシュはパロディの形式の一つで、ある作品に属するキャラクターや設定がユーモラスな手法で他の作品に使用される場合も、パロディと見做せる。

例えばフラン・オブライエンの小説『スウィム・トゥ・バーズにて』では、狂王スウィーニーフィン・マックール、妖精プーカカウボーイ達といった面々が、ダブリンの宿屋で一堂に会する。神話の登場人物やジャンル小説のキャラクターの混交と日常的な設定を組み合わるユーモアは、いかなる元作品のキャラクターや原作者により演出されたものではない。この確立、かつ確認されたキャラクター達の新しい設定での組み合わせは、架空の歴史的キャラクターを文脈から取り出し、隠喩的要素を提供するために用いるポストモダン主義者の習慣と同じものではない。しかしながらポストモダン的意味では、ブランク・パロディ(無表情なパロディ)は、作家が他の芸術作品から骨格形式を取り、新たな内容を備えた新たな文脈の中に配置する部分において共通である。

幾人かのジャンル映画理論家達は、任意の(特に映画作品の)ジャンル物の成長過程での、自然な発展としてパロディを認識している。例えば、古典演劇では慣習的なジャンル物と定義されている西部劇は、同じく慣習的に風刺文学とされているパロディの舞台を体験した。古典的な西部劇を観た経験から、観客は新しい西部劇へ幾つかの予想を抱いており、それらの予想が正反対に出た時、観客は笑い出したのである。

時おり、パロディの評判はパロディの元作品の評判より長く続く。顕著なケースとして、ヘンリー・フィールディング小説ジョセフ・アンドリュース』(1742年)、陰鬱な書簡体小説のパロディであるサミュエル・リチャードソンの『パミラ』(1740年)、『いい年なのに、ウィル親父』等に代表されるルイス・キャロルの多数のパロディ等は、いずれも元作品より広く知られている。

パロディの一部として、作家やジャンルが初期作品の要素を繰り返すことで創造性の喪失を示す、セルフパロディがある。

パロディは合衆国著作権法の下では二次創作と考えられるが、17 USC § 107のフェアユースにより保護されている。2001年に、第11巡回区連邦控訴裁判所は、サントラスト銀行とホートン・ミフリン社の裁判において、『風と共に去りぬ』と同じ物語を、スカーレット・オハラから解放された奴隷女の視点から描いたパロディ、“The Wind Done Gone”を出版したアリス・ランドールの権利を支持した。『オー・プリティ・ウーマン』の替え歌に関する、合衆国最高裁判所のキャンベル対アカフ-ローズ・ミュージック裁判も参照せよ。

音楽のパロディの幾つかは、“Mondegreen”として知られている聞き間違いによって占められ、幾つかはそうではない。

関連項目

パロディ作品

歴史的なパロディ作品

現代のパロディ作品

※翻訳中