朝比奈切通し

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朝比奈切通し西側(鎌倉側)の麓(2004年11月9日撮影) - 画面奥が金沢方面。画面右手、太刀洗川(たちあらいがわ)が滝のように流れ落ちている
朝比奈切通しの案内石碑(2004年11月9日撮影) - 上の画像の滝のすぐ左手にある
西側の中腹(2004年11月9日撮影) - 画面奥が金沢方面。川なのか道なのか判然としない中を歩く
頂上付近を東側(金沢側)から望む(2004年11月9日撮影)

朝比奈切通しあさひなきりどおし)は鎌倉七口のひとつで、1241年(仁治2年)4月から鎌倉幕府執権北条泰時が命じて作らせた切通しである。鎌倉市十二所から横浜市金沢区朝比奈町(旧鎌倉郡大字峠)を結ぶ。朝夷奈切通しとも書かれ、それ以前の玉舟和尚鎌倉記には峠坂とある。

(水運で房総半島などとつながる)鎌倉と六浦()間の重要な交通路として執権泰時自ら工事を行い、土石を運び着工に寄与したという[1]。その工事以前からこの道筋が存在したかは不明で、現在は公益財団法人鎌倉風致保存会が所有する十二所果樹園のある七曲りの地名のある沢筋から尾根道に上り熊野神社を通る道筋などのルートのバイパスとして整備されたとする説がある。江戸期の道造供養塔がみられるように新編相模国風土記稿などから数度の大規模な改修が確認でき、中世のやぐらの位置からも現在の路面が改修により掘り下げられたようになったことがうかがえる。

 峠の頂上付近(現在の鎌倉市横浜市の市境)の辺りが「大切通し」横浜開港資料館所蔵の着色写真の題材になっています。それより金沢寄りを「小切通し」と言い、1969年(昭和44年)6月5日に「朝比奈切通」として国の史跡に指定された。直線的に切り開かれていること、鎌倉側の雨が降ると河道になるような凝灰質泥岩(シルト)、砂岩が露出した路面部分が特徴的である。

 朝比奈三郎義秀和田義盛の三男)が一夜にして切り開いたという伝説から朝比奈の名前が付いたという。六浦瀬ケ崎に和田山の地名小字が残り、武相国境になっていた尾根道が十二所付近の尾根伝いにつながっていた。現在の横浜市と逗子市の境界線付近を通って横須賀市との境界に沿っていますが、池子住宅地区及び海軍補助施設国道16号と鉄道の切通し、宅地造成などで分断されています。さらに沼間(沼浜)や浦郷へ連なる。

 北側の国は現在の切通しをさらに下りた界地蔵とも花立地蔵(花立は各地にある地名で端に立つ、花を供えて拝むという意味の語源からや境界の地名となっている)の名もある鼻かけ地蔵(身代わり地蔵などの伝説とともに各地にある)付近から白山道の名もある道沿いに現在の朝比奈町の境界線を辿り、途中で釜利谷方面からの道と合流して相武隧道付近の尾根道につながる。(関東学院横浜横須賀道路朝比奈IC付近の造成により地形が大きく変化し分断されています)

 鎌倉周辺にある現在ハイキングコースといわれる道路には古代以来の生活道路の名残があり後世に鎌倉七口と名付けられた道以外にも多くの某道(里道)があったことがうかがえます。さらに和田氏の痕跡の可能性がある所として金沢区大道二丁目の大道小学校付近に小字和田があり和田の谷戸の名も伝わる。どちらも六浦を掌握する拠点であった可能性がある。

  切り通し途中にある熊野神社は、鎌倉の鬼門の守り神として建てられたといわれる。十二所神社と関連があると思われる。


 切通しに代わる道路として、1956年(昭和31年)切通しの北側に 神奈川県道204号金沢鎌倉線が開通して幹線道路から外れ、歩行者のみが通行できる道となっている。

脚注[編集]

  1. ^ 新人物往来社「北条氏系譜人名辞典」356項

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度19分36.50秒 東経139度35分22.30秒 / 北緯35.3268056度 東経139.5895278度 / 35.3268056; 139.5895278