アルビレックス新潟
| アルビレックス新潟 | |
|---|---|
| 原語表記 | アルビレックス新潟 |
| 愛称 | アルビ |
| クラブカラー | オレンジ、 ブルー[1] |
| 創設年 | 1955年 |
| 所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
| 所属ディビジョン | Jリーグ ディビジョン1 |
| ホームタウン | 新潟県新潟市、聖籠町[1] |
| ホームスタジアム | 東北電力ビッグスワンスタジアム[1] 新潟市陸上競技場[1] (現在トップチーム使用せず) |
| 収容人数 | 東北電ス=42,300 新潟陸=18,671 |
| 運営法人 | 株式会社アルビレックス新潟[1] |
| 代表者 | 田村貢[1] |
| 監督 | |
| 公式サイト | 公式サイト |
| ■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ | |
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 本社所在地 | 〒950-0954[1] 新潟市中央区美咲町2-1-10[1] |
| 設立 | 1996年4月[1] |
| 業種 | サービス業 |
| 事業内容 | サッカークラブの運営他 |
| 代表者 | 田村貢[1] |
| 資本金 | 7億1,275万円 |
| 売上高 | 22億1,600万円(2010年12月期) |
| 営業利益 | ▲1億2,500万円(2010年12月期) |
| 純利益 | 400万円(2010年12月期) |
| 決算期 | 12月期 |
| 主要株主 | 地元(新潟県内)中心に170企業・団体 |
| 関係する人物 | 池田弘 |
| 外部リンク | http://www.albirex.co.jp |
アルビレックス新潟(アルビレックスにいがた、Albirex Niigata)は、日本の新潟県新潟市および聖籠町にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
目次 |
[編集] 概要
1955年に新潟イレブンサッカークラブとして創部し[1]、新潟蹴友会(現グランセナ新潟FC)の一部の選手を迎えた1994年にアルビレオ新潟FCと改名[1]。1996年にはチーム母体を法人組織として株式会社アルビレオ新潟FCを設立[1]、プロサッカークラブとして活動を開始した。
しかし、1997年に商標の問題からクラブ名の変更を決定し、県民投票により結果現在のアルビレックス新潟に改名した。なお、この「アルビレックス」は二重星で当初のクラブ名であった「アルビレオ」とラテン語で王を意味する「レックス」を掛け合わせた造語である[1]。
ホームタウンは新潟県新潟市及び北蒲原郡聖籠町に設けている[1]。ホームスタジアムは、2003年まで新潟市陸上競技場と新潟スタジアム(現:東北電力ビッグスワンスタジアム)を併用していたが、2004年のJ1昇格以降は、ホームゲームはすべてビッグスワンで開催している(ただしJリーグへの登録上の本拠地は2箇所併記となっているが、2011年以後新潟市陸上競技場については、J1で開催される試合がないためJリーグファンズガイドでの掲載を省略されている)。
練習場はほとんど聖籠町にあるクラブハウスのピッチを使用しているが、新発田市五十公野運動公園陸上競技場、五十公野サンスポーツランド、新潟市陸上競技場を使用する場合もある。短期合宿は主に十日町市のベルナティオ(クロアチア・ピッチ)で行う事が多い。
マスコットキャラクターは、白鳥をモチーフとする「アルビくん」(2000年)・「スワンちゃん」(2002年)夫妻、三つ子の「アーくん」・「ルーちゃん」・「ビィくん」(2007年)。それぞれかわいらしさと力強さが表現されている[1]。
現在、新潟県内を中心に170の企業・団体から出資を受けているが、具体的な出資者名は明らかにされていない[2]。
[編集] 歴史
[編集] 前史
1995年、新潟明訓高校OBが中心となって創部。新潟県社会人サッカーリーグを舞台に県下の強豪チームの一つとして活躍し、天皇杯本大会、全国社会人大会など数々の全国大会に出場。1982年に文部大臣賞(社会体育優良スポーツクラブ)を受賞、1986年には北信越フットボールリーグに昇格した[1]。
1991年、新潟県サッカー協会は2002 FIFAワールドカップ開催地への立候補を決め、翌1992年に県議会で可決される[注 1]。ワールドカップ招致活動の一環としてプロサッカークラブの創設を図ることになり、短期間でのJリーグ入りを目指すため、チーム新設ではなく県内既存の強豪クラブである新潟イレブンを強化する方針が採られた。1994年、新潟県サッカー協会から強化指定を受け、新潟県外国人スポーツ指導員のフランス・ファン・ヴァルコムを監督に、若杉透を総監督に招聘。更に、新潟蹴友会(現:グランセナ新潟FC)のメンバーも加えた。しかし、2年続けて結果が伴わなかったことから運営組織を整備。1996年、チーム母体を法人組織として株式会社を設立し[1]、プロサッカークラブとして始動した。1996年・1997年の北信越リーグを連覇し、2年連続で全国地域リーグ決勝大会に参戦。1996年は予選リーグで敗退したが、1997年は決勝リーグに進出し、2勝1敗の2位でジャパンフットボールリーグへの昇格を決定した[1]。同年、日本サッカー協会及び日本プロサッカーリーグから1999年開幕のJリーグ ディビジョン2への参戦を承認された。
1998年より、元市原の永井良和を監督に招聘。JFLリーグ終了後には翌年からのJ2リーグ参戦に向け、26名の選手のうち17名との契約を打ち切り[注 2]、体制を一新することとなった。
[編集] 1999年 - 2003年(J2)
1999年は木澤正徳、秋葉忠宏、瀬戸春樹、吉原慎也らをJ経験者を補強し、カウンターベースのサッカーでJ2リーグ開幕から7連勝を記録。FC東京、川崎F、大分との4強争いを演じたが、川崎F・F東京が激戦を制してJリーグ ディビジョン1に昇格し、自身の昇格は成らなかった。2000年も前年の路線を継承して上位進出を狙うも、札幌、浦和、大分の3強の前に中位に沈み、最終順位も15勝5分20敗の7位となった。守備の崩壊に課題を残したが、一方でカウンターによる攻撃が嵌ったときは鳴尾直軌、鈴木慎吾ら攻撃的な選手の活躍が際立ったシーズンであった。
2001年より、反町康治を監督に招聘。元日本代表黒崎久志、氏原良二、寺川能人の前線の4人が活躍。シーズン途中にマルキーニョが加わるとスペクタクルなサッカーを展開し、上位6チームによる昇格争いを演じたが、昇格には届かず4位で終了した。
2002年は船越優蔵を軸とした堅実なサッカーを展開。寺川や安英学、シーズン途中に獲得したマルクスらの活躍により上位争いをに食い込んでいたが、リーグ終盤戦に船越がアキレス腱を断裂し長期離脱を強いられた影響もあり失速。リーグ戦も3位で終了し、また2年連続で昇格を逃したこともあり鈴木慎吾と寺川能人がJ1クラブに引き抜かれたが、元日本代表山口素弘、ファビーニョ、上野優作、森田浩史らを補強した2003年は前年同様堅実なサッカーを実践し、川崎F、広島と3年連続での昇格争いに突入。43節に広島が昇格を決めたが、最終節で川崎Fが敗れ、自身は大宮に勝利を収めたため、J1昇格・J2優勝が決定した。シーズン終了後、2003Jリーグアウォーズにて『Join賞』(チェアマン特別賞)及び新潟県知事表彰を受賞した。
[編集] 2004年 - (J1)
[編集] 2004年
2年連続でJ2得点王を獲得しJ1昇格に貢献したマルクスや、神田勝夫らが退団したが、J1昇格に貢献したメンバーの多くがチームに残留。補強として、マルクスに代わる得点源としてエジミウソン、C大阪から喜多靖、湘南から梅山修、広島から桑原裕義らを獲得。また、他クラブに移籍していた鈴木慎吾と寺川能人が復帰した。
シーズン前はマルクスが抜けた影響が懸念されたが、エジミウソンが直ぐにフィットし、ファビーニョ、鈴木慎吾らと並び活躍。初のJ1リーグ1stステージを3勝5分け7敗の14位で終えた。中断期間にはアンデルソンが退団したが、代役としてオゼアスを補強。2ndステージでは中越地震の被害の影響を受けながらも、エジミウソン、ファビーニョ、オゼアスから成るブラジル人3トップが嵌り、2ndステージ第6節広島戦から第9節の鹿島戦まで4連勝を記録。一時は順位を3位に上げるなど躍進し、最終順位は7勝2分6敗の7位、年間順位は10位となり、J1残留を達成した。また、J1リーグ戦の年間観客動員数新記録を樹立(565,336人)し、その戦いは地元を大いに盛り上げた。
12月4日、新潟スタジアムで「新潟県中越地震復興支援チャリティーマッチ がんばれ新潟!」を開催し、ジーコジャパンドリームチームと対戦。0-0で引き分けた。また、Jリーグアウォーズにて、2年連続で『Join賞』(チェアマン特別賞)を受賞した。
[編集] 2005年
秋葉忠宏、安英学、栗原圭介、オゼアスらが退団したが、元ブラジル代表のアンデルソン・リマ、萩村滋則、海本慶治、岡山哲也ら即戦力を補強。また、年代別日本代表の河原和寿ら新卒選手も加入した。シーズンを通じて厳しい戦いが続いたものの、桑原裕義や萩村らベテラン選手が後方から守備で支援し、エジミウソン、ファビーニョ、鈴木慎吾ら攻撃陣が活躍。8月には山口素弘が横浜FCに移籍したものの、アンデルソン・リマのフリーキックやシーズン途中に磐田から期限付き移籍加入した菊地直哉のプレーは観衆に強烈な印象を残し、11勝9分け14敗の12位でリーグ戦を終えた。
シーズン終了後、反町康治監督が勇退。また、若手育成を図る観点から、木寺浩一、丸山良明、上野優作、桑原裕義、萩村滋則、アンデルソン・リマらJ1昇格及び残留に貢献したベテラン選手を中心に放出し、体制の刷新を断行することとなった。
[編集] 2006年
- チームスローガン:「新生」
新監督に、元山形監督の鈴木淳を招聘。菊地直哉は磐田に復帰したが、柏から年代別日本代表選出経験を持つ永田充と矢野貴章、仙台から中原貴之(期限付き移籍)、シルビーニョを獲得。また、中野洋司や地元出身の田中亜土夢が新加入した。鈴木新体制は若手の育成を図りつつ前年までのカウンター主体のサッカーから組織的なサッカーの実践を目指したが、リーグ開幕の川崎F戦では6-0と大敗。その後も北野貴之や千葉和彦ら若手選手が出場機会を掴みつつもシーズンを通して不安定な試合が多かったが、12勝6分け16敗の14位でJ1残留を果たした。
[編集] 2007年
- チームスローガン:「闘え!新潟」
ファビーニョ、鈴木健太郎、岡山哲也(新潟シンガポール)、喜多靖らが退団。期限付き移籍加入していた中原貴之は仙台に復帰した。
鈴木体制2年目を迎えた2007年は新卒選手を獲得せずに即戦力の補強に動き、千葉から坂本將貴、福岡から千代反田充、大宮からディビッドソン純マーカスを完全移籍で、鹿島から深井正樹を期限付き移籍で獲得した。また、J1リーグ戦開幕直後にADサンカエターノからマルシオ・リシャルデスを期限付き移籍で獲得し、4月には2006年はFC東京でプレーしていた松尾直人が加入した。
大型補強を実行して臨んだJ1リーグ序盤戦こそ開幕ダッシュに失敗したものの、マルシオ・リシャルデスが直ぐにチームに馴染み、攻守にバランスの取れたアグレッシブなパスサッカーを実践し、エジミウソン、マルシオ・リシャルデスらが中心になって得点を量産。左右SBを軸としたサイドアタックを展開し、勝ち星を積み重ねていった。リーグ後半戦では鈴木慎吾の移籍や主力の故障により選手層の薄さが露呈し、個人技に頼った攻撃が目立ち始めて4連敗を喫するなど失速したが、最終的には15勝6分13敗とJ1昇格後初めて勝ち越し、クラブ史上最高の6位でリーグ戦を終えた。
[編集] 2008年
大分に期限付き移籍していた鈴木慎吾は同クラブに、三田光は湘南に、エジミウソンが浦和に、坂本將貴は千葉に完全移籍、深井正樹は鹿島から名古屋に期限付き移籍し、シルビーニョは契約満了により退団した。
新戦力として、イパチンガFCからアレッサンドロ、CAブラガンチーノからダヴィを期限付き移籍で獲得。前年東京Vから加入後JAPANサッカーカレッジに期限付き移籍していた黒河貴矢が復帰した。また、早くから新卒選手の獲得に乗り出し、新潟ユースから地元出身の長谷部彩翔、大野和成が昇格、三菱養和SCユースから木暮郁哉、星稜高校から鈴木大輔、成立学園高校からマイケル・ジェームズ、愛媛県立小松高校から川又堅碁が新加入し、多くの年代別日本代表選出経験を持つ新卒選手が入団した。
リーグ戦では、相次ぐ選手の故障により前年から露呈し始めていた選手層の薄さが深刻になり、多くの試合でルーキーがベンチ入りし、特に第30節浦和戦では18名の選手を登録できないといった厳しい戦いが続いた。また司令塔シルビーニョが抜けた穴は小さくなく、中盤から前線にかけてボールが収まらずにチームの形であるサイド攻撃が機能しなくなり、得点力不足に悩まされた[5]。その結果、最終節までJ2降格の可能性を残す厳しいリーグ戦となり、残留は果たしたものの、11勝9分14敗の13位と低迷。全体を通して貧弱な攻撃力と選手層の薄さを守備陣の踏ん張りや助っ人ブラジル人のアレッサンドロの得点力と新司令塔マルシオ・リシャルデスの攻守両面での貢献[6]により勝ち点を稼ぐシーズンとなった。
[編集] 2009年
野澤洋輔と寺川能人は湘南に完全移籍、河原和寿は栃木SCに、長谷部彩翔とマイケル・ジェームズはJAPANサッカーカレッジに期限付き移籍し、海本慶治は現役を引退、アレッサンドロはイパチンガFCに復帰した。
一方、前年の主力の多くが残留し、補強として横浜FMから大島秀夫、横浜FCから曺永哲、JAPANサッカーカレッジから明堂和也を完全移籍で、大宮からペドロ・ジュニオール、ジョインヴィレECからジウトンを期限付き移籍で獲得した。また、流通経済大学から三門雄大、新潟経営大学から東口順昭、新潟ユースから酒井高徳、G大阪ユースからブルーノ・カスタニェイラが新加入し、ACL出場権獲得に向けて戦力の大幅な上積みに成功した。
前線の豊富なアタッカーの特徴を生かすため、鈴木体制発足以来の基本布陣だった4-4-2システムから4-3-3システムにベースチェンジしたのが当たり、リーグ戦では序盤から開幕ダッシュに成功。開幕第1節FC東京戦・第2節鹿島戦で2連勝を果たし、開幕ダッシュに成功。J1昇格後初めて首位に立つなど躍進し、リーグ前半戦はペドロ・ジュニオールの得点力を武器に圧倒的な上位争いを展開した。しかし、8月にペドロがG大阪に電撃移籍すると失速し、最終結果は13勝11分10敗の8位でとなったが、シーズンを通じて守備が安定し、失点31はこの年J1リーグ3連覇を果たした鹿島に次いで2番目に少ないものであった。また、第89回天皇杯では初のベスト8入りを達成した。
[編集] 2010年
- クラブスローガン:「SMILE」
4年間指揮を執った鈴木淳監督が契約満了により退任。選手は、北野貴之は大宮に、松尾直人は湘南に、松下年宏はFC東京に、千代反田充は名古屋に、ディビッドソン純マーカスはノースカロライナ・レイルホークス(アメリカ)に完全移籍、川又堅碁はカタンドゥベンセ(ブラジル・6月復帰)に、マイケル・ジェームズはツエーゲン金沢(JFL)に期限付き移籍し、ジウトン、エヴェルトン・サントスは期限付き移籍期間満了により退団した。
新監督には、鈴木体制の下でヘッドコーチを務めていた黒崎久志が就任。新戦力として、大宮から小林慶行と高木貴弘、千葉からミシェウを完全移籍で、札幌から西大伍、コリンチャンス・アラゴアノからファグネルを期限付き移籍で獲得し、新潟ユースから奥山武宰士、三菱養和SCユースから加藤大が新加入した。また、河原和寿、ブルーノ・カスタニェイラが期限付き移籍から復帰した。シーズン途中には、パラナ・クルーベから岩崎陽平を完全移籍で、アヴァイFCからジョン・パウロを期限付き移籍で獲得した。
黒崎新体制の下で迎えたリーグ序盤戦はメンバーが大きく入れ替わった影響もあり第9節神戸戦まで初勝利を挙げることができなかったが、第12節山形戦で2004年以来6シーズンぶりに4連勝を記録し、第17節京都戦でクラブ新記録となる連続11試合無敗記録を樹立。また、5月10日に矢野貴章が2010 FIFAワールドカップ日本代表に選出され、新潟に所属する選手として初のW杯代表選手が誕生した。W杯終了後も上位争いに食い込んでいたが、8月に矢野がSCフライブルク(ドイツ・ブンデスリーガ)に移籍、更にマルシオ・リシャルデスとミシェウが故障、離脱するとリーグ戦は両者が復帰した第26節名古屋戦まで白星を挙げることができず、リーグ後半戦は主力選手の動向がチームの成績に影響する不安定な戦いが続き、12勝13分9敗の9位でリーグ戦を終えた。
12月6日、新潟の選手として初めてM・リシャルデスがJリーグベストイレブンに選出された。
[編集] 2011年
- チームスローガン:「Aggressive&Speed」
- クラブスローガン:「SMILE」
永田充とマルシオ・リシャルデスは浦和に、中野洋司は横浜FCに、明堂和也はパタヤ・ユナイテッドFC(タイ)に、西大伍は札幌から鹿島に完全移籍、河原和寿は栃木SCに、奥山武宰士は新潟シンガポールに期限付き移籍し、ファグネルは期限付き移籍期間満了により退団した。
新戦力として、大分から菊地直哉、柏から石川直樹、札幌から藤田征也を完全移籍で、アナーポリスFCからブルーノ・ロペスを期限付き移籍で獲得し、新潟ユースから渡辺泰広、流通経済大学付属柏高校から増田繁人、帝京長岡高校から酒井宣福が新加入した。また、金沢に期限付き移籍していた長谷部彩翔が復帰した。シーズン途中には、スポルティボ・ルケーニョ(パラグアイ)から小澤英明、柏から村上佑介、ダヌービオFC(ウルグアイ)からアンデルソンを完全移籍で、PSTCからハファエルを期限付き移籍で獲得した。
リーグ開幕戦では福岡に3-0で勝利し2年ぶりの開幕戦勝利を飾ったが、3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の影響を受け、J1リーグ第2節から第6節が開催延期となった。これを受け、チームは一時活動を中止。街頭募金活動などを行い、カターレ富山とのチャリティマッチを開催した。
また、東口順昭が3月29日に行われた「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」の日本代表チームに選出され、短時間ながらも試合出場を果たした。一方、4月4日に東日本大震災に対する不安から再来日を見送っていたジョン・パウロのレンタル契約を解除した。
開幕戦を含めたリーグ序盤戦こそ5試合負けなしと好発進を切ったが、シーズンを通して好不調の波が激しく、5月から6月にかけて連続9試合未勝利記録を樹立してしまうなど低迷。一方で夏場には3連勝を記録したが、得点力の向上の要として獲得したアンデルソンがチームにフィットするのに時間がかかったことも影響して、リーグ後半戦も7試合未勝利となり、2度目のスランプに陥った。また、8月末に東口順昭が負傷離脱したため急きょGKの緊急補強を断行し、新潟ユース所属の2選手を2種登録選手に指定。更に清水から武田洋平を期限付き移籍で獲得した。選手登録の期間が終了した後の緊急補強であったが、GKの負傷による例外として承認され、代わりに東口の選手登録を9月9日付で抹消した[7][8]。第27節磐田戦消化時点で15位に沈んでいた甲府に勝ち点差「2」まで迫られたが、川崎に対して鬼門の等々力陸上競技場でJ1昇格後初勝利を収めるなど2度目の3連勝を記録し浮上。第32節G大阪戦でJ1残留を確定し、最終的には10勝9分15敗の14位でリーグ戦を終えた。
ナビスコカップは、準々決勝まで進出。過去最高のベスト8入りを果たした。一方、天皇杯は2回戦で富山新庄クラブ(北信越リーグ)に5-0とJ1昇格後最多得点で大勝したが、3回戦で松本山雅FC(JFL)に敗退した。
[編集] 2012年
- チームスローガン :「闘志 SPIRIT OF NIIGATA」
- クラブスローガン :「SMILE」
河原和寿は栃木SCに、千葉和彦は広島に、長谷部彩翔と岩崎陽平はFCガンジュ岩手(東北社会人サッカーリーグ)に、大島秀夫は札幌に、曺永哲は大宮に完全移籍、川又堅碁とアンデルソンは岡山に、大野和成は湘南に、マイケル・ジェームズはV・ファーレン長崎(JFL)に、酒井高徳はVfBシュツットガルト(ドイツ)に、加藤大は愛媛FCに期限付き移籍し、武田洋平、ハファエルは期限付き移籍期間満了により退団した。
黒崎久志監督は続投。新戦力として、磐田から大井健太郎、鹿島から小谷野顕治、SCフライブルクから矢野貴章を完全移籍で、G大阪から平井将生、京都から中村太亮、パウリスタFCからアラン・ミネイロを期限付き移籍で獲得し、新潟ユースから西村竜馬、桐生第一高校から鈴木武蔵、崇実大学から金永根、慶熙大学から金珍洙が新加入した。また、ブルーノ・カスタニェイラが期限付き移籍から復帰した。
[編集] 成績
詳細は「アルビレックス新潟の年度別成績一覧」を参照
[編集] タイトル
[編集] リーグ戦
- Jリーグ ディビジョン2:1回
- 北信越フットボールリーグ:3回
- 1986年、1996年、1997年
[編集] その他受賞
- 2003年 Jリーグ・アウォーズ join賞 (チェアマン特別賞)
- 2004年 Jリーグ・アウォーズ join賞 (チェアマン特別賞)
[編集] 個人別
- 2002年 2002 J2リーグ得点王 - マルクス (19得点)
- 2003年 2003 J2リーグ得点王 - マルクス (32得点)
- 2010年 Jリーグベストイレブン - マルシオ・リシャルデス
[編集] 個人記録
2010年第1節終了時。○は在籍中の選手。
- 最多試合出場
- 256試合
- 寺川能人(J1 136試合、J2 120試合)2000-02、2004-2008
- 最年少試合出場
- 17歳11ヶ月21日
- 37歳1ヶ月6日※J2
- 36歳5ヶ月16日※J1
- 2001年、44試合※J2
- 2003年、44試合※J2
- 野澤洋輔、丸山良明
- 2007、34試合※J1
- 北野貴之
- 通算最多得点
- 通算62得点
- エジミウソン(J1 62得点、J2 0得点)2004~2007
- 最多連続試合出場
- 99試合(J2時代を含む)
- 野澤洋輔 2002年3月30日 J2・第6節 モンテディオ山形戦-2004年8月14日 J1・2nd第1節 東京ヴェルディ1969戦
- なお、2002-03シーズンに京都パープルサンガへレンタル移籍していた鈴木慎吾は、京都在籍時を含めると2001年11月6日 J2・第42節 山形戦から2005年4月28日 J1・第8節 清水エスパルス戦まで、J1、J2リーグに101試合連続出場している。
- 最多連続得点試合
- 5試合
- エジミウソン 2005年8月20日 J1・第19節 ガンバ大阪戦-2005年9月10日 J1・第23節 セレッソ大阪戦
- エジミウソン 2007年10月8日 J1・第28節 大宮アルディージャ戦-2007年11月18日 J1・第32節 横浜FC戦
- 鈴木慎吾 1999年8月1日 J2・第19節 FC東京戦-1999年8月29日 J2・第23節 大宮アルディージャ戦
- シーズン最多得点
- 19得点※J1
- エジミウソン2007年
- 32得点※J2
- マルクス2003年
- 最年少得点
- 18歳6ヶ月6日
- 36歳5ヶ月4日※J2
- 35歳9ヶ月26日※J1
[編集] チーム記録
- ハットトリック
- 1999年 1999 J2・第15節 vsサガン鳥栖 @新潟市陸 - 比嘉リカルド (3得点)
- 2000年 2000 J2・第18節 vs浦和レッズ @新潟市陸 - 鳴尾直軌 (3得点)
- 2000年 2000 J2・第36節 vs浦和レッズ @新潟市陸 - 鳴尾直軌 (3得点)
- 2000年 2000/01 天皇杯・1回戦 vsテイヘンズFC @金沢サ - ナシメント (3得点)
- 2003年 2003 J2・第12節 vs大宮アルディージャ @新潟市陸 - マルクス (4得点)
- 2003年 2003 J2・第26節 vsコンサドーレ札幌 @新潟ス - マルクス (4得点)
- 2003年 2003 J2・第33節 vs横浜FC @福島 - マルクス (4得点)
- 2003年 2003/04 天皇杯・1回戦 vsヴォルカ鹿児島 @鴨池 - 森田浩史 (3得点)
- 2004年 2005 ナビスコ杯・予選第2節 vsガンバ大阪 @新潟ス - エジミウソン (3得点)
- 2005年 2005 J1・第31節 vsジュビロ磐田 @ヤマハ - エジミウソン (3得点)
- 2009年 2009 J1・第6節 vsサンフレッチェ広島 @東北電ス - ペドロ・ジュニオール (3得点)
- 2010年 2010 J1・第14節 vsベガルタ仙台 @ユアスタ - マルシオ・リシャルデス (3得点)
- 被ハットトリック
- 2004年 2004 J1・1st-第9節 vs浦和レッズ @新潟ス - エメルソン (3得点)
- 2004年 2004 J1・2nd-第12節 vsガンバ大阪 @万博 - 大黒将志 (3得点)
- 2006年 2006 J1・第1節 vs川崎フロンターレ @等々力 - 我那覇和樹 (3得点)
- 2006年 2006 J1・第19節 vs浦和レッズ @埼玉ス - ワシントン (3得点)
最多得点・最多失点 (1999年~2009年)
- 1試合最多得点
- J1リーグ 4得点 - (試合多数)
- J2リーグ 7得点 - 2003年9月13日 第33節 vs横浜FC @福島 7-1
- ナビスコ杯 4得点 - 2004年4月29日 予選リーグ第2節 vsガンバ大阪 @新潟ス 4-4
- 天皇杯 9得点 - 2002年12月1日 1回戦 vs紀北蹴球団 @紀三井寺 9-0
- 1試合最多失点
- J1リーグ 7失点 - 2005年8月24日 第20節 vs鹿島アントラーズ @鹿島 2-7
- 2006年9月9日 第22節 vsジュビロ磐田 @ヤマハ 0-7 - J2リーグ 5失点 - 2000年4月16日 第7節 vs浦和レッズ @駒場 1-5
- ナビスコ杯 5失点 - 2009年6月7日 予選リーグ第6節 vsサンフレッチェ広島 @広島ビ 1-5
- 天皇杯 4失点 - 2003年12月20日 4回戦 vsジュビロ磐田 @ヤマハ 0-4
[編集] エピソード・トピックス
[編集] サポーター
浦和レッドダイヤモンズに次いでサポーターの数も非常に多く、東北電力ビッグスワンスタジアムではアウェイの一角を除いてアルビレックスサポーターで占める。2003年度はJ2所属ながらJ1、J2を通して最多の観客動員数約66万人を記録した。2004年度は、浦和がJ2所属だった2000年(この年トップは鹿島アントラーズの約26万人)を除き1996年度から守り続けていたJ1年間観客動員トップの座を初めて奪取する約56万5000人(1試合あたり約37,700人)の動員を記録した。2005年には年間68万人までに伸び、2003年から3年連続でJリーグ(J1・J2含む)1位の観客動員数を記録した。
- 応援スタイル
基本的にホーム側ゴール裏に集まったサポーターが応援歌を歌うスタイルで、ブーイング等はこのエリアから起こる。ただし、応援歌を歌って選手を鼓舞するスタイルなので相手選手のラフプレーに対する抗議のためのブーイングは起こるものの、プレーを妨害する意図でのブーイングは行われない。
ゴール裏以外の観客は応援歌を歌うなどの応援は行わないが新潟の選手のプレーに自然と大歓声と拍手が起き、ゴール裏の応援に手拍子で合わせて選手を鼓舞する。しかし、サッカーをよく知らない観客も多いため何気ないプレーでも歓声が上がることがある。
[編集] 異競技間交流
Jリーグ百年構想による総合型地域スポーツクラブを目指しており、日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)にも新潟アルビレックスBBとして参戦。また会場の応援を彩るチアリーディングチームも運営している他、2004年にはスキー、スノーボードの「チームアルビレックス新潟」[1]、2005年には陸上競技の「新潟アルビレックスランニングクラブ」を結成[1]。さらに、野球独立リーグ・ベースボール・チャレンジ・リーグ所属の「新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ」、モータースポーツの「アルビレックスレーシングチーム」も設立[1]。2011年4月に新潟アルビレックスBBラビッツ(バスケットボール女子日本リーグ機構)が発足した。
なお、各「アルビレックス」はイメージカラーを共有しているが、各競技チームの運営会社は全く別個の企業であり、各運営会社間に直接の資本関係等はない。
サッカーのアルビレックス新潟としては、2004年には同チームのサテライトと関連団体のJAPANサッカーカレッジ(JSC)に所属する選手等でシンガポールのSリーグに参戦している(「アルビレックス新潟シンガポール」=通称:アルビレックス新潟・S。運営は別会社)。また、女子サッカーチーム「アルビレックス新潟レディース」は、2007年度シーズンから日本女子サッカーリーグ(なでしこリーグ)に参戦している。
[編集] 無料チケット
無料観戦チケット(以下、無料券)を配布するにあたり、無作為に大量の無料券を広範囲に配布し観客を集めようとする方式ではなく、チームフロントは先ず新潟の各地区の区長に伺いを立て、無料券を置いても良いという長の了承を得てから配布を行っていた。開始時は限られた地区だけだったが、他地区の住民から「あの地区の人達は無料で観戦してるのに、何故うちの地区に無料券が無いのか」とチームフロントに問い合わせがくるが、上記の理由により了承が得られなかった地区への配布は行わなかった。しかし無料券の恩恵を得られている住民がサッカーで騒ぐに連れて配布地区と未配布地区にサッカーに対する熱の幅が出始め、無料券を求める未配布地区の住民が不平を訴え、配布地区は無料券の争奪となる。一旦地区長から断られた手前、チームフロントの判断だけでは直接住民の要求に応じられなかった上に、2002年W杯開催に向けての機運と共にチームの戦績が上がり、ホームスタジアムで連勝しだすと無料券争奪はさらに苛烈なものとなる。自チームの試合が観たくとも無料券が手に入らなかった者は当然ながら自腹での観戦となり、一度、無料券の配布を断った未配布地区の区長は住民の突き上げと不平で、無料券を配分してくれるようチームフロントに願い出るまでになる。安定した観客数とリピーターの確保の成功と比例して、数に限りがあり入手の成否がある無料券より確実に観戦が出来る観戦券購入者も増えるようになる。これらの経緯を経てJ2屈指の観客動員を誇るクラブチームへと成長し、現在でも浦和レッドダイヤモンズに次いでJリーグ2位の観客動員を記録している。
[編集] アルビレックス成功の余波
アルビレックス新潟の成功は、プロ野球を含む日本スポーツ界全体に衝撃を与えた。人口が100万人に満たない中堅地方都市でもプロスポーツが成り立つ事と、理念のみが先行していた地域密着の商業的正しさ、日本での有効性が証明された為である。また、大都市圏程の人口を持たない地方都市のスポーツ市場が従来予想されていたより大きく、地方都市市民が持つローカリズム感情が非常に大きなエネルギーを持っている事を明らかにした事も、他の多くのスポーツや自治体に影響を与える事となった。
[編集] 新潟県中越地震
新潟県中越地震の影響(余震及びスタジアム駐車場が自衛隊の前線基地となった)により、2004年10月30日に予定されていた新潟スタジアムでの2004年2ndステージ第11節(柏戦)は、11月10日に国立霞ヶ丘陸上競技場で代替開催された。また、11月13日に新潟スタジアムで開催が予定されていた天皇杯4回戦(湘南戦)は同日に平塚競技場で開催された。それでもサポーターは新潟県内から多数現地に駆け付け「地震なんかにゃ負けねぇよ!頑張ろうぜ!新潟人」と手製の横断幕を持って応援した。地震直後の試合となった柏戦では試合前に会場全体で黙とうが捧げられた。
[編集] その他
- 他のチームのJ1昇格やJ2降格により、東軍か西軍か変わりやすい地域のためJリーグオールスターサッカーでは2004年は東軍のチームになったが、2005年は西軍のチームになった。2006年は東軍であった柏、東京VのJ2降格(神戸は西軍)、アルビレックスより西にある京都、福岡のJ1昇格(甲府は東軍)に伴い、再び東軍のチームとなった。2007年は横浜FCと柏が昇格したために、またしても西軍のチームとなった。
- なお、JFLオールスターには東軍で出場し、JFL・Jリーグ通じて出場したオールスターでの敗戦が無い。
- 2007年途中にはFW矢野貴章がクラブ初のサッカー日本代表に選出され、2007年3月24日に行われたペルー戦で後半途中から出場し初キャップを記録。2007年9月11日に行われた国際親善試合スイス戦ではロスタイムに勝ち越しとなる貴重なA代表初ゴールを上げた。
[編集] 試合に関するエピソード・トピックス
[編集] 注目度の高い試合
- 甲府との対戦を川中島ダービーと呼ぶことがある。
- これは戦国時代の上杉謙信と武田信玄の戦を再現したもので、両チームともそれにちなんだイベントを試合前に行う。狭義では長野県(アルウィン)で行われる、甲府との対戦を指す。 (1998年-2003年、2006年-2007年)
- アルビレックス新潟 vs モンテディオ山形
詳細は「天地人ダービー」を参照
- アルビレックス新潟 vs 浦和レッドダイヤモンズ
- 普段は客席の大半が新潟サポーターで占められる新潟スタジアムだが浦和戦は例外。浦和のサポーターが片方のゴールスタンド全てを占めるため通常とは違う雰囲気の試合となる。J2時代の大量得点での勝利や、終了間際に同点に追いつくなど印象に残る試合が多い。 (2000年、2004年-)また、ほぼ毎年のように新潟の選手が浦和に引き抜かれている。
- アルビレックス新潟 vs ガンバ大阪
- 対戦成績は五分ではあるものの、新潟スタジアムでの試合を苦手としているG大阪との対戦。土砂降りの雨など悪天候での試合になることが多く、その中での勝利や2008年J1最終節のような劇的な試合展開となることが多い。 (2004年-)
- アルビレックス新潟 vs 川崎フロンターレ
- J2で顔を合わせて以来、ホームで負けたことが無い川崎との対戦。 (1998年-1999年、2001年-2003年、2005年-)
2年連続で芝生用のスプリンクラーが誤作動し、川崎サポーターに大量の水が掛かる事件があり、球団は公式に謝罪している。(2009年-2010年)当該の川崎サポーターには、川崎のレプリカユニフォームが新潟の負担により、プレゼントされることになった。
[編集] 試合関連記録
- 最多連続無敗試合
- 11試合
- 2010年4月17日 J1・第7節 名古屋戦-2010年8月7日 J1・第17節 京都戦
- 最多連勝
- J1 4連勝
- 2004年9月23日 J1 2ndステージ・ 第6節 広島戦-2004年10月17日 J1 2ndステージ・第9節 鹿島戦
- 2010年5月1日 J1・第9節 神戸戦-2010年5月15日 J1・第12節 山形戦
- 最多連敗
[編集] 観客動員記録
- 最多観客動員試合
- 最少観客動員試合
- 通算観客動員
- 2005年9月10日 J1 対C大阪 J1通算観客動員 100万人 (26試合目での達成)
- 2007年4月14日 J1 対G大阪 J1通算観客動員 200万人
- 2007年11月10日 J1 対FC東京 J1通算観客動員 250万人 (65試合目での達成)
- 2008年10月4日 J1 対横浜FM J1通算観客動員 300万人
- 年度別観客動員記録
- 略記について
- 新潟ス:新潟スタジアム、東北電ス:東北電力ビッグスワンスタジアム、新潟陸:新潟市陸上競技場、国立:国立霞ヶ丘陸上競技場
| 所属 | 年度 | 試合数 | 合計 | 平均 | 最多 | 最少 | 試合会場 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| JFL | 1998 | - | 40,447 | 2,696 | - | - | - | - |
| J2 | 1999 | 18 | 75,798 | 4,211 | 9,327 | 2,045 | - | J2加盟 |
| 2000 | 20 | 80,139 | 4,007 | 11,662 | 1,786 | - | - | |
| 2001 | 22 | 366,500 | 16,659 | 42,011 | 2,373 | - | 新潟スタジアム完成 | |
| 2002 | 22 | 472,507 | 21,478 | 42,211 | 9,125 | 新潟ス11、新潟陸11 | - | |
| 2003 | 22 | 667,447 | 30,339 | 42,223 | 8,644 | 新潟ス15、新潟陸7 | - | |
| J1 | 2004 | 15 | 565,336 | 37,689 | 41,955 | 11,150 | 新潟ス14、国立1 | J1昇格 |
| 2005 | 17 | 681,945 | 40,114 | 41,988 | 35,337 | 新潟ス17 | J1最多観客動員数 (当時) | |
| 2006 | 17 | 658,050 | 38,709 | 42,056 | 33,993 | 新潟ス17 | - | |
| 2007 | 17 | 650,698 | 38,276 | 42,015 | 31,500 | 東北電ス17 | - | |
| 2008 | 17 | 586,325 | 34,490 | 40,359 | 22,740 | 東北電ス17 | - | |
| 2009 | 17 | 568,582 | 33,446 | 40,268 | 24,392 | 東北電ス17 | - | |
| 2010 | 17 | 519,221 | 30,542 | 41,002 | 19,152 | 東北電ス17 | - | |
| 2011 | 17 | - | - | - | - | 東北電ス17 | - | |
| 計 | 5,892,548 | JFLは加算しない | ||||||
[編集] ユニフォーム
|
||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||
[編集] チームカラー
- オレンジ、 青[1]、 白
オレンジは日本海に沈む夕日、青はチーム名の由来となったはくちょう座の「アルビレオ」および日本海と信濃川、白は白鳥と雪から採られた。
[編集] ユニフォームデザインの変遷
- 1996
- シャツ、パンツともにオレンジ、襟が青色のデザイン。シャツには薄いオレンジで星印が描かれた。FP 2ndはシャツ、パンツともに青。
- 1997-1998
- シャツはオレンジ、パンツが青、襟が白のデザイン。シャツには薄いオレンジでエンブレムが描かれた。FP 2ndはシャツ、パンツともに白に変更。
- 1999-2002
- 1997-1998と同じくパンツは青のままだが、シャツに5本の太い青ストライプが加わった。うち2001-02はシャツの肩とパンツのサイドが、カッパマークが多数並ぶラインとなった。
- 2003-2004
- サプライヤーがアディダスに変更。シャツはオレンジで、襟はなく肩に3本線、わき腹部分には青色のカッティングが加えられた。パンツは青。2ndは上下とも白。
- 2005-2006
- 2003-2004と同じようにシャツがオレンジ、パンツが青色のデザイン。シャツの肩から脇にかけて白いラインが追加された。2ndは小さな襟がつく。
- 2007
- 1stパンツがオレンジに変更。市内を流れる信濃川、阿賀野川を表す青い波線が両脇に入る。サポーターズイヤー12周年記念限定モデル。
- 2008-2009
- 1stはパンツ、シャツ共にオレンジ。J2時代のストライプが復活したが、濃いオレンジのシャドウ型ストライプで、アディダスのため5本ではなく極太の3本となった。2ndは白にグレーのピンストライプ。
- 2010-
- 1stユニフォームはシャツ・パンツ共にオレンジで、左肩と右腰に青いアクセントが大きく入った印象的なデザインとなり、2ndユニフォームはシャツは白、パンツは青で、同じく青いアクセントが入る。ストライプは廃止された。
[編集] ユニフォームスポンサー
| 掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 胸 | 亀田製菓 | 亀田製菓 | 1999年 - | 1996年 - 1998年までは背中 |
| 背中 | コメリ | コメリ | 2011年 - | |
| 袖 | 全国農業協同組合連合会 新潟県本部 |
新潟米 | 2004年 - | |
| パンツ | 新潟日報社 | 新潟日報 | 2003年 - |
[編集] ユニフォームサプライの遍歴
[編集] 歴代ユニフォームスポンサー年表
| 年度 | 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | サプライヤー |
| 1996 | CORONA | 蔦屋書店 | 亀田製菓 | – | Mizuno |
| 1997 | |||||
| 1998 | DIREC TV | ||||
| 1999 | 亀田製菓 | 2002W杯新潟県 開催準備委員会 |
蔦屋書店 | Kappa | |
| 2000 | B's INTERNATIONAL | ||||
| 2001 | 2002W杯新潟県 推進委員会 |
B's INT'L | |||
| 2002 | |||||
| 2003 | 朱鷺メッセ | styles | 新潟日報 | adidas | |
| 2004 | 新潟米 | ||||
| 2005 | MSN | ||||
| 2006 | |||||
| 2007 | |||||
| 2008 | TSUTAYA | ||||
| 2009 | –/XLARGE/B's INT'L | ||||
| 2010 | XLARGE/B's INT'L | ||||
| 2011 | コメリ | ||||
| 2012 |
[編集] その他
[編集] チーム名変遷
- 1955 -1994.11 新潟イレブンサッカークラブ
- 1994.11-1997.3 アルビレオ新潟FC *1996.3 法人組織として(株)アルビレオ新潟を設立・プロ化
- 1997.4 - アルビレックス新潟
[編集] 歴代会長・社長
- 会長
- 2005.3- 池田弘
- 社長
[編集] 場内アナウンス
- 新潟お笑い集団NAMARA
- 森下英矢
- 中村博和
- 大野まさや
[編集] 下部組織
下部組織出身選手については「アルビレックス新潟の選手一覧#下部組織出身者」を参照
- アルビレックス新潟ユース
1998年4月創設・活動開始。本隊の他に過去には、提携チームとして中条ユース(~2004年度)があった。
- 全国大会成績
-
- -
- アルビレックス新潟ジュニアユース
2004年4月創設・活動開始。2004年4月、提携チームであった「アルビレックス新潟新潟ジュニアユース」を解消して新たに直属チームとして編成された。本隊の他に、提携チームとして柏崎ジュニアユースと中条ジュニアユースがある。過去には、提携チームとして新潟ジュニアユース(~2004年度)と加茂ジュニアユース(~2005年度)があった。
- 全国大会成績
-
- 2006年:3位 2010年:GL敗退
- アルビレックス新潟ジュニア
2007年4月創設・活動開始。
- 全国大会成績
-
- -
-
- 2010年:GL敗退
-
- -
- アルビレックス新潟レディース
- 当該項目参照。
- アルビレックス新潟レディースU-18
- 2005年創設・活動開始
- アルビレックス新潟サッカースクール
- 東新潟校・美咲校・駅南校・寺尾校・白根校・亀田校・アルビレッジ校がある。
- アルビレックス新潟シンガポール
- 当該項目参照
- 実質的なアルビレックス新潟の下部組織チーム
- JAPANサッカーカレッジ
- 開志学園高校JAPANサッカーカレッジ高等部
- アルビレックス新潟の運営母体はNSGグループ(新潟総合学院、国際総合学園)が行っているが、NSGグループの傘下にあるJAPANサッカーカレッジは、現在北信越フットボールリーグに加盟しており、同チームに所属している選手は、アルビレックス新潟の練習へも参加でき、事実上のアマチュア組織のチームとなっている。また、2005年度から高等部も設けられ、開志学園JSC高等部はアルビレックス新潟ユースとともにユース部門を担っている。
詳細は「JAPANサッカーカレッジ」および「開志学園高等学校」を参照
- 日本国外にサテライトを持つサッカークラブ
- 日系ベルマーレ (湘南ベルマーレが設立したパラグアイリーグ地方2部・実質4部に所属のチーム。若手選手の派遣・育成・強化を図る計画で設立した点でアルビレックス新潟と共通するといえる。)
[編集] 脚注
- 注釈
- 出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y クラブガイド:アルビレックス新潟 Jリーグ公式サイト
- ^ 会社概要 アルビレックス新潟公式ホームページ
- ^ 飯塚健司 『アルビレックス新潟の奇跡』 小学館、2005年。ISBN 4093553335。
- ^ トップインタビュー 株式会社アルビレックス新潟 代表取締役社長 池田 弘氏 インタープライズ・コンサルティング
- ^ J1リーグ戦34試合32得点は全チーム最少得点で、無得点試合は16に達した。
- ^ 彼が抜けた試合では2011年まで勝ちが無かった。
- ^ 登録選手追加・変更・抹消のお知らせ Jリーグ公式サイト2011年9月9日
- ^ 武田 洋平選手 登録ウインドーの例外の適用に関するお知らせ アルビレックス新潟公式サイト 2011年9月9日
- ^ http://www.jsgoal.jp/news/jsgoal/00048332.html
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- アルビレックス新潟公式サイト
- albirex_pr (albirex_pr) - Twitter
- アルビレックス新潟オフィシャルインターネットショップ
- アルビレックス新潟後援会
- アルビレックス - 新潟日報
|
|||||
|
|||||||||||||||||||||||
|
||||||||
