應蘭芳
應 蘭芳(おう らんふぁん、1938年(昭和13年)3月9日 - )は、日本の女優、歌手。本名は応仲奇。日本名は三瀬滋子(さんのせしげこ)だったが、1981年に結婚し近藤滋子になった。
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[編集] 来歴
イギリスロンドン生まれ。父親は英国籍の中国人で、母親は日本人。
1957年(昭和32年)、日本国籍がなかったため就職できず、「優勝すると女優になれる」という「井の頭公園カーニバル」のミスコンテストに応募し優勝する。
1958年(昭和33年)、ミスコンテストの結果を受け、東映の「第5期ニューフェース」となる(同期に梅宮辰夫)。「俳優座養成所」に12期生として入所(同期に中村敦夫、加藤剛、山本圭、長山藍子、樫山文枝)。
1959年(昭和34年)、日本名三瀬滋子で映画『素晴らしき娘たち』、『空港の魔女』、『スピード狂時代命を賭けて』に出演。
1964年(昭和39年)、青年芸術劇場(青芸)第6回発表劇『袴垂れはどこだ』に出演、当時のパンフも芸名は三瀬滋子でクレジットされているが、劇の原作の一つである中国小説の訳者表記部分には本名応仲奇でクレジットされている。
1966年(昭和41年)、『マグマ大使』(ピープロ、フジテレビ)に「モル」役で出演。劇中では特技のスキューバ潜水も披露している。
1968年(昭和43年)、芸名を應蘭芳に変える。『女性自身』(光文社)3月25日号のインタビュー記事で、「私、あのときはいつも失神するの」と、当時の世相としては衝撃的な赤裸々な発言を行い、一躍「失神女優」と呼ばれることとなる。
同年、『11PM』(日本テレビ制作版)でホステス役を務める。また、歌手としてビクターレコードから『渚の歓喜(エクスタシー)』(A面は『火遊びのブルース』)が発売され、そのセクシーな内容から「失神ソング」と呼ばれた。
1969年(昭和44年)、『プレイガール』(東映、東京12チャンネル)に、初代メンバーとして出演。
同年、ビクターレコードより「失神ソング」第二弾、『痛い痛い痛いのよ』が発売されるが、当時としてはあまりに過激な歌詞内容のため、『渚の歓喜』と併せて「放送禁止歌曲」にされてしまった。
現在は舞台、芝居を中心に活躍。又長いキャリアを持つスクーバーダイビングやスカイダイビングなどで世界を回った、それらの体験を生かした体験談の講演も多い。他にテレビ番組・イベント企画等のキャリアも長く、テレビ演出、制作会社(株) コン・エンタープライズを中心に活躍。
[編集] 人物・エピソード
高校時代は水泳の高飛び込みで関東大会に優勝したほどの運動少女だった。昭和30年代に自動車の国際A級ライセンスを取得。『マグマ大使』出演時には、日産・スカイライン2000GTで撮影所に通っていて、鈴鹿ロケのついでにレース出場したこともあった。1970年には、「箱スカ」と呼ばれ現在でも伝説の名車として名高い「日産・スカイライン2000GT-R」を購入。
また、スカイダイビング、スキューバダイビングの免許も取得。これらの特技を生かし、「失神女優」の異名を持つ傍ら、出演番組では「アクション女優」の先駆けともいえる活躍を見せた。『マグマ大使』第15話では、吹き替えなしで恐らく日本の女優では初めての水中アクションシーンを演じているが、実際に撃たれた水中銃の銛をすれすれでよけるシーンなどもあり、「後で考えてゾッとした」と語っている。
[編集] 映画作品
- 『素晴らしき娘たち』(1959年、東映)
- 『空港の魔女』(1959年、東映)
- 『スピード狂時代 命を賭けて』(1959年、東映)
- 『あるセックスドクターの記録』(1968年、大映)
- 『新宿育ち』(1968年、松竹)
- 『みな殺しの霊歌』(1968年、松竹)
他多数
[編集] テレビ作品
- 『第7の男』(1964年 - 1965年、フジテレビ)
- 『マグマ大使』(1966年 - 1967年、フジテレビ)
- 『マイティジャック』(1968年、フジテレビ) - 第1話
- 『37階の男』(1968年、日本テレビ)
- 『プレイガール』(1969年 - 1971年、東京12チャンネル)
- 『独身のスキャット』(1970年、TBS) - 第1話
- 『一枚の写真』(1989年、フジテレビ)
他多数
[編集] その他の活動
- プレイガールオフィス・トークショー「プレイガール伝説」(2000年)
[編集] 参考文献
- 『マグマ大使パーフェクトブック』(白夜書房)
- 『うしおそうじとピープロの時代 スペクトルマンVSライオン丸』(太田出版)