張蔭桓

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張 蔭桓(ちょう いんかん、Zhāng Yīnhuán1837年 - 1900年)は、末の外交官・官僚。字は皓巒、号は樵野または紅棉居士広東省南海県出身。

人物略歴[編集]

若い時から科挙に挑戦していたが、及第しなかったため諦め、1862年に叔父に従って済南へ行き、金銭を納めて知県の地位を手に入れた。その後、山東巡撫の幕僚となり、巡撫の閻敬銘丁宝楨からその能力を評価されて道員に推薦され、按察使に昇進した。

やがて北京に召されて総理各国事務衙門に入り、戸部左侍郎に昇進し、その後も工部・刑部・兵部・礼部・吏部を歴任した。1885年にはアメリカスペインペルー公使となった。在任中は華僑の労働者(華工)の問題について協議している。

土屋光逸「請和使談判之図」
1895年2月に広島県庁で行われた請和交渉を描いたもの。

1895年日清戦争北洋艦隊が惨敗したため、清国朝廷は講和のために戸部左侍郎であった張蔭桓と湖南巡撫邵友濂を全権大使として派遣した。しかし全権委任状の不備のために広島での交渉を拒絶され、結局李鴻章とその養子の李経方と交代することになった[1][2][注釈 1]。なお、交代した李鴻章・李経方は下関条約を調印している。

1897年にはイギリス・アメリカ合衆国・フランスドイツロシアを歴訪した。1898年3月には、北京市で調印された旅順・大連租借に関する露清条約の次席全権委員を務めた(主席全権は李鴻章)。

張蔭桓は変法運動を支持しており、康有為とも親密であったため、戊戌の政変後、新疆省へ流罪となった。1900年、義和団の乱の最中に流刑先で処刑された。

著書[編集]

  • 『三洲日記』
  • 『鉄画楼詩続鈔』

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 張蔭桓・邵友濂の持参した書簡を2人「国書」と称したのに対し、陸奥宗光はそれは一種の信任状ないし単なる紹介状にすぎず、全権委任状ではありえないと述べ、また、日本側は講和のための会談・記名・調印の全権を天皇より委任されているのに対し、清国使節はどうなのかと問い詰めた[1]。また、国交断絶中の国同士に「国書」交換なるものが存在しないのも確かであった[1]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 海野福寿『集英社版 日本の歴史18 日清・日露戦争』集英社、1992年11月。ISBN 4-08-195018-0 
  • 陳舜臣『中国の歴史14 中華の躍進』平凡社、1983年4月。ISBN 4582487149 

関連項目[編集]