喜光寺

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喜光寺
Kikoji.jpg
本堂(国の重要文化財
所在地 奈良県奈良市菅原町508
位置 北緯34度41分05秒
東経135度46分40秒
座標: 北緯34度41分05秒 東経135度46分40秒
山号 清涼山
宗旨 法相宗
寺格 薬師寺別格本山
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・養老5年(721年
開基 伝・行基
文化財 本堂、木造阿弥陀如来坐像(国の重要文化財)
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荒れ果て、傾いていた明治中期ころの姿
本堂(2013年11月撮影)

喜光寺(きこうじ)は、奈良県奈良市菅原町にある法相宗寺院。この一帯が菅原氏の治領であったことから[1]「菅原寺」とも呼ばれる。山号は清涼山。本尊は阿弥陀如来。奈良時代の僧・行基が没した地とされている。薬師寺の別格本山。

歴史[編集]

奈良時代に架橋、土木工事などの社会事業に携わり、東大寺大仏造立にも貢献した僧・行基が創建したと伝わる。『行基年譜』(安元元年・1175年成立)によれば、菅原寺(喜光寺)は、養老5年(721年)、寺史乙丸なる人物が自らの住居を行基に寄進し、翌養老6年(722年)行基がこれを寺としたものであって、行基建立の四十九院の一つであるとされている。寺地は平城京の右京三条三坊の九ノ坪、十ノ坪、十四ノ坪、十五ノ坪、十六ノ坪の計5坪を占めていたという。なお、現・喜光寺本堂の位置は、右京三条三坊の十五ノ坪にあたる。『大僧正舎利瓶記』によれば、行基は天平21年(749年)この寺で82歳で死去したという。なお、行基の墓は喜光寺から直線距離で7キロ離れた生駒市有里の竹林寺にある。前出の『大僧正舎利瓶記』は、行基墓から出土した銅筒に記されていたものである。[2]

1969年に境内の発掘調査が行われ、現・喜光寺本堂は、奈良時代の創建本堂の跡に建てられていることが確認された。創建金堂の基壇は東西が28メートル、南北が21メートルの規模であった。そこから南に42メートル離れた場所に南大門跡とみられる建物跡があったが、礎石は残されていなかった。[3]

一方、「菅原寺記文遺戒状」という別の史料によれば、この寺は霊亀元年(715年)、元明天皇の勅願により建てられたものという。創建当初は菅原道真の生誕地と伝わる菅原の里にあることから「菅原寺」と呼ばれていた。伝承によれば、聖武天皇が参詣した際に当寺の本尊より不思議な光明が放たれ、これを見た天皇が喜んで、「菅原寺」を改めて「喜光寺」としたという。『続日本紀』によれば、延暦元年(782年)、この地に住んでいた土師氏が桓武天皇から菅原姓を賜ったという。

中世には興福寺末寺となり、直接には興福寺塔頭の一つであった一乗院に属した。

戦国時代に伽藍のほとんどが兵火により焼失したが、間もなく再建された。

明治時代には薬師寺の末寺となった。現在は同寺唯一の別格本山という。

建造物[編集]

  • 本堂(重要文化財) - 室町時代に再建された寄棟造、単層裳階付きの仏堂で、裳階の正面一間通りを吹き放しとする。この建物は、行基が東大寺大仏殿を建立する際に十分の一の雛形として建てたとの伝承から、「試みの大仏殿」と俗称される。
  • 南大門 - 再建後に再び焼失。再び再建され2010年5月に落慶法要が営まれた。

文化財[編集]

重要文化財[編集]

  • 本堂 - 室町時代前期
  • 木造阿弥陀如来坐像 - 平安時代後期。像高233cm。

アクセス[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 菅原神社・菅原寺『大和名勝』藤園主人述. 金港堂, 明36.4
  2. ^ 千田稔『天平の僧 行基』、pp.12 - 15; 『国史大辞典』(吉川弘文館)第8巻、p.62(「菅原寺」の項)
  3. ^ 千田稔『天平の僧 行基』、pp.12 - 15

参考文献[編集]

  • 千田稔『天平の僧 行基』(中公新書)、中央公論社、1994

関連項目[編集]

外部リンク[編集]