尊誠法親王

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尊誠法親王(そんせいほうしんのう、文化3年8月12日1806年9月23日) - 文政5年6月28日[1]1822年8月14日[2])は、江戸時代後期の法親王伏見宮貞敬親王の第四王子で、母は家女房の入江誠子。幼名は潔宮(きよのみや)。諱は忠道(ただみち)。正式な出家が親王宣下後であるため、入道親王とする表記もある[3]

早くから有力門跡の後継者になることが決まっていたが、円満院勧修寺と候補の寺院が変更され、最終的に文化5年(1808年)7月になって光格天皇の意向によって一乗院の継承が決定される[1]。文化6年(1809年)8月に光格天皇・勸修寺婧子の猶子となる。文化13年(1816年)12月23日に親王宣下を受け、翌文化14年(1817年)6月に出家したが、5年後に17歳で急死した。諡号は平等心院。

脚注[編集]

  1. ^ a b 是澤恭三「尊誠法親王」『日本人名大事典』
  2. ^ ただし、文書上の表向きの公式は文政5年8月24日死去(「尊誠入道親王」『日本人名大辞典』)。
  3. ^ 「尊誠入道親王」『日本人名大辞典』

参考文献[編集]

  • 是澤恭三「尊誠法親王」『日本人名大事典』第3巻、平凡社、1979年(『新撰大人名辞典』(1937年刊)の改題複製)。
  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。