ヴァルラーム・シャラーモフ

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ヴァルラーム・チホノヴィチ・シャラーモフロシア語: Варлам Тихонович Шаламов[1], 1907年6月18日[2]1982年1月17日)は、ソビエト連邦時代の作家

経歴[編集]

ロシア北西部の古都ヴォログダに五人兄弟の末っ子として生まれる。生家は代々続く聖職者の家系であり、シャラーモフの父親は市中心部の大聖堂司祭として勤めるほどであった。しかし少年時代に勃発したロシア革命により生家は旧来の支配階級と指弾され没落、二人の兄は赤軍に徴兵されたが、やがて長兄は家族と絶縁を宣言、次兄は戦死した。二人の姉も遠方の地へ嫁ぎ、事実上一家は離散した。

シャラーモフは生まれ故に苦学しつつも1926年モスクワ大学に入学する。しかしこのころから強まっていたヨシフ・スターリン独裁政治に反発、1929年2月19日、学内の反体制運動に参加していたところを逮捕されペルミ周辺のラーゲリ政治犯として収容される。1933年には釈放されモスクワへ帰還できたが、やがてスターリンは本格的な大粛清を開始、1937年1月12日に再度逮捕される。この時から1953年のスターリン病没による恐怖政治の終焉までコルィマ鉱山周辺に設置された強制収容所を転々とする[3][4]

1953年釈放。しかし囚人の経歴故にモスクワへ居住できずにトヴェリ州(当時はカリーニン州)の泥炭採掘場で働き、コルィマ鉱山を始めとする収容所での体験を短編形式で執筆し始める。1956年ニキータ・フルシチョフスターリン批判に伴い名誉回復、雑誌「モスクワ」の編集部に職を得て更に創作に励むも過酷な収容所生活は彼の心身を大きく蝕んでおり1960年頃に聴覚、70年代後半には視覚を失った。1982年1月17日、波乱の生涯を閉じる。

作品[編集]

後に総称して「コルィマ物語」と呼ばれる彼の短編群は釈放直後の1953年から1973年にかけて約150編が執筆されたが、シャラーモフの生前に発禁処分が解かれることはついになく、専ら地下出版の形で密かに国内外に流出して話題となっていた。コルィマ物語がソ連国内で正式に出版されたのはペレストロイカが進行した1987年のこと[5]。以降彼は反体制作家としてアレクサンドル・ソルジェニーツィンと並び称されるようになり、生地のヴォログダには記念館が建設された。

脚注[編集]

  1. ^ ラテン文字転写: Varlam Tikhonovich Shalamov
  2. ^ 露暦1907年6月5日
  3. ^ 1946年以降は収容所内病院の補助医師として勤務
  4. ^ 厳しい労働の合間に詩作にも励み、まとめられた作品はやがてボリス・パステルナークの激賞を受け、獄中にもかかわらず相互に文通を行なっていた
  5. ^ 日本語訳作品としては、『極北コルィマ物語』(朝日新聞社刊、絶版)として一部分が出版されている

参考文献[編集]

関連項目[編集]