ロイス家

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ロイス家の紋章となったプラウエン城代の紋章

ロイス家Haus Reuß)は、ドイツの領主の家系神聖ローマ皇帝の城代(Vogt)から領主・へと出世し、1778年に嫡系が帝国諸侯(ライヒスフュルスト)の地位を得たのを契機に、その他の系統も順次、諸侯の地位を獲得した。ロイス家の諸系統が統治したのはテューリンゲン地方の東部のフォークトラント(Vogtland)地方であった。ロイス家の諸家はそのほとんどが断絶したが、現在でも1系統のみが存続している。

歴史[編集]

起源[編集]

ロイス家の始祖とされるのは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世によってゲーラとヴァイダ(Weida)の城代(Vogt)に任命された、ハインリヒ・フォン・グライスベルク(Heinrich der Fromme vom Gleißberg、1120年頃没)という人物である。この人物の孫にあたるハインリヒ2世(Heinrich II. der Reiche、1209年以前に没)は、プラウエンの領地を購入した。彼の相続人たちは所領を何度か分割相続し、同家の者の領地はザクセン選帝侯領ニュルンベルクにも散在した。

ロイス家の先祖たちは12世紀に、ゼルベンラント(Sorbenland)、現在のフォークトラント(Vogtland)における神聖ローマ皇帝の城代を務めながら、徐々に領主として自立していった。彼らの支配領域は、かつては広範囲かつ一体性があり、現在のフォークトラント地方をほぼ覆っていたと考えられている。つまり一族の本拠であるプラウエンの城代領はもとより、テューリンゲン地方のシュライツ(Schleiz)、グライツ(Greiz)、バート・ローベンシュタイン(Bad Lobenstein)、ヴァイダおよびゲーラ、フランケン地方のホーフおよびゼルプ(Selb)、ボヘミア地方のアッシュ(Asch)の各城代領を確保していたのである。

領土の相続[編集]

1209年、前記のハインリヒ2世(Heinrich II. der Reiche)の3人の息子たちが、家領をヴァイダ(長兄)、ゲーラ(次兄)、グライツ(弟)にそれぞれ分割した。3人の息子たちはそれぞれの本拠に居所を置いたが、3人とも引き続いてヴァイダ城代(Vögte von Weida)の称号を用いた。1237年までに、3兄弟による家領の分割は公に認められた。

このうち、グライツ系統は1代で絶えたため、領土は次兄のゲーラ系統に相続された。ゲーラ系統は第2世代でプラウエン城代家(Plauen)とゲーラ城代家(Vögte von Gera)に分かれた。1303年にプラウエン城代ハインリヒ1世(Heinrich I. (Plauen))が死ぬと、その領地は1306年に2人の孫の間で、プラウエン城代領とそれ以外の所領とに分けられることになった。ハインリヒ1世の長男ハインリヒ2世(Heinrich II. (Plauen))の息子ハインリヒ3世(Heinrich III. (Plauen))がプラウエン城代領を、次男のハインリヒ・ルテヌスHeinrich Ruthenus、Ruszen、Reußenとも表記される)の息子ハインリヒ2世ロイス(Heinrich II. (Reuß-Greiz))が城代領を除く家領を分割相続した。前者のプラウエン城代系統は後にマイセン城伯(Burggraf von Meißen)の地位を獲得し、後者の系統はグライツの領主として「ロイス・フォン・プラウエン・ツー・グライツ(Reußen von Plauen zu Greiz)の家名を名乗り、ここにロイス家が成立した。

ヴァイダ城代系統は1531年に断絶し、その領土はザクセン選帝侯領エルネスティン家領)に吸収された。またゲーラ城代系統も1550年に断絶し、その遺領はプラウエン城代系統のマイセン城伯ハインリヒ4世(Heinrich IV. von Plauen (Burggraf von Meißen))が相続した。ロイス家はグライツと現在のザクセン地方に属する城代領の一部を所有していた。ロイス家は1560年9月28日、皇帝の裁可により、シュマルカルデン戦争中に失われたグライツの領地を取り戻した。また、ロイス家はゲーラ、シュライツ、ローベンシュタインをも獲得した。1572年に本家筋のマイセン城伯(プラウエン城代)の系統が絶えると、ロイス家がそのマイセン城伯家の遺領を受け継いだが、1590年まではマイセン城伯家に資金を貸し付けていた抵当権者たちと所有権をめぐって争わねばならなかった。

家名の由来[編集]

ロイス(Reuß)の家名はルテヌス(Ruthenus)、 ルスツェ(Rusze)とも表記されるが、これはプラウエン城代ハインリヒ1世(Heinrich I. (Plauen))の次男ハインリヒ(Heinrich Ruthenus、史料で生存が確認できるのは1292年まで)のあだ名に由来する。ラテン語では「Henrico de Plawe dicto Ruze」と表記される。このルテヌスのあだ名は、彼がロイス家領の東のルーシ、より厳密にはルテニア(Ruthenia)地方に長く滞在し、さらにはルテニアの支配者で「ルーシの王」を名乗るハールィチ=ヴォルィーニ王国の王族の娘マリヤ(Maria Swihowska)を妻に迎えたために付けられた。ロイスの家名はルーシの王家の女系子孫であることを示すために、ハインリヒ・ルテヌスとマリヤの息子のハインリヒ2世(Heinrich II. (Reuß-Greiz))が1307年より公式の家名として名乗った。こうして、ロイスの家名が定着した。つまり、それ以前に分かれたヴァイダ、ゲーラ、プラウエンの城代の諸系統は、ロイスの家名を名乗ったことはない。

分裂[編集]

18世紀のロイス諸家の家領
緑色:兄系ロイス(グライツ、ブルク)
赤色:ロイス=ゲーラ(およびザールブルク)
黄色:ロイス=シュライツ
茶色:ロイス=ローベンシュタイン

1564年、それまで統一を保ってきたロイス家領は分裂し、長子系統(Reuß älterer Linie、兄系ロイス)がウンターグライツを、中子系統(Reuß mittlerer Linie)がオーバーグライツを、末子系統(Reuß jüngerer Linie、弟系ロイス)がゲーラをそれぞれ領有した。中子系統が1616年に断絶すると、その遺領は他の2系統の間で完全に平等な形になるよう分割相続された。分裂したロイス家の諸家の個々の家領は並はずれて狭小であり、官署がおかれないこともしばしばだった。分裂状態が頂点に達したのは1700年前後であり、兄系と弟系の2系統から合わせて10の分領が併存する状況となっていた。これに対処すべく、1690年には兄弟全員が相続権を平等に有する制度を変更し、代わりに長子相続制を確立した。

長子系統であるロイス=ウンターグライツ(1564年 - 1768年、ただし1583年から1596年の間は2つに分裂)からは、ロイス=オーバーグライツ(1625年 - 1927年)、ロイス=ブルク(1596年 - 1640年、1668年 - 1697年)、ロイス=ローテンタール(1668年 - 1698年)、ロイス=デーラウ(1616年 - 1643年、1694年 - 1698年)が分家として出た。

末子系統であるロイス=ゲーラ(Reuß-Gera、1564年 - 1802年)からは、ロイス=シュライツ(Reuß-Schleiz、1647年 - 1945年)、ロイス=ザールブルク(1647年 - 1666年)、ロイス=ローベンシュタイン(Reuß-Lobenstein、1647年 - 1824年)、ロイス=ヒルシュベルク(1678年 - 1711年)、ロイス=エーベルスドルフ(Reuß-Ebersdorf、1678年 - 1848年)が出た。またロイス=ゲーラからは、独立君主でない分家として、ロイス=ゼルビッツ(1718年 - 1824年)とロイス=ケストリッツ(1693年 - 現在)が出ている。

ロイス=オーバーグライツ家のハインリヒ11世は1768年にロイス=ウンターグライツを統合して兄系ロイス伯領(1778年より侯国)を創設し、ロイス=シュライツ家のハインリヒ62世は1848年に他の支流を統合して弟系ロイス侯国を創設した。1815年のウィーン会議では、ゲオルク・ヴァルター・ヴィンツェント・フォン・ヴィーゼ(Georg Walter Vincent von Wiese)がロイス家の代理人として送り込まれ、ロイス家領の陪臣化を防いだ。

1918年以後のロイス家[編集]

弟系ロイス侯国を統治したロイス=シュライツ家最後の当主、ハインリヒ45世(1895年 - 1945年)。1945年にソ連占領軍に拉致されて以降、消息不明となり、1962年に西ドイツの裁判所によって死亡が宣告された。

1918年のドイツ革命により、2つのロイス侯家は諸侯の身分を失った。このとき、ロイス=グライツ侯(兄系ロイス侯)ハインリヒ24世は重度の障害により統治不能のため、弟系ロイス侯ハインリヒ27世が2つの侯国を統治している状況だった。

1919年12月、ハインリヒ27世はロイス人民州(Volksstaat Reuß)政府との間に協定を結んだ。ロイス家には3400万ライヒスマルク相当と見積もられる財産が残された。弟系ロイス侯家は、居城オステルシュタイン城(Schloss Osterstein、ゲーラのキュッヒェ庭園(Küchengarten)、エーベルスドルフ城(Schloss Ebersdorf)、シュライツとオステルシュタインの貨幣鋳造所と武器貯蔵庫と城内付属図書館、シュライツ城の居住権、および5285haの森などを確保した。兄系ロイス侯家は昔からの居城とブルク(Burgk)の武器貯蔵庫および森林区域、1500haの平地、グライツ城の居住権を確保していたが、1927年には弟系ロイス侯家がその資産を受け継いでいた。

1927年に最後のロイス=グライツ侯ハインリヒ24世が死ぬと同時に、兄系ロイス侯家の男系は絶えた。さらに翌1928年に弟系ロイス侯ハインリヒ27世が死ぬと、その息子のハインリヒ45世がロイス家全体の家長となった。ハインリヒ45世は国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の党員であり、1944年までドイツ国防軍に所属していたが、敵国であるイギリスのパスポートを持ちイギリスの市民権を取得していたという理由から、ナチ党政府による公用徴収を免れ得なかった。ハインリヒ45世は1945年、子供のないまま亡くなった。ソ連軍に拉致され、おそらくブーヘンヴァルト強制収容所に抑留されて死んだと考えられている。

ハインリヒ45世はロイス=シュライツ家最後の男子だったが、1935年に独立した統治者家門でない分家のロイス=ケストリッツ家の侯子ハインリヒ1世(1910年 - 1982年)を養子に迎え、さらにハインリヒ1世と自分の姪を結婚させていた。ハインリヒ1世の妻でハインリヒ45世の姪でもあるヴォイツラヴァ・フェオドラ・ツー・メクレンブルク(1918年 - )は、1990年代初頭に自分の長男ハインリヒ8世(1944年 - )にロイス家の財産が返還されるべきだと主張した。

弟系ロイス家の流れをくむロイス=ケストリッツ家(Reuß-Köstritz)が、ロイス家の諸家の中で存続する唯一の系統である。同家は非常に多くの男系子孫に恵まれており、断絶することは当面のあいだ無いと見られている。現在のロイス家家長は、ロイス=ケストリッツ家の当主ハインリヒ4世(1919年 - )であり、1822年よりロイス=ケストリッツ家が居城とするニーダーエスターライヒ州のエルンストブルンの城館(Schloss Ernstbrunn)に、今も家族と住み続けている。

ロイス家と序数[編集]

ロイス家の全ての男子は洗礼名としてハインリヒHeinrich)を名乗る決まりであるため、個々の男子を区別するため、必ず名前に序数が付けられる(ハインリヒ~世というようにである)。この異常とも言える一族の掟は1668年にはロイス家の家内法に明記され、1918年まで独立諸侯の地位を保っていた兄系と弟系のロイス侯家が死に絶えた後も、末裔たちによって堅固に守られ続けている。この伝統はおそらく1200年頃、遠祖のハインリヒ2世(Heinrich II. der Reiche、1209年以前に没)が、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世によりクヴェトリンブルク帝国女子修道院(Stift Quedlinburg)の城代に任命された際に、多大な恩義を受けたことを忘れないため、全ての子孫にハインリヒ皇帝の名前を付けるように決めたものと考えられている。

1564年に分裂する以前のロイス家は、非常に論理的な形で、自分の家系内の男子に誕生した順序通りに序数を付けていった。新しい分家が創始されるごとに、その分家では序数が「1世」から始まった。ロイス家の祖家はヴァイダ城代系統、ゲーラ城代系統、プラウエン城代(のちマイセン城伯)系統、グライツ領主系統(ロイス家)に分かれていたが、グライツ領主家も本家から分かれた際に1からナンバリングを始めている。序数が極端に大きくなるのを避けるため、1564年の分裂以降、長子系(兄系)と末子系(弟系)はナンバリングに関する新しい方法を定着させたが、最も早い1616年にハインリヒ18世(Heinrich XVIII)の死により断絶した中子系は、古くからの序数の付け方を続けていた。

兄系ロイス家では、初めは各世代が始まるごとに序数を1に戻していた。この方法は時代が下り、兄系ロイス家内に2つの分家が創始された後も続いていた。第1世代は、グライツ=ブルク家のハインリヒ1世(1632年生)から始まり、グライツ=デーラウ家のハインリヒ16世(1678年生)で終わっている。第2世代は、グライツ家のハインリヒ1世(1693年生)から始まっている。本家が1768年に断絶した後、ロイス=グライツ侯ハインリヒ11世は次世代の序数を1に戻すことをせず、兄系ロイス家全体での世代ごとのナンバリングを廃止して、諸分家の家内のみで序数を増やし続ける方式に変更した。

弟系ロイス家では、始祖であるハインリヒ2世ポストゥムス(Heinrich II. Posthumus (Reuß-Gera))の10人の息子たちが1世から10世までを名乗り、その10人兄弟の息子たちの世代も、最後に生まれたハインリヒ29世(1699年生)に至るまで弟系ロイス家全体でのナンバリングを続けた。その次の世代(始祖ハインリヒ・ポストゥムスの曾孫の世代)で最初に生まれたシュライツ家のハインリヒ1世(1695年生)から序数を1に戻し、世代に関係なくケストリッツ家のハインリヒ75世(1800年生)まで続けた。こうして、弟系ロイス家では世紀が変わるごとに序数を1に戻す方式を確立した。三巡目となる19世紀には、ケストリッツ家のハインリヒ1世(1803年生)から始まり、四巡目となる20世紀はケストリッツ家のハインリヒ1世(1910年生)から始まった。

著名な成員[編集]

参考文献[編集]

  • Berthold Schmidt: Die Reußen, Genealogie des Gesamthauses Reuß älterer und jüngerer Linie, sowie der ausgestorbenen Vogtslinien zu Weida, Gera und Plauen und der Burggrafen zu Meißen aus dem Hause Plauen, Schleiz 1903
  • Berthold Schmidt: Burggraf Heinrich IV. zu Meißen, Oberstkanzler der Krone Böhmens und seine Regierung im Vogtland, Gera 1888
  • Berthold Schmidt: Geschichte des Reußenlandes, 1. und 2. Halbband, Gera 1923 und 1927
  • Johannes Richter: Zur Genealogie und Geschichte der Burggrafen zu Meißen und Grafen zum Hartenstein aus dem älteren Hause Plauen, in Sächsische Heimatblätter 5/1992
  • Dr. Werner Querfeld: Greiz Geschichte einer Stadt, Greiz 1995,
  • Sigismund Stucke: Die Reußen und ihr Land - die Geschichte einer süddeutschen Dynastie. A -St. Michael 1984, ISBN 3-7053-1954-X

外部リンク[編集]