エレオノーレ・ロイス・ツー・ケストリッツ

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ブルガリア王妃エレオノーレ

エレオノーレ・ロイス・ツー・ケストリッツドイツ語:Eleonore Caroline Gasparine Louise Prinzessin Reuß zu Köstritz, 1860年8月22日 - 1917年9月12日)は、ブルガリアフェルディナンド1世の2度目の妃。ブルガリア語エレオノーラ(Елеонора фон Ройс-Кьостриц)。

トレブシェン(現ポーランドトシェビェフフ)で、ロイス=ケストリッツ侯ハインリヒ4世とその妻でロイス=グライツ侯ハインリヒ19世の娘であるルイーゼの間に生まれた。

フェルディナンド1世は最初の妃マリヤ・ルイザ1899年に亡くし、君主の配偶者として公務を託せる新たな妃を探していた。同性愛者であったフェルディナンドはこれ以上嫡子をもうける必要はなく、彼は愛情や関心ではなく、アシスタントとなる女性を求めていたのだった。候補者の名簿からエレオノーレの名前を見つけ、フェルディナンドとエレオノーレは1908年2月にコーブルクで挙式した。エレオノーレはブルガリア公妃となり、1908年10月にブルガリアがオスマン帝国から完全独立を勝ち取ると、ブルガリア王妃となった。

エレオノーレは結婚前におそらくフェルディナンドの性的嗜好を知らされていたらしい。2人に夫婦生活があったかどうかは議論の余地がある。フェルディナンドは、新婚旅行のため隣国ルーマニアカロル1世に招待されていた間、エレオノーレと別々の寝室を利用していたからである。エレオノーレは夫フェルディナンドに全くほったらかしにされており、彼女は継子である王子ボリスらの養育、ブルガリア国民の生活向上に献身した。バルカン戦争第一次世界大戦の際には休むことなく看護婦として働き、多くのブルガリア人戦傷兵らのため大きな慰めを与えた。彼女は温かな心の持ち主であり、「傷を癒す特別な能力」を授かった人物であると言われた。

王妃エレオノーレは、第一次世界大戦末期の1917年に深刻な病状に陥り、9月12日に夏の離宮のあるエフクシヌグラート(en:Euxinograd)で亡くなった。彼女の最期の願いは、首都ソフィア近郊のボヤナにある12世紀からの教会墓地に埋葬して欲しいというものだった。彼女の願いは叶えられた。

第二次世界大戦後の共産主義体制下、エレオノーレの墓は掘り起こされ、副葬品である彼女の宝石は盗まれ、墓碑を彩っていた装飾の墓石が重機で穴へ投げ込まれた。そのために彼女の墓のあることを示す目印が失われてしまった。しかし、1989年の体制崩壊後、原型の墓石が発掘され、元あった場所に再度戻された。

参照[編集]

  • Theo Aronson (1986) Crowns in conflict: the triumph and the tragedy of European monarchy, 1910-1918, J. Murray, London. ISBN 0719542790
  • Constant, S. (1979) Foxy Ferdinand, 1861-1948, Tsar of Bulgaria, Sidgwick and Jackson, London. ISBN 0283985151