ヤロブシャ郡 (ミシシッピ州)

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ミシシッピ州ヤロブシャ郡
Yalobusha County Courthouse.jpg
コーフィビル町にあるヤロブシャ郡庁舎
ヤロブシャ郡の位置を示したミシシッピ州の地図
郡のミシシッピ州内の位置
ミシシッピ州の位置を示したアメリカ合衆国の地図
州のアメリカ合衆国内の位置
設立 1834年2月21日
郡庁所在地 コーフィビルおよびウォーターバレー
最大の都市 ウォーターバレー
面積
 - 総面積
 - 陸
 - 水

1,282 km2 (495.00 mi2)
1,210 km2 (467.12 mi2)
72 km2 (27.88 mi2), 5.63%
人口
 - (2010年)
 - 密度

12,678人
11人/km2 (28人/mi2)
標準時 中部: UTC-6/-5

ヤロブシャ郡: Yalobusha County)は、アメリカ合衆国ミシシッピ州の北部に位置するである。2010年国勢調査での人口は12,678人であり、2000年の13,051人から2.9%減少した[1]郡庁所在地ウォーターバレー市(人口3,392人[2])、およびコーフィビル町(人口905人[3])の2つである。

歴史[編集]

「ヤロブシャ」とはインディアンの言葉で「オタマジャクシの場所」を意味している。郡ができる前の領域には、チョクトー族とチカソー族インディアンが住んでいた。

1816年、アンドリュー・ジャクソン将軍がチョクトー族とチカソー族の境界性を測量するよう命じた。この線は現在のヤロブシャ郡領域のほぼ対角線をなしている。1830年、ダンシングラビット・クリーク条約によって、チョクトー族がそのミシシッピの土地をアメリカ合衆国に譲渡した。その2年後、チカソー族がポントトク条約に調印し、その土地をアメリカ合衆国に譲渡した。両部族は西の現在はオクラホマ州にある新しい土地に移動した。

1833年、以前はインディアンの土地だった場所に、ミシシッピ州議会がヤロブシャを含む17郡の創設を承認した。

ヤロブシャ郡が公式に組織化され、最初の選挙は1834年2月21日に行われた。最初の警察理事会は、当時郡内最大の町だったヘンダーソンビルで最初の会合を開いた。

ヘンダーソンビルは長老派教会の伝道師ジョン・ヘンダーソンによって1798年に設立されていた。ヘンダーソンはこの地域最初の白人開拓者だった。その他に初期開拓地として、エリオット、チョキューマ、タスコホマ、ピッツバーグ、タラホーマ、プラマービル、プレストン、ファーサリア、サーディニア、ワシントンがあった。

最初の警察理事会会合では郡庁への土地の寄付を求めた。2回目の会合で場所を選定し、チョクトー族およびチカソー族との条約交渉でアメリカ合衆国代表となったジョン・コーフィ将軍に因み、そこをコーフィビルと名付けた。次の会議から新しい町で開催され、1837年には初代郡庁舎が建設された。

同年、郡北東部の初期開拓者の1人であるG・B・ラグズデールが現在のウォーターバレー近くに駅馬車の停車場を作った。1848年、その場所にオークランドの町が認可された。

最初に国勢調査が行われた1840年時点で、ヤロブシャ郡人口は12,248人だった。1844年、ラグズデールの停車場に郵便局が開設された。その3年後、郵便局と駅馬車の停車場はウィリアム・カーが所有する土地に移され、名前もウォーターバレーと改称された。

テネシー州出身で、1845年から1849年までアメリカ合衆国大統領を務めたジェームズ・ポークは、初期ヤロブシャ郡の著名土地所有者だった。1835年にコーフィビルの南にプランテーションを購入していた。1849年にポークが死んだ後、その妻がプランテーションを経営して、長年成功していたが、その後売却した。

1850年、郡人口は17,258人に増加した。1852年、カルフーン郡が設立され、ヤロブシャ郡東部境界にあった郡区がカルフーン郡に渡された。

1850年代後半、イリノイ・セントラル鉄道がテネシー州ジャクソンからグレナダまで支線を建設し、ウォーターバレーとコーフィビルを通った。イリノイ・セントラル鉄道はコーフィビルに駅を開設したいと考えたが、望み通りの土地が得られなかった。できて間もないウォーターバレーの住民が、鉄道会社の必要とする土地の寄付を申し出た。駅がウォーターバレーに作られ、直ぐにこの町が郡内最大の町に成長した。1858年、人口がまだ300人のときに公式に町に昇格した。

1860年の郡人口は16,952人に減少していた。ウォーターバレーは、ホテル2軒と幾つかの教会がある繁栄する町になっていた。最初の教会は1843年に建設された長老派教会だった。その2年後第一メソジスト教会が組織化され、1860年には第一バプテスト教会が続いた。

ニューオーリンズからオハイオ川に至る鉄道が完成すると、ウォーターバレーは南北戦争勃発時点でミシシッピ・セントラル鉄道の重要な鉄道町になっていた。

1862年、北軍ユリシーズ・グラント将軍が陸路ヴィックスバーグ市の攻略に向かったときに、ウォーターバレーの町を占領したが、コーフィビル北での戦闘で南軍に敗れ、撤退を強いられた。その退却時に北軍はウォーターバレーの町の大半を焼いた。

戦後、イリノイ・セントラル鉄道の駅がウォーターバレーに建設され、大量の新しい住民が町に入ってきた。1867年、ヤロブシャ郡最初の製造業であるヤコナ・ミルズは世界最大のより糸工場となった。

ミシシッピ州のレコンストラクション議会は多くの郡を創設した。1870年にはグレナダ郡が作られ、ヤロブシャ郡南部にあった2つの郡区を割譲した。

1873年3月、ヤロブシャ郡は2つの司法区に分割され、ウォーターバレーが2番目の司法区の郡庁所在地に指定された。ウォーターバレーの町はヤロブシャ郡とラファイエット郡の郡境に跨っていたので、州議会はラファイエット郡南部の幅2マイル (3 km) の帯状地を割譲させた

1873年、ティラドバの町が認可された。1880年のヤロブシャ郡人口は15,649人になっていた。

1889年、コーフィビルにあった2代目郡庁舎が火事で焼けた。この建物は1840年に25,000ドルを掛けて建設されていた。3代目の郡庁舎にも25,000ドルを掛けて1890年に建設した。この都市郡人口は16,629人だった。

1893年、著名な鉄道技師J・K・"ケーシー"・ジョーンズがテネシー州ジャクソンからウォーターバレーに移ってきた。1896年、ジャクソンに戻ったが、その4年後にジョーンズを有名にした列車事故で殉職した。

1896年、ウォーターバレーに新しい郡庁舎が建設されたが、16年後には失火で焼失した。第2司法区の事務所はウォーターバレー市役所に移されたが、それから1か月後には市役所も焼失した。火事の後に郡庁舎が再建され、三階が建て増されたが完成はしなかった。

1910年の国勢調査でヤロブシャ郡人口は21,519人となり、これがピークだった。1920年には18,738人に減少し、その後の50年間は着実に減り続けた。

1926年から1928年、ヤロブシャ郡は2回の経済的な挫折を経験した。1926年4月、450人を雇用していたヤコナより糸工場が火事で焼失した。翌年、イリノイ・セントラル鉄道がウォーターバレーにあった駅をパデューカに移転させることを始めた。1928年末までに、一時は800人以上を雇用していたこの駅が完全に閉鎖された。

1931年、ウォーターバレーで最初のスイカ・カーニバルが開催された。これは大きな成功であり、2万人の観衆を集めた。スイカ・カーニバルは毎年恒例の行事になり、ウォーターバレーが全国に認知されたので、1932年には「世界のスイカ首都」を名告った。1941年12月に第二次世界大戦が始まったことでスイカ・カーニバルは中断され、再開されたのは1980年になってからだった。それからは毎年8月第1土曜日に開催されている。

第二次世界大戦の後は郡内にほとんど製造業が残らず、1950年の人口は15,191人にまで落ち込んだ。1950年代初期、アメリカ陸軍工兵司令部が軍周辺で2つの洪水制御用貯水池の建設を始め、肥沃な低地数千エーカーを失う農夫にとっては悲劇だった。エニド湖とグレナダ湖はどちらも1955年に完成し、地元民や観光客にとって新たなレクリエーション地となった。

1960年の郡人口は12,502人、1970年には11,915人と底を打った。その後は幾らか回復し、1980年には13,139人となった。

1960年代以降は新しい産業が生まれ、経済発展に繋がった。現在では雇用数の大きな事業2つで2,000人以上を雇用しており、他の事業でも数百人を雇用している。

地理[編集]

アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は495.00平方マイル (1,282.0 km2)であり、このうち陸地467.12平方マイル (1,209.8 km2)、水域は27.88平方マイル (72.2 km2)で水域率は5.63%である[4]

主要高規格道路[編集]

隣接する郡[編集]

国立保護地域[編集]

  • ホリースプリングス国立の森(部分)

人口動態[編集]

人口ピラミッド[5]
人口推移
年度 人口
1840 12,248
1850 17,258 40.9%
1860 16,952 −1.8%
1870 13,254 −21.8%
1880 15,649 18.1%
1890 16,629 6.3%
1900 19,742 18.7%
1910 21,519 9.0%
1920 18,738 −12.9%
1930 17,750 −5.3%
1940 18,387 3.6%
1950 15,191 −17.4%
1960 12,502 −17.7%
1970 11,915 −4.7%
1980 13,139 10.3%
1990 12,033 −8.4%
2000 13,051 8.5%
2010 12,678 −2.9%
MS Counties 1900-1990
GeoHive - 2000 & 2010 statistics

以下は2000年国勢調査による人口統計データである。

基礎データ

  • 人口: 13,051人
  • 世帯数: 5,260 世帯
  • 家族数: 3,597家族
  • 人口密度: 11人/km2(28人/mi2
  • 住居数: 6,224軒
  • 住居密度: 5軒/km2(13軒/mi2

人種別人口構成

年齢別人口構成

  • 18歳未満: 25.6%
  • 18-24歳: 8.9%
  • 25-44歳: 26.1%
  • 45-64歳: 23.8%
  • 65歳以上: 15.7%
  • 年齢の中央値: 38歳
  • 性比(女性100人あたり男性の人口)
    • 総人口: 91.3
    • 18歳以上: 86.2

世帯と家族(対世帯数)

  • 18歳未満の子供がいる: 29.7%
  • 結婚・同居している夫婦: 46.6%
  • 未婚・離婚・死別女性が世帯主: 17.6%
  • 非家族世帯: 31.6%
  • 単身世帯: 28.7%
  • 65歳以上の老人1人暮らし: 14.0%
  • 平均構成人数
    • 世帯: 2.46人
    • 家族: 3.02人

収入[編集]

収入と家計

  • 収入の中央値
    • 世帯: 26,315米ドル
    • 家族: 31,801米ドル
    • 性別
      • 男性: 27,009米ドル
      • 女性: 20,236米ドル
  • 人口1人あたり収入: 14,953米ドル
  • 貧困線以下
    • 対人口: 21.8%
    • 対家族数: 19.5%
    • 18歳未満: 30.1%
    • 65歳以上: 21.2%

都市と町[編集]

都市[編集]

[編集]

未編入の町[編集]

  • スコビー

著名な出身者[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Quickfacts.census.gov - Yalobusha County - accessed 2011-12-06.
  2. ^ American FactFinder - Water Valley, Mississippi - accessed 2011-12-06.
  3. ^ American FactFinder - Coffeeville, Mississippi - accessed 2011-12-06.
  4. ^ Census 2010 U.S. Gazetteer Files: Counties”. United States Census. 2011年11月5日閲覧。
  5. ^ Based on 2000 United States Census data

外部リンク[編集]

座標: 北緯34度02分 西経89度43分 / 北緯34.03度 西経89.72度 / 34.03; -89.72