ケイシー・ジョーンズ

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ケイシー・ジョーンズ

ケイシー・ジョーンズことジョナサン・ルーサー(ジョン)ジョーンズ(Johnathan Luther (John) ("Casey") Jones、1863年3月14日 – 1900年4月30日)[1]米国テネシージャクソン出身でイリノイ・セントラル鉄道 (IC) に所属したアメリカ人蒸気機関士。幼少時代にケンタッキー州の町ケイス (Cayce) 近くに住んでいたことがあり、このときに "Cayce" というニックネームを貰ったが、本人がこれを "Casey"(ケイシー)と綴るようになった[2]。1900年4月30日、霧と雨の降るミシシッピーボーンで、立ち往生していた貨物列車に彼の運転する旅客列車「キャノンボール・エクスプレス号」が衝突し、彼一人が命を落とした。

大勢の命を救うために列車を止めようとした劇的な死は、友人でもあった IC の黒人掃除夫であるウォーレス・サンダースが歌ったバラードによって、現代でも人々の心にヒーローとして息づいている。

目次

結婚 [編集]

下宿屋の家主の娘である黒髪のメアリー・ジョアンナ(ジェニー)ブレーディー (Mary Joanna ("Janie") Brady) は、ジョーンズが猛烈な食欲を持ち、また、彼女が微笑みかけるとたちまち赤面することに気づいた。ジョーンズはすぐに彼女と恋に落ち、結婚を申し込む決心をした。カトリックだった彼女を喜ばせるために1886年11月11日にアラバマウィスラーにある聖ブリジェット・カトリック教会で洗礼を受けた[3][4]。そして1886年11月25日にはジャクソンにある聖メアリー・カトリック教会で結婚、すぐに同じジャクソンに家を買い求め、3人の子供をもうけた。誰に聞いても、彼は家庭的な男であり、また厳格な禁酒家だったという。

機関士への昇格 [編集]

ジョーンズは勤務していたモビール・オハイオ鉄道でよく仕事をしたのでコロンバス / ジャクソン線の制動手に昇進した。続いてジャクソン / モビール線の火夫になった[5]

1887年の夏は、隣のイリノイ・セントラル鉄道の乗務員の間で黄熱病が流行したため欠員が生じた。より大手であったこの鉄道会社が火夫の求人を行ったのでこれに応募し、1888年3月1日にイリノイ・セントラル鉄道に転職した。ジョーンズはジャクソン / ウォーターバレー線の貨物列車の機関車火夫となった。

1891年2月23日、彼はついに人生の目標であった機関士に昇進した。ジョーンズはイリノイ・セントラル鉄道の名機関士という、鉄道員として最高の地位を得た。

ジョーンズは、まるで鉄道の申し子のような男であると仲間からも認識されていた。自分の列車を目的地に定刻で到着させることに強く執着し、実際、遅れて到着することが無かったので、人々は彼の到着に合わせて懐中時計をセットすると言われるほどだった。

ジャクソンでの彼の仕事は、主としてジャクソンとウォーターバレーという二つの駅間の貨物輸送だった。どちらもイリノイ・セントラル鉄道において重要かつ混雑の激しい駅だったが、1890年から1990年にかけて、彼は両者の密接な関係を発展させる役割を果たした。

有名な汽笛 [編集]

ジョーンズは、汽笛の鳴らし方が独特であることでも有名だった。彼の汽笛は細いチューブを6本束ねたもので、もっとも長いチューブはもっとも短いそれの2倍くらいの長さを持っていた。ソフトにはじまり次第に音量を上げていき、最後はささやくように終わる汽笛が彼のトレードマークとなった。「ヨタカのさえずり」、「バイキングの喊声」など、様々な呼ばれ方をした。ジャクソン / ウォーターバレー線沿線住民らは夜中にジョーンズの汽車が通過するとベッドの中で寝返りを打ち、「ケーシー・ジョーンズが来たぞ!」とつぶやいた、という[5]

1893年シカゴ万博での輸送従事 [編集]

1893年のシカゴ万国博覧会では、イリノイ・セントラル鉄道が、予想される多数の来場者の輸送に携わることになった。会社がこの仕事に就く者を募集し、ジョーンズは妻と楽しい夏が過ごせると考えてこれに応募した。博覧会の期間中、バンビューレン通りとジャクソンパーク間のシャトル便の運転を行った。これが最初の旅客輸送の経験となり、彼はこれが好きになった[5]

博覧会会場にはイリノイ・セントラル鉄道の展示品として638号機関車が最新且つ先進技術を持つ機関車として展示されていた。これは8つの動輪と2つの先輪をもつ、いわゆる2-8-0 コンソリデーション型機関車だった。博覧会が終わると、638号機はジャクソン地区での運用のためウォーターバレーに回送されることになった。ジョーンズはこの回送の機関士を願い出て承認され、638号機の初運行となる589マイルを彼一人で運転した。ジョーンズは、家族の住むジャクソン地区でこの638号機を運転することを好んだ。一度はウォーターバレーに引っ越したこともあったが、やはり家族にとっての真の故郷はジャクソンだった。ジョーンズは1900年の2月にメンフィスに異動となったが、638号機は依然ウォーターバレーに残った。この年に、彼が一度だけ運転したのが、"Ole 382" の愛称を持った382号機関車であり、直径がおよそ1メートル80センチの動輪を6つ持ったロジャーズ製の4-6-0 テンホイーラー型だった。1898年に購入したばかりで、当時としては最強の機関車の一つだった。

1897年に貨物列車の運転をやめてメンフィスを去るまでは、638番機関車を運転する際にはいつも火夫であり親友のジョン・ウェズリー・マッキニーが専属で付いていたが、1900年当時はシム・ウェッブが火夫だった[5]

規則違反 [編集]

ジョーンズはその経歴の中で9回の規則違反を犯しており、合計145日間の職務停止命令を受けている。仲間の鉄道員らはジョーンズのことが好きだったが、一方で彼は抜け目のない男であるとも考えられていた。非公式にではあるが、列車を遅延させることによる罰則は、規則違反を犯すことによるそれよりもはるかに厳しかった。誰に聞いてもジョーンズは野心的な機関士であり、給料が良くて優先度が高い旅客列車の運転ができるようになるために昇進したいと考えていた。なぜなら旅客列車は、同じ旅客列車に追い抜かれるために側線に退避することはあっても、貨物列車に追い越されることは決してなかったというのが主な理由だった[6]。そして第1列車から第4列車までの旅客列車はあらゆる列車の中で最優等に扱われ、退避を行わなくてはならないのは、これらの4列車のどれかとすれ違う時だけだった。

旅客列車機関士への転身 [編集]

ジョーンズはすぐに定期旅客列車を運転するチャンスをつかんだ。1900年の2月に、ジャクソンからメンフィスに異動となり、ここでメンフィス / カントン間の旅客列車を担当する機関士となった。この路線は、シカゴとニューオーリンズを結ぶ幹線を運行する、当時「キャノンボール」と呼ばれた高速郵便列車や客車列車4本の特急列車群の一角を形成するもので、鉄道史上最も高速な運転時分を売り物としていた。何人かのベテラン機関士たちは、このダイヤでは無理だと言い、幾人かの退職者を出すほどだった[5]

ビル・ハットフィールド機関士がメンフィスからウォーターバレーに異動となったため、第2列車(北行)、および折り返し第3列車(南行)の機関士が空席になった。家族も一緒にジャクソンからメンフィスに引っ越すことになるし、火夫であり親友のジョン・マッキニーと638号機にも別れを告げなくてはならなかったが、これはこれで良いことだと割り切ってハットフィールドの代わりを願い出た。ハットフィールドが運転していた384号機関車はジョーンズの愛機となった。

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1900年4月29日、カントンからの第2列車(機関車は384号機)を運転してきたジョーンズはテネシー州メンフィスのポプラストリート駅にいた。普段、翌日の運転のための待機宿泊地はメンフィスであったが、382号機が牽引する第1列車(シカゴ・ニューオーリンズ・リミテッド号、後には有名な「パナマ・リミテッド」と呼ばれたことで知られている)と、その折り返し第4列車(ニューオーリンズ・ファストメイル号)をいつも運転しているサム・テイトが、痙攣を起こしたためジョーンズに第1列車のカントンまでの運転を代わってくれと頼んできた[7]。ジョーンズはどんなに困難な状況でも定時運行するということへの挑戦がことのほか好きだった。

高速の出る機関車、優秀な火夫(シメオン・T・ウェッブはこの列車専属の火夫だった)、加えて軽量な客車は、記録を作るのに理想的だった。雨が降っていたが、この時代の蒸気機関車は湿度が高い状態で最も動きが良かった。だが、その晩の天候は霧が濃く(このため視界が悪い)、路線はカーブの多いことでも有名だった。その晩において、この二つの状況が致命的だった。 第1列車(6両編成)は通常、午後11時15分にメンフィスを出発し翌朝の4時5分に、南に188マイル先のカントンに到着する。この日は機関士の交代のため定刻に発車できず、95分遅れの午前0時50分出発となった[5]

メンフィスからグレナダまでのはじめの100マイルは、途中50マイル地点のサルディスで給水をして、新設で路盤の悪い線路を毎時80マイル(時速129キロメートル)で走った。40マイル地点のサナトビアでは、前年の11月に死亡事故を経験していたので給水せずに通過した。グレナダで給水をしたときには55分遅れまでに回復していた。 ジョーンズはウィノーナまでの次の25マイルを15分で走った。さらに次のデュラントまでの30マイルの間は速度制限を伴うようなカーブが無い区間だった。デュラント(155マイル地点)に着いたのはほとんど定刻だった。

デュラントでは、「8マイル先(163マイル地点)のグッドマンで側線に入って第2列車の通過待合せをし、その後はボーンに向かって進んでよい、さらにボーン駅(グッドマンから15マイル先)で第26列車と列車交換せよ」、との指令を受けた。第26列車は各駅停車のローカル列車なので、ジョーンズの第1列車に優先権があるため側線で退避している。ジョーンズはグッドマンを5分遅れで出発し、25マイルの区間を高速で走りながら、会社の広告通りの定刻午前4時5分にカントンに到着できるチャンスであると半ば確信していた。

ボーン駅では、重連牽引の第83貨物列車(先頭が南側)と長い編成の第72貨物列車(先頭が北側)の両方が本線東側の待避線に入っていたが、貨車の数が多すぎたため、第83貨物列車の北側最後尾がポイントを超えて本線にはみ出していた。これは、北方向に進む第26旅客列車がカントンから既に到着しており、この第26列車を本線西側の待避線に退避させるために北端部のポイントを通過する必要があり、このために必要な操作だった。次いで第72貨物列車が後退し、同時に第83貨物列車が前進することで、(今度は第72列車の最後尾が北端部ポイントを超えて本線上にはみ出るが)東側待避線の南端部ポイントをジョーンズの第1列車が通過することができる(この種の操車作業を "saw-by" と呼ぶ)。ところがその時、第72貨物列車の貨車ブレーキホースが破裂して動けなくなってしまった。このために第83列車も前進できず、結果として第83列車の最後尾が本線に残っていたものだった。

そのころジョーンズは遅れをほとんど取り戻し、時速75マイルでボーンに向かって走っていた。半径1.5マイルの左カーブを走っていたため右側にある機関士席からは前方がよく見えなかったため、危険を感じていなかった。左側にいた火夫のウェッブは多少前方が見えた。はじめに本線上に残っていた列車の最後尾にある車掌車の赤いランプが見えた。「何てこった、本線上に何かいるぞ」とジョーンズに告げた。ジョーンズはすぐに「飛び降りろ、飛び降りるんだ、シム!」と叫んだ。シムは衝突地点のおよそ300フィート手前で飛び降り、衝撃で気絶してしまった。飛び降りるときに聞いたのはジョーンズが貨物列車のみんなに危険を知らせるために鳴らした長い汽笛だった。このとき定刻から2分遅れていた[5]

ジョーンズは逆転を掛け、エアブレーキを非常位置とした。しかし382号機は木造の車掌車、干し草や穀物、材木を積んだ貨車を次々と粉砕し、ついには脱線した。ジョーンズが運転台に残って減速させたので、当初毎時75マイルだった速度は衝突時には35マイルほどになっていた。このために乗客らのなかには死者や重傷を負ったものは発生しなかった(この衝突事故の唯一の死者はジョーンズだった)。彼の時計は発見されたとき午前3時52分を指していたという。残骸からジョーンズの体を引き出した際、彼はまだ命があり、警笛の紐とブレーキレバーを握りしめていたというのが伝説となっている。1/2 マイル離れた駅までストレッチャーで運ばれたのちに死亡したとされている[5]

イリノイ・セントラル鉄道事故報告書 [編集]

衝突の5時間後には車掌による報告がなされており、これによれば、「適切な距離にいた旗手による信号を第1列車の機関士が見落とした」というものだった。その後に発表されたイリノイセントラル鉄道公式報告書でもこれが採用された。

A.S.サリバンによるイリノイセントラル鉄道の公式事故報告書は1900年7月13日に発表されたが、「ニューベリー旗手による信号を機関士が見落としたもので、責任は一にジョーンズにある」とされた。ジョン・M・ニューベリーは、ジョーンズが衝突した南行第83貨物列車の旗手であり、3,000フィート手前の線路上に信号雷管をセットし、さらに500ないし800フィート南に進み、そこでジョーンズの列車に対して旗を用いた信号を送ったという。しかしニューベリーによるこの証言には裏付けとなる証拠はなく、本当はそこにいなかったのではないかと考える者もいる。旗の振り方がまずかったのではないかと考える者もいたが、ニューベリーは旗手として充分な経験を持っており、直前には第25列車に信号を出して停車させている。火夫であるシム・ウェッブは雷管の爆発音を聞き、進行方向右側にある機関士席側に行った際に、赤白のランプを持った旗手を見たと述べた。さらに、火夫側に戻った時に第83列車の車掌車のマーカーを見て、ジョーンズに声を掛けたという。しかしこれには矛盾があり、旗手がその報告通りに、設置した雷管のさらに500ないし800フィート南側で合図をしていたとすると、順番が逆になる。信号雷管が爆発した時、列車はすでに旗手を通り過ぎており、乗務員に旗手が見えるはずがない。したがって、ウェッブの証言通りであるならポイントから3,500ないしは3,800フィート離れた位置ではなく、3,000フィート程度しか離れていなかったことになり、これはまさに「ジョーンズには旗手が見えなかった」ということになる。第25列車を止めた後、第72列車のブレーキホース故障の騒ぎが起こり、第83列車が本線を支障してしまった。彼(旗手)はジョーンズの列車が来るにはまだ時間があると思って、様子を聞きに第83列車に行ったと考えることは可能である。その後北に向かって歩いていき、信号雷管を取り付けたが、報告書通りにさらに500ないし800フィート先に行きつく前にジョーンズの列車の音が霧の向こうから聞こえてきた。この通りだったら、ジョーンズは500ないし800フィートの制動距離を失ったことになる。この距離は衝突を回避するのに十分な距離であった。事実がどうであったにせよ、鉄道史家のうちの幾人かは、ジョーンズの機関士としての経験を考慮すると、旗手の信号を見落として、照明弾や信号雷管の爆発で初めて危険を察知したとは信じることはできないとして、公式報告書に異議を唱え続けている。

公式事故報告書に対して、それが公になったやや後から、ウェッブは「我々は旗手や照明弾を見ていないし、信号雷管の爆発音も聞いていない。何も知らずに車掌車に突っ込んだのだ」と死ぬまで言い続けた。

テネシー州メンフィスの事故現場に立つ標識

大衆文化への影響 [編集]

この事故は全米に大きく報道されて大きな感動を呼んだ。彼を讃える多くの歌や物語が作られ、その名をアメリカ国民に深く浸透させた。半世紀後の1950年にはディズニー短編アニメ映画『勇敢な機関士』(The Brave Engineer) を制作した。また、ディズニーは「リラクタント・ドラゴン」、「ダンボ」に彼の3人の子供のうち末っ子のあだ名から取ったケイシー・ジュニアという蒸気機関車のキャラクターを登場させている。

彼が事故時に乗っていた蒸気機関車382号機は「ケイシー・ジョーンズ」の愛称で呼ばれるようになった[8]

ギャラリー [編集]

関連項目 [編集]

脚注 [編集]

  1. ^ Facts About Casey Jones”. CaseyJones.com. 2012年12月26日閲覧。
  2. ^ [1]["Erie Railroad Magazine" Vol 24 (April 1928), No 2, pp. 13,44.]
  3. ^ Lee, Fred J. (2008). Lee Press. ISBN 9781443728928. http://books.google.com/books?id=i7BXmLgxYfACtitle=Casey Jones: Epic of the American Railroad. 
  4. ^ Casey Jones' Whistler Museum And Park -- Hon. Sonny Callahan (Extension of Remarks - October 14, 1993)”. Congressional record. 2013年2月5日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h Water Valley Casey Jones Railroad Museum in Water Valley, Mississippi”. 2013年2月5日閲覧。
  6. ^ Casey Jones Railroad Museum State Park in Vaughan, Mississippi
  7. ^ Under Illinois Central's numbering scheme at the time, southbound trains were assigned odd numbers while northbound trains were assigned even numbers.
  8. ^ 4-6-0 IC Casey Jones (AHM-Rivarossi) Oゲージの玉手箱

外部リンク [編集]

ケイシー・ジョーンズを記念した鉄道博物館

ケイシー・ジョーンズを歌った歌