ミンナ・カント

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ミンナ・カント
Minna Canth
ミンナ・カント
ペンネーム Wilja
Teppo
Airut
誕生 ウルリカ・ウィルヘルミナ・ジョンソン
(1844-03-19) 1844年3月19日
フィンランド大公国の旗 フィンランド大公国 タンペレ
死没 (1897-05-12) 1897年5月12日(53歳没)
フィンランド大公国の旗 フィンランド大公国 クオピオ
墓地 クオピオの要人墓地
職業 小説家
劇作家
ジャーナリスト
社会活動家
言語 フィンランド語
スウェーデン語
教育 スウェーデン女子学校
最終学歴 ユヴァスキュラ神学校
ジャンル 戯曲
短編小説
主題 女性解放
文学活動 写実主義運動
代表作 『労働者の妻』
デビュー作 『小説と物語集』
配偶者 ヨハン・フェルディナンド・カント
子供 7人
署名
ウィキポータル 文学
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ミンナ・カントフィンランド語: Minna Canth1844年3月19日 - 1897年5月12日)は、フィンランドの小説家劇作家ジャーナリスト社会活動家[1][2]ユハニ・アホとともに、近代におけるフィンランドの写実主義(リアリズム)の文学を代表する人物として知られ、代表作に戯曲『労働者の妻フィンランド語版』などがある[1][3]。著作活動を通して女性解放のために尽力した[4]。「カント」は「カントゥ」または「カンス」とも表記される[3][5]。本名は、ウルリカ・ウィルヘルミナ・ジョンソン (Ulrika Wilhelmina Johnson) である[1][6][7]

生涯[編集]

生い立ち[編集]

若い頃のミンナ
カンッティラ

1844年、タンペレプータルハ通りフィンランド語版8番地にある労働者階級の家の長女として生まれた[8][7][9][10]。4人きょうだいの第2子であったが、第1子のアドルフ (Adolf) が生後間もなく死去したため、きょうだいの中ではミンナが事実上最も年上であった[9]

父親は、グスタフ・ヴィルヘルム・ジョンソン (Gustaf Vilhelm Johnson) であり、ジェームス・フィンレイソン英語版の紡績工場の労働者であったが、後に工場長となった[11][12]。母親のウルリカ・アンティンティタール (Ulrika Antintytär Archelin) は主婦であり、カンガサラ英語版フィンランド語版の農家で生まれ育った人物であった[7][13]

ミンナは、6歳のとき、紡績工場が従業員の子どものためにタンペレに開設したスウェーデン語学校に入学した[7][11]。1853年、8歳のとき、父親がクオピオにある、フィンレイソンの繊維製品店のオーナーとなり、家族でタンペレを離れてクオピオに移り、カンッティラフィンランド語版と呼ばれる家に住み始めた[8][13][9][14][11][10]。ミンナは、父親の店を訪れた客と話をしたり、客にサービスを提供したりすることを通して、商売の基本を学んだ[7]

父親はミンナの才能を見込んで、読書や音楽に親しむことを勧めており、また、父親が商売に成功したためミンナは、通常は上流階級の人々のために提供される、質の高い教育を受けることができた。こうしたこともあり、ミンナはフィンランドの社会を理解し、これが後の著作活動に活きている[7][8]。クオピオでは、スウェーデン女子学校 (Svenska fruntimmersskolan i Kuopio) など様々な女子校に通学し、フランス語ドイツ語ロシア語などを履修した[11][13][15]。学校から帰ってくると父親の仕事を手伝う毎日を送っていた[15]

ユヴァスキュラ時代[編集]

夫のフェルディナンドとユヴァスキュラで

父親はミンナには、裕福な家柄に嫁いでほしいと思っていたが、ミンナ本人は、将来自活するための教育的支援を受けたいと考えていた[16]。当時、女性に開かれていた専門職は、教師および助産師に限られており、ミンナは教師になることを目指して1863年に親元を離れ、その年に設立されたユヴァスキュラ神学校フィンランド語版の開校初年度の学生となり、小学校教員の資格を得て卒業した[16][11][17][18][19][20][8]。ミンナが、自らのファーストネームとして「ミンナ」を使い始めたのは、この頃からである[21]

神学校では、フィンランド語スウェーデン語、数学や地理・歴史、心理学や教育学、芸術や宗教学などを履修した[22][15]。この神学校で科学を教えていたヨハン・フェルディナンド・カントフィンランド語版と1865年4月に婚約を交わし、同年9月に2人は結婚する[20][8][7][13]。結婚すると、ミンナは勉強を辞める。当時は、既婚の女性が勉強をすることは相応しくないとする風潮があった[23][18][24]

ミンナは生涯で計7人の子どもをもうけたが、いずれもユヴァスキュラにおいてであり、長子の誕生が1866年、末子の誕生が1880年である[25][21]。夫は、パイエンネ紙フィンランド語版およびケスキスオマライネン紙フィンランド語版の2つの新聞の編集に携わっており、ミンナは1874年から1879年にかけて、これらの新聞に、女性解放などを扱った記事および短編小説を投稿した[26][27][8]

ミンナが書いた最初の新聞記事は、1874年にケスキスオマライネン紙に掲載された “Tyttäriemme kasvatus” というタイトルの記事であり、これによってミンナはジャーナリストとしてのキャリアを開始させた[28][29][26]。1878年発表の短編小説『小説と物語集』(Novelleja ja kertomuksia) で小説家としてデビューする[1]。1879年7月13日、35歳のとき、夫のフェルディナンドを亡くす[4][30][31][7][8]

クオピオへ[編集]

カールロ・ヴォリによるミンナの肖像画

未亡人になったミンナは、1880年1月に第七子、リューリを産んだ後、同年3月に7人の子どもとともに、クオピオのカンッティラに戻った。そこではミンナの両親やきょうだいが住み、父親が繊維製品店を開いており、父親の死後は母親やきょうだいが経営を行っていたが、1881年の夏にミンナがその経営を引き継いだ[18][32][17][33][14][7][8]。1884年ごろには、弟が経営していた雑貨店も引き継ぎ、ミンナは実業家として成功した。安定した収入を得るようになったミンナは、著作活動に打ち込むことができるようになった[32][16]

サロンでカード遊びをする様子。左からハンナ・レヴァンダー、アルマ・テルヴォ、マイユ、ミンナ
ミンナの墓。隣には次女エッリの墓がある。

ミンナは、カンッティラでサロンを開催した[34]。1880年代から1890年代にかけて、次のようなの文化人がサロンに参加した[34][35]

教師のエリサベト・ステニウスフィンランド語版や小学校校長のセルマ・バックルンド (Selma Backlund) の他に、リディア・ハックマン (Lydia Herckman) やエリサベト・イングマン (Elisabeth Ingman) などのクオピオの文化人もサロンに参加した[36][34]

1891年、ノルウェーの雑誌 “Samtiden” に自伝が掲載される(フィンランド語版ウィキソース:ミンナ・カントの自伝参照)[37][38]。同年、画家のカールロ・ヴォリフィンランド語版がミンナの肖像画を制作する[39]。1897年、クオピオにおいて心臓発作のために53歳で死去する[8][7][40]。ミンナは、亡くなるまでカンッティラに住んでいた[14][41]。墓は、クオピオの要人墓地英語版フィンランド語版の5番ブロックにある[42][43]

人物[編集]

切手
航空機の尾翼に描かれたミンナ

ミンナは、ヘンリック・イプセンエミール・ゾラヨハン・アウグスト・ストリンドベリの影響を受けており、戯曲や短編小説などにおいて、女性や労働者階級や貧しい人々の生活を取り巻く抑圧的な社会構造を扱い、社会の歪みや問題を暴露・糾弾した[11][4][1][8]

イルタ・サノマット紙英語版によると、ミンナはアレクシス・キヴィと並んで最も重要なフィンランド人作家であると目されることがあり、またタイタス・イェルム英語版フィンランド語版ほか著 “Historical Dictionary of Finland” には、「キヴィと並ぶ、19世紀で最も重要なフィンランド語劇作家」との評価が掲載されている[44][16]

作家のミンナ・リュティサロフィンランド語版によると、ミンナ・カントはフィンランドで最初のフェミニストであるとされ[45]、高橋静男は、彼女について「ペンによる女性解放の闘士」と表現している[4]。またミンナは、フィンランド人女性で初めてジャーナリストとなった人物であるとされる[46][47]

著作に使用した言語は、主にフィンランド語であったが、スウェーデン劇場英語版のために書かれた戯曲『シュルビフィンランド語版』にはスウェーデン語が使用されている[8][48][49][38][10]。新聞記事などを投稿する際には、Wilja, Teppo, Airut などのペンネームを用いることもあった[28]

Oiva W. Saarinenや『インディアン・エキスプレス』によると、フィンランドが1906年にヨーロッパで初めて女性参政権を導入したことに、ミンナの著作活動や女性参政権運動が寄与したとされる[50][51][52]

ミンナは、フィンランドにおけるリアリズム文学を開拓した作家のうちの1人とみなされており、社会的な論議を巻き起こした戯曲『労働者の妻フィンランド語版』は、同国のリアリズム文学を代表する作品の1つとされている[16][53][4][3]。1889年にフィンランドにおいて、既婚の女性が自らの財産を自ら所有・管理できる権利が法律によって保障されたことに、同作が寄与したとされる[54][41][18][15][12]

ミンナの生誕100周年に当たる1944年には、グラフィックデザイナーのシグネ・ハンマルステン・ヤンソン英語版がミンナの肖像を描画しデザインした切手が発行されている[39]。ノルウェーの航空会社ノルウェー・エアシャトルボーイング737-800型機垂直尾翼に描かれた人物のうちの1人でもある[55][56]

著作[編集]

戯曲[編集]

短編小説[編集]

家族[編集]

  • 夫:ヨハン・フェルディナンド・カントフィンランド語版(1835年 - 1879年)[25]
  • 父:グスタフ・ヴィルヘルム・ジョンソン(Gustaf Vilhelm Johnson, 1816年 - 1877年)[25]
  • 母:ウルリカ・アンティンティタール(Ulrika Antintytär Archelin, 1811年 - 1893年)[25][57]
  • 兄:アドルフ(Adolf, 1840年に生まれるも間もなく死去)[9][25]
  • 弟:グスタフ・ヴィルヘルム(Gustaf Vilhelm, 1850年 - 1894年)[25]
  • 妹:アウグスタ・カタリーナ(Augusta Katharina, 1852年 - 1877年)[25]
  • 長女:アンニフィンランド語版(Anni, 1866年 - 1911年)[7]
  • 次女:エッリ(Elli, 1868年 - 1944年)[7]
  • 三女:ハンナ(Hanna, 1870年 - 1889年)[7]
  • 四女:マイユ(Maiju, 1872年 - 1943年)[7]
  • 長男:ユッシフィンランド語版(Jussi, 1874年 - 1929年)[7]
  • 次男:ペッカ(Pekka, 1876年 - 1959年)[7]
  • 五女:リューリ(Lyyli, 1880年 - 1969年)[7]

ミンナの名を冠した事物[編集]

クオピオのミンナ・カント通り
ミンナ・カント公園
ミンナ・カント高校
ショッピングセンター・ミンナ

ミンナ・カントの日[編集]

フィンランドにおいて、ミンナの誕生日である3月19日は、2007年より「ミンナ・カントの日」として旗日に定められている[2][58][5]。この旗日は、ミンナの功績を称えて設けられたもので、「平等の日」または「男女平等の日」(フィンランド語: tasa-arvon päivä)とも呼ばれている[59][2]。ミンナは、自らの名が冠された旗日をもつ、フィンランドで初めての女性である[59][60]

ミンナ・カント賞[編集]

ミンナ・カント賞は2017年から開催されているもので、ミンナのように人間社会の悪を暴露するような活動をした者を選考し授与する[61]。この賞の賞金は、フィンランドフェア財団フィンランド語版が出資している[62][2][63]フィンランド作家協会フィンランド語版フィンランドジャーナリスト協会フィンランド語版Mieliフィンランドメンタルヘルス協会フィンランド語版マンネルヘイム児童保護連合フィンランド語版やミンナ・カント協会 (Minna Canthin seura) など様々な団体の代表者が、この賞の審査員を務めている[64]

ミンナ・カント通り[編集]

ミンナの名が冠された通りは、ヘルシンキユヴァスキュラクオピオおよびタンペレに所在する[65][66][42][43][67]

その他[編集]

彫像・記念碑[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「カント」の解説”. コトバンク. 2021年8月9日閲覧。
  2. ^ a b c d 駐日フィンランド大使館 [@FinEmbTokyo] (2021年3月19日). "2021年3月19日のツイート". X(旧Twitter)より2021年8月9日閲覧
  3. ^ a b c セルボ貴子 (2019年8月14日). “【書評】150年前のフィンランドでフェミニズムを推進した劇作家ミンナ・カントゥの半生を史実と美しい文体と想像力で紡いだ物語”. 北欧語書籍翻訳者の会. 2021年8月9日閲覧。
  4. ^ a b c d e 高橋静男. “カント(Minna Canth) - 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説”. コトバンク. 2021年8月9日閲覧。
  5. ^ a b フィンランド流にお祝いする”. フィンランド政府観光局 (2019年8月14日). 2021年8月9日閲覧。
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  8. ^ a b c d e f g h i j k Katharina 2013, p. 75.
  9. ^ a b c d Myrskylintu Tampereelta”. Kuopion kulttuurihistoriallinen museo. 2021年8月9日閲覧。
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    Finnish author Minna Canth could, and she did”. Suomi ulkomailla (2017年3月28日). 2021年8月9日閲覧。
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参考文献[編集]

外部リンク[編集]

  • ウィキメディア・コモンズには、ミンナ・カントに関するカテゴリがあります。