マーサ・ワシントン
マーサ・ワシントン(英:Martha Dandridge Custis Washington、1731年6月2日 - 1802年5月22日)は、初代アメリカ合衆国大統領ジョージ・ワシントンの妻。初代の合衆国ファーストレディとも見られるが、彼女の生前にはそうした呼び方が無かったので、単にワシントン夫人として知られている。
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伝記 [編集]
1731年6月2日の未明に、ヴァージニア植民地のウィリアムズバーグに近いニューケント郡にある、チェスナット・グローブ・プランテーションで、ヴァージニアの農園主ジョン・ダンドリッジ(1700-1756)とフランシス・ジョーンズ(1710-1785)夫妻の長女として生まれた[1] [2]。
18歳の時に20歳年上の富裕な独身男性、ダニエル・パーク・カスティスと結婚。2人はチェスナット・グローブから数マイル上流の、パムンキー川南岸にあったホワイトハウス・プランテーションに住んだ。カスティスとの間に4人の子をもうけた。上の2人は早世したが、下の2人のジョン・パーク・カスティス(1754-1781)とマーサ・パーク・カスティス(1756-1773)はある程度長く生きた。1757年、夫が亡くなった事でマーサは裕福な未亡人となり、未亡人としての固有資産と、幼い2人の子の信託遺産を1人で管理することになった。
1759年1月6日にジョージ・ワシントンと結婚した。結婚後間もなく、ワシントンはイギリス軍の植民地部隊から除隊する。これはイギリス正規軍の指揮官には植民地の者を除外するという、イギリスの方針に基づいていた。2人はワシントンの所有するマウントバーノン農園で裕福で、明らかに幸せな暮らしを送ることになった。2人の間には子供が生まれず、マーサの連れ子2人を育てた。息子のジョンは1781年のヨークタウンの包囲戦でワシントンの副官として従軍するが死亡(チフスと考えられている)。ジョンの死後、ワシントンはジョンの2人の子供、マーサからみて孫となるエレノア・パーク・カスティス(1779-1852)、ジョージ・ワシントン・パーク・カスティス(1781-1857)を育てた。2人はダンドリッジ家やワシントン家の姪や甥、その他の一族も物心両面で支援した。
マウントバーノン農園やカスティス農園の家での生活で個人的に満足はしていたものの、大陸軍の総司令官に指名された夫に従って、戦場を訪れることがあった。有名なバレーフォージの冬も夫のもとで過ごし、将兵の士気を一定の水準に維持する役割を果たした。だが夫がアメリカ合衆国の大統領に選ばれることには反対し、1789年4月30日の就任式には欠席した。しかし2期にわたる任期の間は、国の正式な女性代表者として、奥ゆかしく務めを果たした。
2人はマウントバーノンで死に、1802年5月22日にその地に埋葬されている。そして1831年にマーサの遺骸は、最初に埋められた場所から数百フィート離れた、ポトマック川を望む煉瓦造りの墓に移された。
マーサと奴隷制度 [編集]
上流階級の南部白人の家庭であった故、奴隷制度を目前に育ったが、「南部の機構」の倫理的また道徳的な基本について問題にすることはなかった。イギリスの通常法においてカスティスの遺産の3分の1を相続し、そこからの収入で生活していたが、その資産は多くのプランテーションや農園とそこで働く、多くの奴隷男女と子供達のためであった。ワシントンとの結婚によって、ワシントンが法廷の監視のもと、カスティスの遺産も法的に管理することになった。農園の記録はマーサが多くの決裁を行い続けたことを示している。ワシントンは管理的なことに影響を及ぼし、農園から上がる収入を受け取っていたが、息子ジョンの相続持ち分である土地や奴隷を売却することは無かった。
しかし、彼女の侍女でカスティス農園の奴隷少女オニー・ジャッジが、大統領2期目の時にフィラデルフィアの持ち家から逃亡した時は動揺している。ジャッジは市内の自由黒人の友人の家に隠れ、その後北方に動いた。パトリシア・ブラディは、2005年に出版したマーサ・ワシントンの伝記の中で、次の様に書いている。
- 彼女が世話をしていた、世慣れない少女に対する責任を感じていた。とりわけ少女の母や姉妹がマウントバーノンに戻ってくれるよう期待していたからである。マーサが理解できなかったことは、オニー・ジャッジが単純に自由になりたいと願っていたことだった。オーナ(こう呼ぶことを好んだ)は楽しい場所で生活し楽しい仕事をし、読み書きを習いたかった。オーナはマーサを尊敬し、その待遇にも不満は無かったが、自分が、そして自分の子供達が、将来も奴隷であることに耐えられなかったと告白した。
そして一家のフィラデルフィアでの生活の最後の週に、コック長で奴隷のハーキュリーズが逃亡する。マウントバーノンにはハーキュリーズの娘が残されたが、その娘は父が自由になれて嬉しいと語ったという。
歴史家ヘンリー・ビンセックは、2004年の著書「全能ではない神:ジョージ・ワシントン、その奴隷、そしてアメリカの創造」の中で、マウントバーノンとバージニア歴史協会に残された資料の中から、彼が発見した原資料について触れ、次の様に書いている。
- 「マーサ・ワシントンにはアン・ダンドリッジという名の、混血で異母妹の奴隷がいた。アンはマーサの息子ジョン(アンにとっては甥)との間に子供ができた」
ビンセックによればとりわけこのできごとが、ジョージ・ワシントンをして奴隷制度を「不快なこと」と言わしめ、後にワシントンが奴隷をすべて解放する決断に影響しただろうとしている。アン・ダンドリッジの存在に関する他の資料としては、ヘレン・ブライアンの2001年の著作「マーサ・ワシントン:自由のファーストレディ」が存在する。この本でブライアンはビンセックの研究を引き合いに出し、「影の妹」はマーサの歳に近く、子供の時から共に育ったとしている。
ビンセックは以前の歴史家が、アンという妹の存在を示す証拠文書を無視したと書いている。ブラディは著書の終わりの伝記的注釈でマーサの異母妹の存在を否定し、ビンセックとブライアンは「家庭内神話」と「言い伝え」を受け入れたのだと主張している。ブラディはビンセックが発見した、バージニア歴史協会とワシントンD.C.の文書庫にあるアン・ダンドリッジの解放が記録されている証拠文書については、審査を要求していない[1]。この疑問が残る文書の評価においてビンセックは、カスティス農園の記録とマウントバーノン農園の奴隷の記録から、アン・ダンドリッジが削除されたと主張している。何年もプランテーションの家族を研究してきたビンセックは、奴隷と奴隷所有者の間の家族の絆はしばしば秘密にされたと考えている。
カスティスの遺産 [編集]
ダニエル・パーカー・カスティスが子孫に残した不動産の一部は、最終的には南北戦争の間に、マーサの孫ジョージの養子ロバート・E・リーから没収された。この土地は後にアーリントン国立墓地となっている。1882年、何年にもわたる下級裁判所での裁判の後に、アーリントン国立墓地の所有権に関する訴訟はアメリカ合衆国最高裁判所に上告された。最高裁は巡回裁判所の判決を支持し、問題の財産はリー家に属するとし、合衆国議会はリー家から、総額15万ドルでその資産を買い上げることにした。
名前・肖像を残すもの [編集]
- 1902年には、アメリカ合衆国の郵便切手で記念された最初の女性となった。
- マーサは彼女の名前に因んで名付けられたガレー船、USSレディ・ワシントンを所有していた。この船は合衆国の軍船で初めて女性の名前が付けられ、また初めて生存人物の名前が付けられたものである。
- 1787年からアメリカ太平洋岸北西部探検を行ったレディ・ワシントン号も彼女に因む。またレディ・ワシントンはに日本に来航した最初のアメリカ船となった(1791年)。
- 大統領1ドル硬貨の法律のもと、ファーストレディ硬貨プログラムが合衆国造幣局に、栄誉を称える10ドル金貨の発行を許可した。マーサ・ワシントンの金貨は2007年5月13日に発行されている。
・絶滅した、リョコウバトの最後の一羽の愛称「マーサ」も、彼女の名から取ったものである。
脚注 [編集]
- ^ Liber H., #8, p. 382; Liber R, #17, p. 288.
関連項目 [編集]
参考文献 [編集]
- Brady, Patricia. "Martha Washington: An American Life." Viking/Penquin Group, New York, New York, 2005. ISBN 0-670-03430-4.
- Wiencek, Henry. "An Imperfect God: George Washington, His Slaves, and the Creation of America." Farrar, Straus and Giroux, New York, hardbound edition 2003, paperback edition 2004. ISBN 0-374-52951-5.
外部リンク [編集]
| 先代: 合衆国独立 |
アメリカ合衆国ファーストレディ 1789年 - 1797年 |
次代: アビゲイル・アダムズ |
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