マンサ・ムーサ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
マンサ・ムーサ
Mansa Musa
マリ帝国の王(マンサ)
Mansa Musa.jpg
カタロニア地図カタロニア語版に記載された、金塊を手にするマンサ・ムーサ
在位 1312年 - 1337年
全名 マンサ・カンク・ムーサ
出生 不明
死去 1337年?
子女 マガン2世
王朝 ケイタ朝
父親 Faga Laye
テンプレートを表示

マンサ・ムーサمانسا موسىMansā Mūsā)は、マリ帝国の10代目の王(マンサ)。マンサ・ムサとも表記される。カンク・ムーサ(Kankou Musa)、カンゴ・ムーサ(Kango Musa)、カンカン・ムーサ一世(Kankan Musa I)とも。この王の時代からマンサ・スレイマン(Mansa Suleyman,在位:1341年 - 1360年)の時代までにマリ帝国は最盛期を誇った。現在の価値にして約4000億ドル(約35兆円)という人類史上最高の総資産を保有した[1]

血統と即位[編集]

イブン・ハルドゥーンの年代記に基づくマリ王国歴代王の系譜図[2]
イドリースィー1154年製作の世界地図(上が南方向)。世界を取り囲む大洋を示す。
現代のセネガルピローグフランス語版と呼ばれる舟。

マリ王国の歴代の王たちについての知見は、アル=ウマリー英語版、アブー・サイード・ウスマン・アッ=ドゥッカーリー、イブン・ハルドゥーンイブン・バットゥータなどのアラビアの学者が書き残した書物から得られる[3]。サイード・アッ=ドゥッカーリーは、マリ王国に35年間住んだ人物で、アル=ウマリーが西スーダーン事情について聞き取りを行った人物である[4]。イブン・ハルドゥーンのマリ歴代王についての包括的な歴史叙述によると、マンサー・ムーサーの祖父はアブー・バクル[注釈 1]・ケイタといい、口誦で伝えられる歴史に記憶されるマリ王国の開祖、スンジャータ・ケイタ英語版の兄弟であるという。アブー・バクル自身は王に即位することなく、息子でありムーサーの父にあたるファガ・ライエも歴史に重要な役割を果たしていない[5]

当時のマリには、王がメッカ巡礼に行くか、他の難行に挑むかする場合には摂政を立て、王が戻らない場合には摂政を後継者として指名するという習わしがあった。ムーサーもこの習わしを経て王に即位した。マムルーク朝の学者アル=ウマリーが著した『諸都市の諸王国に関する視覚の諸道(Masālik al-abṣār fī mamālik al-amṣār)』によると、前王アブーバカリー・ケイタ2世が大西洋の果てを探す探検に出発する際に、ムーサーを摂政に立てた。前王は船に乗り込み、海の果てを目指して旅立ったが、二度と戻らなかったという。マンサー・ムーサーはメッカ巡礼の帰りに立ち寄ったカイロで、懇意となったカイロの有力者に次のように語ったという。

朕の前の支配者は、大地の周りを取り囲む大洋の果てにたどり着くことが不可能であるとは信じなかった。彼は大洋の果てを探すことを欲し、探検計画を遂行することにした。そこでまずは、200艘の舟いっぱいに人を乗り組ませ、また、金と水と物資を数年間は持つようにどっさり積み込んだ船団を別に用意した。前王は提督に、大洋の果てにたどり着くか、又は、水と食料が尽きてしまうまで、戻ってくるなと命じた。そうして先遣隊は出発した。長い月日が経って、ようやく一艘だけが戻った。船頭は訊問に答えて、「おお、陛下、私どもはずっと航海を続けた末に、大海の中ほどを巨大な川が流れているところに出くわしました。私どもの舟はしんがりを務めておりましたが、前にいた舟は皆、大渦巻に飲み込まれて沈んでしまい、二度と浮かび上がってきませんでした。私はこの流れから逃げて引き返したのでございます。」と述べた。しかしながら、前王は船頭の言葉を信じようとしなかった。今度は2000艘の舟いっぱいに人を乗り組ませ、彼自身も乗り組んだ。水と物資も先遣隊より多く1000艘の舟に積み込んだ。そして、不在の間の統治を朕に任せ、配下の者どもと共に旅立ったのであるが、二度と戻ってはこなかった。生死も不明である。

Gaudefroy-Demombynes (1924)による仏訳の英訳の日本語訳[注釈 2]

また、ムーサーがメッカ巡礼に行って留守の間には、やはりこの習わしにしたがって、ムーサーの息子でマリ王国の次代の王となったマガン・ケイタが摂政に立てられていた[6]

メッカ巡礼[編集]

マンサ・ムーサは1324年メッカ巡礼で有名である。豪華なムーサの一行は周辺の国家にマリ帝国の富裕さを知らしめた。一行はニジェール川上流の首都ニアニからワラタ(現ウアラタモーリタニア)、タワト(現在のアルジェリアの都市)を通った。途上で訪れたカイロでは莫大な黄金をばらまいたため、金相場が暴落し10年以上の間インフレーションが続いたといわれる[1]。ムーサのメッカ巡礼後にマリを訪れたマムルーク朝の学者アル=ウマリー(en)はこの様子を次のように表している。「エジプトでの金の価格は彼ら(マンサ・ムーサ一行)が来たあの年(1324年)までは高かった。1ミスカル(mithqal、4.25グラム)の金は25ディルハム(通貨単位)を下回ることはなく、常にそれを上回っていた。しかしその時以来金の価格は下落し現在も下がり続けている。1ミスカルの金の価格は22ディルハムを下回った。そのときから約12年たった今日でもこのような状態であるのは、彼らがエジプトに持ち込み、ばら撒いていった大量の金が原因である」[7]

巡礼後の治世[編集]

1350年ごろのマリ王国の版図
1350年ごろのマリ王国の版図

メッカから帰る長い旅の途中の1325年にムーサーは、サグマンディア将軍に率いられた自国の軍勢がニジェール川沿いの交易都市ガオを再び占領したという知らせを耳にした。ガオは元はソンガイ王国の都のあった重要な交易都市であり、マンサー・サークーラフランス語版による遠征以来、マリ王国の版図に組み入れられていたが、たびたび反乱を起こしていた。ムーサーは遠回りしてガオに立ち寄り、ガオの王ヤシボ(又はアシバイ)の二人の息子、アリー・コロンとスライマーン・ナル(又はネーリ)を人質として受け取った。ムーサーは二人を自分の宮廷に連れて帰り、そこで教育を施した[8][注釈 3]

周辺地域の征服[編集]

マリ帝国は先代の王からの征服事業により支配地域を拡大していった。マンサ・サクラ(1285年 - 1300年)の治世でのガオ征服はその例である。ムーサ自身も西方のテクルールを征服し、東方はハウサ諸国との境界まで領土を拡大した。このような周辺地域の平定により上記の大規模なメッカ巡礼が可能になった。

建設事業[編集]

敬虔なイスラム教徒であったムーサはトンブクトゥとガオにモスクマドラサを建設するという大事業に乗り出した。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ サハーバアブー・バクルとは無関係でアラビア語のBakariと同等の意味。本来の名前は不明。
  2. ^ 原文はアラビア語。原文からの英訳はほかにも、Levtzion & Hopkins 1981, pp268-269. により提供されている。この引用部分については、Echos of What Lies Behind the 'Ocean of Fogs' in Muslim Historical Narrativesも参照されたい。
  3. ^ 二人の兄弟は1335年に逃亡しガオ王国を再興したとされるが[9]異説もあり、Charles Monteil は1335年ではなくむしろ1275年であるとしている[10]

出典[編集]

  1. ^ a b クーリエ・ジャポン,2013年3月号,P13
  2. ^ Levtzion 1963, p. 353.
  3. ^ 赤阪 2010, p. 198.
  4. ^ 苅谷 2013.
  5. ^ Levtzion 1963, pp. 341–347.
  6. ^ Levtzion 1963, p. 347.
  7. ^ Bowman, Dorian. “Kingdom of Mali”. Boston University. 2009年9月9日閲覧。
  8. ^ Delafosse 1912, pp. 72-74(volume.2 l'histore)
  9. ^ Delafosse 1912, p. 73(volume.2 l'histore)
  10. ^ Jean Rouch Les Songhay L'Harmattan, 2007 2747586154

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

先代:
アブバカリ2世
マリ帝国の王
10代目
マンサ・ムーサ
1312年 - 1337年
次代:
マガン2世