フローレンス・プライス

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フローレンス・プライス
基本情報
出生名 Florence Beatrice Smith
生誕 (1887-04-09) 1887年4月9日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 アーカンソー州
死没 (1953-06-03) 1953年6月3日(66歳没)
学歴 ニューイングランド音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 作曲家

フローレンス・プライス英語: Florence Price1887年4月9日 - 1953年6月3日)は、アメリカ合衆国作曲家。アメリカ初の黒人女性の作曲家。旧姓はスミス(Smith)。

経歴[編集]

1887年、アーカンソー州生まれ。ソプラノ歌手でピアニストの母親から音楽教育を受け、14歳の時にニューイングランド音楽院に入学した(出自はメキシコ系と偽っていた)。ニューイングランド音楽院では作曲対位法ジョージ・ホワイトフィールド・チャドウィックフレデリック・コンヴァースに師事し、最初の弦楽三重奏曲交響曲を完成させ、1907年に卒業した。

1907年から1927年にかけてアーカンソー州で教職につき、1912年には弁護士のトーマス・J・プライスと結婚した。しかし1927年、リトルロックでリンチ事件が続発したため、一家はシカゴに移住した。シカゴで作曲・管弦楽法オルガンをアーサー・オラフ・アンダーソン、カール・ブッシュ、ウェズレー・ラ=ヴァイオレット、レオ・サワビーらに学び、1928年に4つのピアノ小品を出版した。さらにシカゴ音楽大学シカゴ教育大学シカゴ大学アメリカ音楽院などで聴講し、音楽、語学、リベラル・アーツを学んだ。

1931年に経済的苦境と虐待が原因でプライスと離婚し、2人の娘を単身で育てることとなったため、別名で無声映画伴奏のためにオルガンを弾く一方、ラジオ広告用の音楽を手掛けた。同居していた友人の縁でラングストン・ヒューズマリアン・アンダーソンと親交を結んだことが、彼女のキャリアに貢献することとなる。

1932年、ワナメイカー財団賞に応募した交響曲第1番ホ短調が1等賞を、ピアノソナタが2等賞を獲得し、交響曲第1番は翌年にシカゴ交響楽団で初演された。その後、4つの交響曲(第2番は紛失、第3番第4番)、『アメリカにおけるエチオピアの陰』などの管弦楽曲、3つのピアノ協奏曲ヴァイオリン協奏曲室内楽曲、オルガン曲、ピアノ曲、歌曲などを作曲し、黒人霊歌の編曲も手がけた。その作品は南部の伝統が顕著にうかがえる。1953年にシカゴで脳卒中のため死去した。

プライスの作品の多くは長く行方不明となっていたが、2009年に彼女の旧別荘でその大部分が発見されたことで演奏・録音されるようになった。

文献[編集]

  • Ammer, Christine. Unsung: A History of Women in American Music. Portland Oregon, Amadeus Press, 2001
  • Brown, Rae Linda. “Price, Florence Smith” <http://www.grovemusic.com>
  • Perkins, Holly Ellistine. Biographies of Black Composers and Songwriters; A Supplementary Textbook. Iowa:Wm. C. Brown Publishers, 1990.

脚注[編集]


外部リンク[編集]