フィリップ王戦争

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フィリップ王戦争
1675年6月~1676年8月
場所 マサチューセッツコネチカットロードアイランドメーン
結果 白人入植者の勝利
衝突した勢力
ワンパノアグ
ニプマク族
ポデュンク族
ナラガンセット族
ナシャウェイ族
ニューイングランド連邦
モヘガン族
ピクォート族
指揮官
いない ジョシア・ウィンスロー,
ジョン・レベレット,
ジョン・ウィンスロープJr,
ウィリアム・ターナー
ベンジャミン・チャーチ
戦力
約3400人 約3500人
被害者数
4000人強 約600人

フィリップ王戦争(King Philip's War)とは、1675年6月から翌年8月まで、ニューイングランドで白人入植者とインディアン諸部族との間で起きたインディアン戦争民族浄化)。フィリップ王とはワンパノアグ族の酋長メタコメット(メタコム)の事で、白人入植者は彼をそう呼んでいた。

概要[編集]

イギリス白人がニューイングランドと名付けた入植地で、彼らはワンパノアグ族から手厚い保護を受け、食料を贈られ厳しい冬の飢餓と寒さを越えることが出来た。しかし白人たちの入植地の拡大はエスカレートし、やがてはインディアンたちの領土をよこせ、と要求し始めた。

インディアンにとって土地は共有財産であり、だれのものでもなかった。しかし白人の要求は、インディアンすべてを立ち退かせる排他的なものだった。当然インディアンたちは激怒した。また白人はこの取り決めを「公平」に「条約」で行おうとし、その署名者として彼らの酋長を選んだ。

しかしインディアンの社会は、白人の独任制と違い、合議制である。部族を代表する首長君主は存在しない。酋長はあくまで調停者であって、部族を代表するものではないのだが、白人にはこれが理解できなかった。入植者は酋長と盟約すればワンパノアグ族は納得するものと思い込んだが、これは全くの思い違いである。

元々ワンパノアグ族は白人入植者達に対して友好関係を築いており、1620年酋長のマサソイトは慣れない環境による寒さや病気、飢えで苦しむ白人入植者を助け、平和と友情による条約を結んでいる。1621年の秋、感謝祭の際にもマサイットは多くの食料を持参して列席している。

しかし急激に増加した白人の入植者は、彼らインディアンの土地を売るように要求したり、強引なキリスト教への改宗強制や、インディアンに不利な裁判を行い、インディアンの白人に対する反感を買い始めた。インディアンに「土地を売る」という概念はそもそもなかったし、個人の選択として宗教を受け入れることはあったが、部族全体を従わせようとする白人の思考はインディアン共同体には理解不可能だった。

さらに白人と友好を築いていたマサソイト酋長が死ぬとさらに状況は悪化する。マサソイト死後、ワンパノアグ族の新酋長は息子のワムスッタ(アレキサンダー)になるが、白人側は彼らが住む土地にまで入植地を拡大して行った。そのためワムスッタは「調停者」たるインディアンの酋長の役目として、白人が父マサソイトに要求して結んだ入植の土地の譲渡と和平条約に異議申し立てをプリマス入植地で行い、侵略行為を止めるよう説得した。が、プリマス入植地から村に帰る途中、ワムスッタはなぜか病気(毒殺されたとも言われる)による謎の死を遂げてしまう。

そして新たに24歳のワムスッタの弟メタコメットが新酋長になると、白人との関係はさらに悪化して行った。メタコメットも兄ワムスッタと同様に、調停者として最大の努力を払い、白人との友好関係を続けていくことに苦心していた。

しかし誇り高いワンパノアグ族とメタコメット酋長は、合議の結果、部族の土地を侵す白人に対して、ついに宣戦布告の準備を始めた。1675年6月25日キリスト教に改宗したワンパノアグ族で、ハーバード大学のインディアン・カレッジで学んだジョン・ササモンが、プリマス入植地の総督ジョシア・ウィンスローに「ワンパノアグ族のメタコメット酋長が白人に対して戦争準備をしている」と通報したが、その後ササモンは別部族のインディアンに殺されてしまった。

ニューイングランドのインディアン部族はこれ以上白人の横暴を許せなかった。メタコメット酋長らのワンパノアグ族は、ニアンティック族ペナクック族ノーセット族らワンパノアグ族と同盟を結んでいた部族と共同して、プリマス入植地を攻撃した。攻撃された入植地の白人側も武装して、ワンパノアグ族と敵対するモヒカン族モホーク族などの部族を味方に付け全面戦争が勃発。インディアン側はニプマック族ナラガンセット族も参戦。プリマス入植地総督のウィンスローはナラガンセット族の婦女子を大虐殺し、怨みを買っていた。

戦闘[編集]

戦争はマサチューセッツ植民地とコネチカット植民地を引き込んでのニューイングランド全域に及んだ[1]。インディアン側は52のタウンを襲撃し、12のタウンを壊滅させた[1]。1676年に入ると、ニューイングランド植民地連合軍は、植民地で採用された民兵、ミニットマンを活用し反撃した[1]ナラガンセット族カノンチェット酋長(白人は指導者と見ていた)が1676年4月3日に逮捕及び処刑され、白人に対して反旗を翻し戦いを挑んだワンパノアグ族ではメタコメット酋長が3ヵ月後の8月12日に戦死し、侵略者側が勝利する形で戦争は終結する。

その後[編集]

戦いで600人の白人入植者と4000人以上のインディアンが犠牲となり死んだ。戦死したメタコメット酋長の遺体は白人達により八つ裂きにされ、首は槍の先に突き刺され、白人達の村に24年間飾られた。そして捕虜となったメタコメット酋長の家族を始めとするインディアン達は奴隷として西インド諸島などに売り飛ばされて行った。

インディアンに「司令官」はいないという、彼らの文化は白人には理解できなかった。侵略者はただメタコメットを「戦争を始めた首謀者」と一方的に見なし、理不尽な辱めをこれに与えて勝利を祝ったのである。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 世界の歴史21, p28

参考文献[編集]

  • 『Readings in Jurisprudence and Legal Philosophy』Felix S. Cohen、1952年)
  • 『アメリカインディアン 奪われた大地』(フィリップ・ジャカン、創元社、1992年)
  • 『CRAZYHORSE』(Larry McMurtry、Penguin LIVES、1999年)
  • 五十嵐武士・福井憲彦 『アメリカとフランスの革命(世界の歴史 21)』 中央公論社、1998年3月。ISBN 4-12-403421-0

関連項目[編集]